第5話 その人がいなくなった時に
風が変わった。山から降りてくる空気に、少しだけ秋の深い匂いが混じっている。
休暇七日目。リンデンバートに来てもう一週間になる。信じられない。王都にいた頃は一日が三日分くらいの密度で過ぎていったのに、ここでは時間がとろとろと蜂蜜みたいに流れる。
朝のベンチ。いつもの場所。
──あの人が、書類を閉じていた。
珍しい。ここに来て一週間、あの青年が膝の上に書類を広げていなかったことは一度もない。革鞄は足元にあるけれど、中身は出ていない。代わりに、組んだ指を膝に置いて、ぼんやりと木々を見ている。
眉間の皺は相変わらずだけど、いつもの「書類を睨む」皺とは少し違う。考え事をしている顔だ。
「今日は書類をお休みですか?」
隣に座って声をかけると、暗い瞳がこちらを向いた。
「……少し、考えがまとまらなくてな」
(この人が「まとまらない」って言うの、初めて聞いた)
いつも無愛想で、短い言葉しか使わなくて、質問には一言で答えるこの人が。考えがまとまらない、と認めた。
なんとなく、じっとしているのが落ち着かないような空気を感じた。
「散歩でもしませんか? 天気がいいですし」
青年が私を見た。一拍。
「……ああ」
◇
温泉街を並んで歩いた。
これまでベンチで隣り合うことはあったけれど、歩くのは初めてだ。歩幅が全然違う。青年の足が長いぶん、私が二歩進む間にあの人は一歩半で済んでいる。
──でも、不思議と置いていかれなかった。無意識なのか、少しだけ歩調を緩めてくれている。
「あんたは」
唐突に、青年が口を開いた。
「何の仕事をしていたんだ」
聞かれた。ベンチで「休暇中に仕事の話は野暮」と前置きして聞いた私とは違って、この人はそういう前置きをしない。単刀直入。
「書類を整理したり、帳簿をつけたり……地味な仕事です」
嘘は言っていない。宮廷書記局の書記官だったとは言わなかったけど。ここでは肩書きなんて要らない。
青年の目が、一瞬だけ鋭くなった。
ほんの一拍。まばたき一回分。すぐに元の無表情に戻って、「……そうか」とだけ答えた。
(なんだろう、今の)
気のせいかもしれない。午後の日差しが目に入って、眩しかっただけかもしれない。
石畳の道を抜けて、温泉街の端にある小さな橋を渡る。橋の下を流れる小川が、きらきらと光を反射していた。
◇
夕方。ベンチに戻った。
太陽が山の稜線に近づいて、空がじわじわとオレンジ色に染まり始めている。風が冷たくなってきた。
青年が口を開いた。
「……一つ、聞いていいか」
「はい」
「ある組織で──一人の人間が抜けたら、全部が止まった」
低い声だった。二日前、「人の仕事を正しく評価する方法がわからない」と言った時と、同じ慎重な温度。
「その人間は十年もいたのに、誰もその人の仕事を正しく評価していなかった。上の人間は、その人の成果を自分のものにしていた。周りは、気づかなかった」
(……十年)
また、その数字。
「俺は──それを、見抜けなかった。調べて、初めて気づいた」
指を組んだ手に、微かに力がこもっているのが見えた。
「こういう時、どうすれば正しく評価できる?」
まっすぐな問いだった。
しばらく黙った。夕焼けの光がベンチを横から照らして、二人の影が公園の芝生に長く伸びている。
十年。誰にも評価されなかった。成果を奪われた。
──それは、知らない誰かの話なのに、喉の奥がきゅっと詰まった。
「……その人がいなくなった時に」
声が出た。自分でも驚くほど、するりと。
「何が困るかを見れば。それが──その人の本当の仕事です」
前世の経理部時代。年に一度の監査で、外部の会計士が私の帳簿を見て言った。『これ、一人で回してるんですか? 普通は五人分の業務量ですよ』。隣にいた上司は黙っていた。私も黙っていた。帳簿の整理法則も、ファイルの分類体系も、全部私の頭の中にしかなかった。
この世界でも同じだ。書記局の文書管理体系は、私が十年かけて作ったもの。引き継ぎ書はない。作れと言われたこともない。
──いなくなって初めてわかる仕事というのは、そういうもの。
「見えない仕事ほど、なくなった時に大きな穴が開く。穴の大きさが──その人の仕事の大きさです」
言い終えて、ふと隣を見た。
青年がペンを持っていた。いつの間にか革鞄からペンだけ取り出して、何かを書きつけようとしていたらしい。でもペンは止まっていた。紙の上に何も書かれていない。
代わりに、青年が──初めて──私の顔をまっすぐ見ていた。
正面から。暗い瞳が、夕焼けのオレンジを映して、ほんの少しだけ明るく見えた。
数秒。何も言わない。風だけが吹いている。
(……変なこと、言ったかしら)
一般論を言っただけのつもりだったんだけど。なんでそんなに真剣な顔で見るんだろう、この人。
「……すまない。もう少し早く聞くべきだった」
低い声がぽつりと落ちた。何に対する「すまない」なのか、よくわからなかった。
夕焼けが空を燃やしている。二人きりのベンチ。木の葉がさらさらと鳴る。
それ以上は何も聞かなかった。聞かなくても──何かが、届いた手触りがあった。
◇
王宮、書記局──。
テオ・バルツは、積み上がった帳簿の前で頭を抱えていた。
過去三年分の決算に、不整合が見つかった。数字が合わない。いや──合わせ方がわからない。
「テオ、この帳簿の整理法則はどうなっている」
同僚の書記官が聞いてくる。テオは首を振った。
「リヒター先輩にしかわからないんです。この分類体系、先輩が独自に作ったもので……」
「独自に? 引き継ぎ書は?」
「ありません。作れと言われたことも、なかったそうです」
同僚が帳簿をめくり、ため息をついた。
「……これ、本当にリヒター嬢が一人で?」
「はい。この三年分の月次集計も、年度末の決算照合も、全部先輩が──」
「待て。ヘルツ次長の功績報告書には、『書記局の業務効率化は次長の指導の下で達成された』と書いてあったぞ」
沈黙が落ちた。
テオは何も言わなかった。言えなかった。
別の同僚が、ぽつりと呟いた。
「あの人……こんなにたくさんの仕事を、一人でやってたのか」
◇
リンデンバートの夜。
ランプの灯りが窓の向こうに揺れている。レオンハルトは宿の部屋の椅子に座ったまま、窓の外の暗い山並みを見つめていた。
膝の上には、一枚の紙。今日、書こうとして──書けなかったメモ。
『その人がいなくなった時に、何が困るかを見れば。それが、その人の本当の仕事です』
あの女の言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
書類整理と、帳簿。十年。
書記局の文書管理体系を一人で構築した人物。引き継ぎ書のない独自のシステム。その人間がいなくなった途端に止まった組織。
──そして、目の前のあの女は。自分のことだとは、一ミリも気づいていなかった。
「……まずいな」
呟いた。
調査対象が、隣に座っているかもしれない。
そして──それとは別の何かが、胸の奥で小さく、厄介な音を立て始めている。
レオンハルトはランプの芯を絞り、暗い部屋の中で目を閉じた。




