第30話 有給
山の空気が、肺の奥まで冷たかった。
馬車を降りた瞬間に、全身が冷気に包まれた。王都の冬とは違う冷たさ。乾いていて、澄んでいて、鼻の奥がつんとする。木の匂い。土の匂い。——あの日と同じ匂い。
リンデンバート。
辺境の温泉地。王都から馬車で五日。石畳の小さな広場。低い屋根の建物が並んでいる。煙突から白い煙。温泉の湯気が、あちこちの路地からふわりと立ち上っている。
五日間の馬車旅。硬い座席。揺れる車体。途中の宿場で食べた固いパンとスープ。
隣にはずっと、暗い紺の外套の人がいた。
馬車の中で書類は読まなかった。一度も。代わりに——窓の外を見ていた。街道の風景が王都の石壁から畑に変わり、畑から森に変わり、森から山に変わっていく。その横顔を、時々盗み見た。
眉間の皺は相変わらずだった。でも——皺の深さが、少しだけ浅い気がした。
「着いたぞ」
レオンハルトが鞄を持って馬車を降りた。振り返って、手を差し出した。王都の公園のベンチで繋いだ手と同じ手。長い指。ペンだこ。
手を取った。馬車のステップを降りた。石畳に靴底が触れた。
ここに来るのは、二度目だ。
一度目は——一人で来た。借金を完済して、恩暇を申請して、何もかもから逃げるように。
今日は——隣に人がいる。
◇
宿の扉を開けた。
「お帰り、お嬢さん」
マルタの声。
カウンターの向こうで、ふくよかな女将が両手を腰に当てて立っていた。白い髪を束ねて、エプロンを巻いて。あの時と変わらない笑顔。
「マルタさん」
「あれまあ、元気そうだね。前に来た時は——死にそうな顔してたのに」
「死にそう……は言い過ぎです」
「いいや、死にそうだったよ。目の下に隈があって、手にインクの染みがあって、朝食を食べる前に三回ため息をついてた。数えたからね」
数えていたのか。
マルタの目が、私の後ろに向いた。暗い紺の外套。鞄を肩にかけたまま、扉の横に立っている。
「ああ——あの無愛想さんだね」
レオンハルトが微かに目を細めた。
「まだ無愛想だね」
「……ああ」
マルタが笑った。お腹を揺らして。
「短いねえ、相変わらず。——まあいいさ。部屋は用意してあるよ。前と同じ部屋。お嬢さんの方はね。無愛想さんは隣の部屋。手紙で予約が来てたから」
手紙で予約。あの行程表に書いてあった宿の候補の一番目。レオンハルトが事前に手紙を送っていたのだ。
(行程表通りに動いてる。本当に几帳面な人)
鍵を受け取って、二階に上がった。廊下の木の床がぎしぎしと鳴る。あの時と同じ音。
部屋に入った。小さな窓。白いシーツのベッド。木の机と椅子。
鞄を下ろした。
中から——白い熊を取り出した。首に白い紐が結ばれたまま。結局、持ってきた。迷って、迷って、最後にねじ込んだ。
窓辺の棚に置いた。窓から山の景色が見える。遠くの山並みに、薄く雪がかかっている。
「……着いたね」
熊に話しかけた。熊は何も言わなかった。ふわふわの毛並みが、窓からの光を受けて柔らかく光っていた。
◇
午後。
石畳の道を歩いた。二人で。
市場を抜けて、小道を右に曲がって、小さな橋を渡った。橋の下の小川は、前より水量が少ない。冬だから。水面がきらきらと光を反射しているのは同じだった。
公園の入口。
行程表に書いてあった。ここから七十歩。
数えなかった。数えなくても、足が覚えていた。
ベンチが見えた。
木のベンチ。あの時と同じ。背もたれの高さ。座面の幅。少しだけ色が褪せた木の表面。
一度目にここに座った時、私は一人だった。古い伝説の本を読みながら、泣いた。十年分の涙を、ここで初めて流した。
二度目——あの無愛想な青年が、反対側の端に座っていた。書類を膝に広げて。名前も知らなかった。
三度目は——
レオンハルトがベンチの右端に座った。いつもの場所。暗黙の了解。
私が左端に座った。
——間が、前より狭かった。
あの時は、ベンチの両端にいた。腕一本分以上の隙間があった。今日は——肩と肩の間に、拳一つ分くらいしかない。
誰が距離を詰めたのか。たぶん両方。
しばらく黙っていた。冬の風が木々の枝を揺らしている。葉はほとんど落ちていて、枝の向こうに灰色の空が見える。温泉の湯気が、町の向こうからふわりと上がっている。
「エステル」
声が聞こえた。
低い声。短い。一言。——でも、聞こえた。今度は、はっきりと。
あの日、宰相府の廊下ですれ違った時。テオが「局長が何か言いましたけど」と言った。聞こえなかった。人混みのざわめきに消えた声。
今日は——聞こえた。
他の誰に向ける声とも違った。半音——低い。低いというより、深い。声の底の方から出てくるような響き。
ヨハンに報告する時の声とは違う。テオに指示を出す時の声とは違う。宰相に答弁する時の声とは違う。
私の名前だけに使う声。
涙が出た。
なんの前触れもなく。堪える暇もなく。目の奥からあふれて、頬を伝って、顎から落ちた。
「……なんで泣いてるんだ」
「嬉しいからよ、馬鹿」
声が震えた。笑いながら泣いている。みっともない顔をしているだろう。前世の経理部時代に泣いた時は、トイレの個室に隠れた。今は——隣に人がいるのに、隠れない。隠れたくない。
レオンハルトの手が動いた。
大きな手。長い指。ペンだこのある指。帳面の最後のページに朱印を押した手。花を廊下に置いた手。焼き菓子の包みを結んだ手。射的で三発とも的を射抜いた手。
その手が——私の頬に触れた。
指の腹で、涙を拭った。右の頬。左の頬。丁寧に。一滴ずつ。
温かかった。指先は少し冷えているのに、触れている場所だけが温かかった。
「……下手だな」
「何が」
「泣き方」
「うるさい。あなたは笑い方が下手でしょ」
レオンハルトの口角が——動いた。あの、口角ではなく目が先に笑う人の、ぎりぎりの笑顔。
「……否定しない」
笑った。二人で。涙を拭ってもらいながら。ベンチの上で。
◇
夕焼けが始まった。
山の稜線に太陽が近づいて、空がじわじわとオレンジ色に染まっていく。あの日と同じ色。あの夕方、一人でベンチに座って、古い伝説の本を読みながら泣いた日と、同じ色。
同じ景色。同じベンチ。同じオレンジ。
でも——全部、違う。
隣に人がいる。右端に。暗い紺の外套。膝の上には何もない。書類もない。切符もない。手ぶらで、ただ——夕焼けを見ている。
私も見ている。左端から。
手は——繋いだまま。ベンチの座面の上で。指を絡めている。いつからそうなったのか覚えていない。涙を拭ってもらった後、自然にそうなった。
何も言わなかった。言わなくてよかった。
夕焼けの光が、二人のベンチを横から照らしている。影が公園の芝生に長く伸びている。前は一人分の影だった。今日は——二つ。
丘の上の方で、白い花が咲いているのが見えた。冬に咲く花。あの廊下に置いてあったのと同じ花。レオンハルトが押し花にして持っていた花。
ここに咲いていたのか。最初から、ここに。
「レオンハルト」
「ん」
「休むのに理由って、いると思う?」
「いらない」
「即答」
「事実だからな」
笑った。声は出さなかった。口元だけで。
前世の私は、休むのに理由が必要だと思っていた。体調不良。冠婚葬祭。家庭の事情。——「何もないけど休みたい」は、許されないと思っていた。
今世でも、十年間そう思っていた。借金を返すため。恩暇の条件を満たすため。全部、理由があった。
でも——今日の有給には、理由がない。
ただ、ここに座りたかった。このベンチで。この人の隣で。夕焼けを見たかった。それだけ。
それだけで、十分だった。
◇
同じ夕焼けを——レオンハルトも見ていた。
オレンジの光。山の稜線。温泉街の屋根に湯気が立ち上っている。
隣に、人がいる。左端に。小さな手が、自分の手の中にある。温かい。
あの日——初めてこのベンチに座った時、反対側の端で泣いている女を見た。声を出さずに、肩だけ震わせて。あの時は、名前も知らなかった。
今は——知っている。
エステル。
あの名前を呼ぶ時だけ、声が変わるのは自覚している。意図してやっているわけではない。気づいたら、そうなっていた。
さっき、泣かれた。名前を呼んだだけで。
(……面倒な女だ)
面倒で。泣き虫で。仕事に没頭すると周りが見えなくなって。帳面を武器にして。蜂蜜の菓子を三つ食べて。ぬいぐるみを旅行鞄にねじ込んで。
——面倒で。手が離せない。
繋いだ手のひらから、体温が伝わってくる。冬の温泉地の夕暮れ。あの時と同じ風が吹いている。同じ色の空。
でも——あの時、俺は反対側の端にいた。名前を知らない女の隣で、書類を読んでいた。
今は——書類はない。手の中にあるのは、紙ではなく、この人の手だ。
悪くない。
悪くなかった。
◇
夕焼けが空を燃やしている。
二人きりのベンチ。木の葉がさらさらと鳴る。——いや、冬だから、葉はほとんどない。枝が風に揺れて、かすかな音を立てている。
手を繋いだまま、黙って座っている。
言葉はいらなかった。十年間、言葉にならない仕事をしてきた。言葉にされなかった評価を待っていた。言葉のない日々を過ごしてきた。
でも——今は、言葉がないのが心地いい。
隣にいる人の体温が、繋いだ手から伝わってくる。それだけで。
オレンジの光が薄くなっていく。空の色が、紫に変わり始めている。星が一つ、山の上に出た。
「……そろそろ戻るか」
レオンハルトの声。低い。短い。
「もう少し」
「冷える」
「もう少しだけ」
レオンハルトが黙った。手は離さなかった。
星が二つになった。三つ。リンデンバートの星空が、少しずつ広がっていく。あの夜、東屋で名前を交わした星空と同じ。
冷えてきた。吐く息が白い。でも——手のひらは温かい。
二度目の人生も、結局ブラックだった。
十年間、朝は誰より早く、夜は誰より遅く。手柄は奪われ、昇給は止められ、名前すら呼ばれなかった。
でも——
今、隣に人がいる。右端に。私の名前を、他の誰にも使わない声で呼ぶ人。行程表にベンチまでの歩数を書く人。焼き菓子を三つ送る人。廊下の灯りを灯す人。花を置く人。印を押す人。涙を拭う人。
そして——手を、離さない人。
二度目の人生は——休み方を、知っている。
隣で休む人も、知っている。
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