第4話 上着と、見えない仕事
気がつけば、あのベンチに向かう足が、毎朝のルーティンになっていた。
休暇五日目。リンデンバートに来てからもう五日も経つのに、朝起きた瞬間に「仕事に行かなきゃ」と身体が跳ねることが、まだある。
枕に顔を押しつけて、三秒。
(……ここは温泉地。今日も休み。書類はない。ヘルツ次長もいない)
よし。
のろのろ起きて、顔を洗って、マルタの朝食を食べて、公園に向かう。
ベンチには、もう先客がいた。
暗い紺の外套。眉間の皺。膝の上の書類。三日前と何も変わらない。
(この人、本当に毎日同じ格好で同じ場所にいるな……前世のうちの部長を思い出す)
隣に座る。挨拶はしない。もう要らなくなった。ベンチの右端が彼の席、左端が私の席。暗黙の了解。
習慣。
本を開く。辺境の伝承集の続き。隣で紙がめくれる音。風が木の葉を揺らす音。遠くの温泉の湯けむり。
穏やかだった。世界から「やるべきこと」が全部消えて、残ったのがこの音だけ。
──うとうと、した。
◇
……あれ。
目を開ける。空の色が変わっている。昼の白から、午後の淡い金色。結構な時間、眠ってしまったらしい。
(やだ。人前で寝落ちするなんて、社会人として終わってる)
前世の職場で昼休みに机で寝たら「だらしない」と注意された記憶が蘇る。いや、あれは十五分の仮眠を取っただけなんだけど。日本のブラック企業って本当に──
肩に、何かがかかっていた。
外套。
暗い紺色の、見覚えのある生地。厚手で、少しだけ煙草のような……いや、違う。インクの匂い。書類に長時間触れている人の匂い。
顔を上げる。ベンチの反対端に、あの青年がいた。何事もなかったように書類を読んでいる。外套は──着ていない。白いシャツの上に薄手の上衣だけ。
(この上着、もしかして……)
「……寝てしまいました」
声をかけると、青年は書類から目を上げた。
「ああ」
それだけ。
上着のことには触れなかった。私も触れなかった。──触れたら、何かが変わってしまう気がしたから。たぶん。
(宿の人が通りがかりにかけてくれたのかもしれないし。この人の上着と同じ色だっただけで)
肩から外套を外して、ベンチの真ん中──二人の間──にそっと置いた。
青年は無言でそれを取り、膝の上に畳んだ。
風が少し冷たくなってきている。山あいの温泉地は、秋が深まると午後から気温が落ちる。
(眠ってる間、寒くなかったのは──)
考えかけて、やめた。
代わりに、自分に言い聞かせる。
──休むのに、理由はいらない。眠るのに、許可はいらない。だらしなくない。疲れてたんだから。
十年間、一日も休まなかった身体が「休んでいい」と信じるには、まだ時間がかかる。でも、少なくとも今、私は眠れた。人前で。知らない人の隣で。
それは、たぶん──悪くないこと。
◇
夕方。
散歩の帰りにベンチに寄ると、青年がまだいた。書類は閉じている。代わりに、膝の上で長い指を組んで、ぼんやりと木々を見ていた。
珍しい。あの人が書類を読んでいないのは、初めて見る。
「今日は書類をお休みですか?」
隣に座って声をかけると、青年がこちらを見た。
「……ああ。少し」
間があった。
「休暇中に仕事の話をするのは野暮ですが」
私は言った。「あなたは普段、何をしているんですか?」
まっすぐ聞くのは初めてだった。名前すら知らない相手に、踏み込んだことを聞いている自覚はある。でも──もう五日も隣に座っているのだ。少しくらいいいだろう。
青年が視線を正面に戻した。公園の木立。夕日が枝の間から差し込んで、地面にまだらの影を落としている。
「……人の仕事を、調べている」
短い答え。
「調べている?」
「ある組織の仕事が、どう回っているか。誰が何をしているか。正しく機能しているか」
(……それって)
「監査官みたいなものですか?」
冗談半分で言った。まさかこんな辺境の温泉地に本物の監査官がいるわけないし。
青年が一瞬だけ──ほんの一瞬だけ──唇の端を引いた。笑ったのか歪めたのか、判別がつかない。
「……そんなところだ」
曖昧な答え。まあ、これ以上は聞かない。
ところが、青年の方から口を開いた。
「……一つ、聞いていいか」
「はい」
「人の仕事を、正しく評価する方法がわからない時がある」
低い声だった。いつもの事務的な響きとは少し違う。言葉を選んでいるような、慎重な温度。
「ある人間が十年働いた。その間、誰もその人間の仕事を正しく見ていなかった。……見る方法が、なかったのかもしれない。俺は──それを、後から調べている」
(……十年)
その数字が、胸の奥にちくりと刺さった。
十年。私が書記局にいた年数と同じ。偶然だろう。世の中に「十年働いた人間」なんていくらでもいる。
「それなら──」
答えかけて、前世の記憶がよぎった。
前世の経理部時代。私が倒れて入院した時、引き継ぎもなく残された後任が『何がどうなっているかわからない』と悲鳴を上げたと、見舞いに来た同僚が苦笑いで教えてくれた。
あの時も、誰も私の仕事を見ていなかった。
「……私にも、ずっと見えていなかった仕事がありましたから」
つい、口をついて出た。
青年が書類を持つ手を止めた──いや、書類は閉じたままだった。指を組んだまま、正面を見ている。
夕焼けが空を染め始めていた。オレンジ色の光が、ベンチの二人を同じ色に塗る。
それ以上は、何も言わなかった。言わなくても、なぜか──届いた気がした。
◇
宿に帰って、マルタに聞いた。
「ねえ、マルタさん。今日の昼、公園のベンチで寝てしまったんですが──通りかかった誰かが、上着をかけてくれたりしませんでしたか?」
マルタが鍋をかき混ぜながら振り返った。
「ああ、あたしは見てないけどね。でも昼過ぎに市場の帰りにベンチの前を通ったら、あの無愛想な青年さんが自分の上着をあんたにかけて、ベンチの端っこに座り直してたよ」
「……え」
「静かなもんだったよ。あんたが起きないようにそーっとかけて、そのまま書類読んでた。あたしに気づいて目が合ったけど、何も言わないから、あたしも黙っておいたけどさ」
手が止まった。
あの上着は、宿の人じゃなかった。
あの青年が、自分の上着を脱いで、眠っている私にかけて、何も言わずに端に座り直して、書類を読んでいた。
起きた時も、一言も言わなかった。私が上着をベンチに置いた時も、黙って畳んだだけ。
(……なんで、何も言わなかったんだろう)
不思議な人。
不思議な人だ。
◇
夜。リンデンバートの宿から少し離れた、別の安宿の一室。
ランプの灯りの下で、レオンハルトは机に広げた書類を睨んでいた。
書記局の業務体系図。帳簿の整理法則の分析報告。文書分類の系統樹。
どれも、書記局から送られてきた資料だ。王宮の業務が滞り始めているという報告とともに届いた。
ペンを指先で弾いて、呟く。
「書記局の文書管理体系……これを構築したのは、一体誰だ」
十年かけて一人の人間が作り上げた独自のシステム。引き継ぎ書はない。設計図もない。その人間がいなくなった途端に、全てが回らなくなった。
……書類整理と、帳簿。
昼間、あの女が言っていた言葉がよぎる。
(──偶然、か)
ランプの芯を絞って、灯りを落とした。




