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社畜令嬢は有給休暇をご所望です!  作者: 九葉(くずは)


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第6話 祭りの夜と、繋いだ手

太鼓の音が、山の向こうから聞こえてきた。


秋祭り。


リンデンバートの年に一度の祭りだと、マルタが朝食の時に教えてくれた。温泉の恵みに感謝する行事で、町中に屋台が出て、夜には花火も上がるらしい。


「お嬢さん、これ着てきな」


マルタが差し出したのは、この地方独特の祭り衣装だった。薄い麻地に草花の刺繍が入った上衣と、ゆったりとした長裙。王都では見かけない素朴なつくりで、前世の浴衣にどこか似ている。


「いいんですか?」


「あたしの若い頃のだからサイズが合うかは知らないけどね。祭りは祭り衣装で行くもんだよ」


鏡の前で着替えてみると、思ったより悪くなかった。刺繍の青い花が、少しだけ華やかな気分にしてくれる。


(……十年ぶりに、お洒落らしいお洒落をした気がする)


書記局にいた頃は地味な書記官服しか着なかった。社交の場に出る機会もない。没落男爵家の下級書記官に、着飾る理由なんてなかったから。


でも今日は、祭りだ。理由なんか要らない。



祭りの広場は、小さな温泉街とは思えないほど賑わっていた。


屋台が通りの両側にずらりと並んで、焼き肉の煙と飴菓子の甘い匂いが混じり合っている。子どもたちが走り回り、楽団が陽気な曲を奏でている。


人波の向こうに、見覚えのある背中が見えた。


暗い紺の──じゃない。


白。白い上衣に、紺の帯。祭り衣装だ。あの無愛想な青年が、この土地の祭り衣装を着ている。


(……誰かに着せられたな、あれは)


袖の通し方がぎこちない。帯の結び目が微妙にずれている。普段の外套姿とは打って変わって、どこか所在なさげに人波の端に立っていた。


「似合いますよ」


後ろから声をかけると、青年が振り返った。


暗い瞳が私を見て──一瞬だけ、逸れた。


ほんの一拍。視線が私の顔から横にずれて、すぐに戻った。


「……ああ」


いつもの短い返事。でも耳の先が、ほんの少しだけ赤い。


(気温のせいかな。夕方は冷えるから)


「屋台、回りませんか?」



焼き栗の屋台。干し果物の飴がけ。温泉地名物の塩饅頭。


二人で並んで屋台を冷やかしながら歩いた。青年は相変わらず無口だったけれど、焼き栗を一つ口に入れた時、眉間の皺がほんの一瞬だけ緩んだのを、私は見逃さなかった。


(おいしかったんだ。あの顔で)


射的の屋台の前で足が止まった。


棚に並んだ景品の中に、ふわふわした白い小熊のぬいぐるみがある。温泉街の名物らしく、小さな桶を抱えている。かわいい。でも射的は苦手だ。前世でも今世でも、こういうのは当たった試しがない。


「……やるか」


青年が屋台の主人に銅貨を渡して、木製の弾銃を受け取った。


構えた瞬間に、空気が変わった。


それまでの所在なさげな雰囲気が消えて、弾銃を持つ手が微動だにしない。長い指が引き金にかかり、狙いを定めて──


パン。パン。パン。


三発。三発とも的の中心。


屋台の主人が目を丸くしている。私も目を丸くしていた。


青年が無表情のまま弾銃を返し、棚の上段から白い小熊のぬいぐるみを取り下ろした。


「……いらないか?」


差し出された。


(いや、全弾命中しておいて「いらないか」って聞く人初めて見た)


「いただきます」


小熊を受け取る。ふわふわしている。桶を抱えた小熊が、丸い目でこちらを見ている。


「ありがとうございます」


青年は何も言わず、次の屋台に向かって歩き始めた。



祭りが佳境に差しかかった頃、人がどっと増えた。


花火を見るために広場に人が集まり始めたらしい。通りが一気に狭くなって、四方から押されるように人波に飲み込まれた。


「あ──」


背の高い男の人に肩をぶつけられて、よろめいた。青年の姿が人の頭の向こうに消えかける。


──手が、伸びてきた。


大きな手だった。長い指が、私の手首を掴んで、引いた。無言で。


人波を割るように、青年が私を自分の隣まで引き寄せた。背中で人混みを遮るように立って、私を壁際に導く。


手首を掴んでいた手が、いつの間にか──手のひらを包むように変わっていた。


私の手は小さい。前世から小さかった。あの人の手は大きくて、指が長くて、少しだけペンだこがある。書き物をする人の手だ。


花火が上がった。


空に赤い花が咲いて、歓声が湧く。二発目は青。三発目は金色。光が夜空を彩るたびに、周囲の人たちの顔が照らされる。


手は、繋がったままだった。


花火が終わっても。人混みが少しずつ引いていっても。


──離さない。


しばらく歩いて、広場を抜けて、通りが静かになった頃。


青年が手を離した。


離す瞬間、指先に──ほんの一瞬だけ──力が入った。ぎゅっ、と。つかんで、放して。


(……人混みが怖かったのかな、この人)


私も人混みは得意じゃない。緊張で手に力が入ることはある。きっとそれと同じだろう。


「ありがとうございました。はぐれなくて助かりました」


「……ああ」


いつもの一音。でも、今日はその「ああ」が少し遅かった。



祭りの前日──。


リンデンバートの宿のロビーに、見慣れない男が立っていた。


二十代半ばの、くたびれた旅装の書記官。王都から五日かけて馬車で来たらしく、靴に泥がこびりついている。


「リヒター嬢に至急お会いしたい。書記局のヘルツ次長からの使いです」


マルタが帳場から顔を出した。


その背後に──レオンハルトがいた。帳場の横の椅子に座って、書類を読んでいるふりをしていた。


使者の言葉を聞いて、レオンハルトの指が止まった。


「書記局は大変なことになっているんです。ヘルツ次長がリヒター嬢を至急呼び戻したいと──」


レオンハルトが立ち上がった。


使者の方を見もせず、マルタの横に歩み寄り、低い声で言った。


「あの客人は休暇中だ。仕事の用件なら、取り次がないでほしい」


マルタが目を細めた。数秒、レオンハルトの顔を見つめてから、小さく頷いた。


「わかったよ。──ごめんね、お兄さん。あの子は今いなくてね。いつ戻るかもわからないんだよ」


使者は不満げだったが、手紙だけを預けて宿を出た。


マルタが手紙をレオンハルトに渡す。封蝋に書記局の紋章。


レオンハルトは封を切らずに、手紙を自分の外套の内ポケットにしまった。


渡すべきかどうか。一晩、考える。


──結局、翌朝になっても、渡さなかった。



宿の部屋に帰って、祭り衣装を脱ぐ。小熊のぬいぐるみをベッドの上に置いた。


丸い目がこちらを見ている。桶を抱えた白い小熊。三発三中の景品。


(あの人、射的がうますぎる。監査官の腕じゃないでしょ、あれ)


名前も聞いていないことに、今更ながら気づいた。


一週間以上も毎日隣に座って、饅頭を分けて、仕事の話をして、祭りで手を繋いで。


なのに──名前を、知らない。


(……あの人、何者なんだろう)


聞きたい。でも、聞いたら何かが変わってしまう気がする。ここでは「ただの人」でいられた。名前も身分もない、ベンチの隣の人。


窓の外に、祭りの後の静けさが広がっている。遠くで片付けの音がする。


手のひらに、まだあの人の指の感触が残っている。


──人混みの緊張のせいだと、思っておく。

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