第6話 祭りの夜と、繋いだ手
太鼓の音が、山の向こうから聞こえてきた。
秋祭り。
リンデンバートの年に一度の祭りだと、マルタが朝食の時に教えてくれた。温泉の恵みに感謝する行事で、町中に屋台が出て、夜には花火も上がるらしい。
「お嬢さん、これ着てきな」
マルタが差し出したのは、この地方独特の祭り衣装だった。薄い麻地に草花の刺繍が入った上衣と、ゆったりとした長裙。王都では見かけない素朴なつくりで、前世の浴衣にどこか似ている。
「いいんですか?」
「あたしの若い頃のだからサイズが合うかは知らないけどね。祭りは祭り衣装で行くもんだよ」
鏡の前で着替えてみると、思ったより悪くなかった。刺繍の青い花が、少しだけ華やかな気分にしてくれる。
(……十年ぶりに、お洒落らしいお洒落をした気がする)
書記局にいた頃は地味な書記官服しか着なかった。社交の場に出る機会もない。没落男爵家の下級書記官に、着飾る理由なんてなかったから。
でも今日は、祭りだ。理由なんか要らない。
◇
祭りの広場は、小さな温泉街とは思えないほど賑わっていた。
屋台が通りの両側にずらりと並んで、焼き肉の煙と飴菓子の甘い匂いが混じり合っている。子どもたちが走り回り、楽団が陽気な曲を奏でている。
人波の向こうに、見覚えのある背中が見えた。
暗い紺の──じゃない。
白。白い上衣に、紺の帯。祭り衣装だ。あの無愛想な青年が、この土地の祭り衣装を着ている。
(……誰かに着せられたな、あれは)
袖の通し方がぎこちない。帯の結び目が微妙にずれている。普段の外套姿とは打って変わって、どこか所在なさげに人波の端に立っていた。
「似合いますよ」
後ろから声をかけると、青年が振り返った。
暗い瞳が私を見て──一瞬だけ、逸れた。
ほんの一拍。視線が私の顔から横にずれて、すぐに戻った。
「……ああ」
いつもの短い返事。でも耳の先が、ほんの少しだけ赤い。
(気温のせいかな。夕方は冷えるから)
「屋台、回りませんか?」
◇
焼き栗の屋台。干し果物の飴がけ。温泉地名物の塩饅頭。
二人で並んで屋台を冷やかしながら歩いた。青年は相変わらず無口だったけれど、焼き栗を一つ口に入れた時、眉間の皺がほんの一瞬だけ緩んだのを、私は見逃さなかった。
(おいしかったんだ。あの顔で)
射的の屋台の前で足が止まった。
棚に並んだ景品の中に、ふわふわした白い小熊のぬいぐるみがある。温泉街の名物らしく、小さな桶を抱えている。かわいい。でも射的は苦手だ。前世でも今世でも、こういうのは当たった試しがない。
「……やるか」
青年が屋台の主人に銅貨を渡して、木製の弾銃を受け取った。
構えた瞬間に、空気が変わった。
それまでの所在なさげな雰囲気が消えて、弾銃を持つ手が微動だにしない。長い指が引き金にかかり、狙いを定めて──
パン。パン。パン。
三発。三発とも的の中心。
屋台の主人が目を丸くしている。私も目を丸くしていた。
青年が無表情のまま弾銃を返し、棚の上段から白い小熊のぬいぐるみを取り下ろした。
「……いらないか?」
差し出された。
(いや、全弾命中しておいて「いらないか」って聞く人初めて見た)
「いただきます」
小熊を受け取る。ふわふわしている。桶を抱えた小熊が、丸い目でこちらを見ている。
「ありがとうございます」
青年は何も言わず、次の屋台に向かって歩き始めた。
◇
祭りが佳境に差しかかった頃、人がどっと増えた。
花火を見るために広場に人が集まり始めたらしい。通りが一気に狭くなって、四方から押されるように人波に飲み込まれた。
「あ──」
背の高い男の人に肩をぶつけられて、よろめいた。青年の姿が人の頭の向こうに消えかける。
──手が、伸びてきた。
大きな手だった。長い指が、私の手首を掴んで、引いた。無言で。
人波を割るように、青年が私を自分の隣まで引き寄せた。背中で人混みを遮るように立って、私を壁際に導く。
手首を掴んでいた手が、いつの間にか──手のひらを包むように変わっていた。
私の手は小さい。前世から小さかった。あの人の手は大きくて、指が長くて、少しだけペンだこがある。書き物をする人の手だ。
花火が上がった。
空に赤い花が咲いて、歓声が湧く。二発目は青。三発目は金色。光が夜空を彩るたびに、周囲の人たちの顔が照らされる。
手は、繋がったままだった。
花火が終わっても。人混みが少しずつ引いていっても。
──離さない。
しばらく歩いて、広場を抜けて、通りが静かになった頃。
青年が手を離した。
離す瞬間、指先に──ほんの一瞬だけ──力が入った。ぎゅっ、と。つかんで、放して。
(……人混みが怖かったのかな、この人)
私も人混みは得意じゃない。緊張で手に力が入ることはある。きっとそれと同じだろう。
「ありがとうございました。はぐれなくて助かりました」
「……ああ」
いつもの一音。でも、今日はその「ああ」が少し遅かった。
◇
祭りの前日──。
リンデンバートの宿のロビーに、見慣れない男が立っていた。
二十代半ばの、くたびれた旅装の書記官。王都から五日かけて馬車で来たらしく、靴に泥がこびりついている。
「リヒター嬢に至急お会いしたい。書記局のヘルツ次長からの使いです」
マルタが帳場から顔を出した。
その背後に──レオンハルトがいた。帳場の横の椅子に座って、書類を読んでいるふりをしていた。
使者の言葉を聞いて、レオンハルトの指が止まった。
「書記局は大変なことになっているんです。ヘルツ次長がリヒター嬢を至急呼び戻したいと──」
レオンハルトが立ち上がった。
使者の方を見もせず、マルタの横に歩み寄り、低い声で言った。
「あの客人は休暇中だ。仕事の用件なら、取り次がないでほしい」
マルタが目を細めた。数秒、レオンハルトの顔を見つめてから、小さく頷いた。
「わかったよ。──ごめんね、お兄さん。あの子は今いなくてね。いつ戻るかもわからないんだよ」
使者は不満げだったが、手紙だけを預けて宿を出た。
マルタが手紙をレオンハルトに渡す。封蝋に書記局の紋章。
レオンハルトは封を切らずに、手紙を自分の外套の内ポケットにしまった。
渡すべきかどうか。一晩、考える。
──結局、翌朝になっても、渡さなかった。
◇
宿の部屋に帰って、祭り衣装を脱ぐ。小熊のぬいぐるみをベッドの上に置いた。
丸い目がこちらを見ている。桶を抱えた白い小熊。三発三中の景品。
(あの人、射的がうますぎる。監査官の腕じゃないでしょ、あれ)
名前も聞いていないことに、今更ながら気づいた。
一週間以上も毎日隣に座って、饅頭を分けて、仕事の話をして、祭りで手を繋いで。
なのに──名前を、知らない。
(……あの人、何者なんだろう)
聞きたい。でも、聞いたら何かが変わってしまう気がする。ここでは「ただの人」でいられた。名前も身分もない、ベンチの隣の人。
窓の外に、祭りの後の静けさが広がっている。遠くで片付けの音がする。
手のひらに、まだあの人の指の感触が残っている。
──人混みの緊張のせいだと、思っておく。




