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社畜令嬢は有給休暇をご所望です!  作者: 九葉(くずは)
第3章

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第30話 有給

 山の空気が、肺の奥まで冷たかった。


 馬車を降りた瞬間に、全身が冷気に包まれた。王都の冬とは違う冷たさ。乾いていて、澄んでいて、鼻の奥がつんとする。木の匂い。土の匂い。——あの日と同じ匂い。


 リンデンバート。


 辺境の温泉地。王都から馬車で五日。石畳の小さな広場。低い屋根の建物が並んでいる。煙突から白い煙。温泉の湯気が、あちこちの路地からふわりと立ち上っている。


 五日間の馬車旅。硬い座席。揺れる車体。途中の宿場で食べた固いパンとスープ。


 隣にはずっと、暗い紺の外套の人がいた。


 馬車の中で書類は読まなかった。一度も。代わりに——窓の外を見ていた。街道の風景が王都の石壁から畑に変わり、畑から森に変わり、森から山に変わっていく。その横顔を、時々盗み見た。


 眉間の皺は相変わらずだった。でも——皺の深さが、少しだけ浅い気がした。


 「着いたぞ」


 レオンハルトが鞄を持って馬車を降りた。振り返って、手を差し出した。王都の公園のベンチで繋いだ手と同じ手。長い指。ペンだこ。


 手を取った。馬車のステップを降りた。石畳に靴底が触れた。


 ここに来るのは、二度目だ。


 一度目は——一人で来た。借金を完済して、恩暇を申請して、何もかもから逃げるように。


 今日は——隣に人がいる。



 宿の扉を開けた。


 「お帰り、お嬢さん」


 マルタの声。


 カウンターの向こうで、ふくよかな女将が両手を腰に当てて立っていた。白い髪を束ねて、エプロンを巻いて。あの時と変わらない笑顔。


 「マルタさん」


 「あれまあ、元気そうだね。前に来た時は——死にそうな顔してたのに」


 「死にそう……は言い過ぎです」


 「いいや、死にそうだったよ。目の下に隈があって、手にインクの染みがあって、朝食を食べる前に三回ため息をついてた。数えたからね」


 数えていたのか。


 マルタの目が、私の後ろに向いた。暗い紺の外套。鞄を肩にかけたまま、扉の横に立っている。


 「ああ——あの無愛想さんだね」


 レオンハルトが微かに目を細めた。


 「まだ無愛想だね」


 「……ああ」


 マルタが笑った。お腹を揺らして。


 「短いねえ、相変わらず。——まあいいさ。部屋は用意してあるよ。前と同じ部屋。お嬢さんの方はね。無愛想さんは隣の部屋。手紙で予約が来てたから」


 手紙で予約。あの行程表に書いてあった宿の候補の一番目。レオンハルトが事前に手紙を送っていたのだ。


 (行程表通りに動いてる。本当に几帳面な人)


 鍵を受け取って、二階に上がった。廊下の木の床がぎしぎしと鳴る。あの時と同じ音。


 部屋に入った。小さな窓。白いシーツのベッド。木の机と椅子。


 鞄を下ろした。


 中から——白い熊を取り出した。首に白い紐が結ばれたまま。結局、持ってきた。迷って、迷って、最後にねじ込んだ。


 窓辺の棚に置いた。窓から山の景色が見える。遠くの山並みに、薄く雪がかかっている。


 「……着いたね」


 熊に話しかけた。熊は何も言わなかった。ふわふわの毛並みが、窓からの光を受けて柔らかく光っていた。



 午後。


 石畳の道を歩いた。二人で。


 市場を抜けて、小道を右に曲がって、小さな橋を渡った。橋の下の小川は、前より水量が少ない。冬だから。水面がきらきらと光を反射しているのは同じだった。


 公園の入口。


 行程表に書いてあった。ここから七十歩。


 数えなかった。数えなくても、足が覚えていた。


 ベンチが見えた。


 木のベンチ。あの時と同じ。背もたれの高さ。座面の幅。少しだけ色が褪せた木の表面。


 一度目にここに座った時、私は一人だった。古い伝説の本を読みながら、泣いた。十年分の涙を、ここで初めて流した。


 二度目——あの無愛想な青年が、反対側の端に座っていた。書類を膝に広げて。名前も知らなかった。


 三度目は——


 レオンハルトがベンチの右端に座った。いつもの場所。暗黙の了解。


 私が左端に座った。


 ——間が、前より狭かった。


 あの時は、ベンチの両端にいた。腕一本分以上の隙間があった。今日は——肩と肩の間に、拳一つ分くらいしかない。


 誰が距離を詰めたのか。たぶん両方。


 しばらく黙っていた。冬の風が木々の枝を揺らしている。葉はほとんど落ちていて、枝の向こうに灰色の空が見える。温泉の湯気が、町の向こうからふわりと上がっている。


 「エステル」


 声が聞こえた。


 低い声。短い。一言。——でも、聞こえた。今度は、はっきりと。


 あの日、宰相府の廊下ですれ違った時。テオが「局長が何か言いましたけど」と言った。聞こえなかった。人混みのざわめきに消えた声。


 今日は——聞こえた。


 他の誰に向ける声とも違った。半音——低い。低いというより、深い。声の底の方から出てくるような響き。


 ヨハンに報告する時の声とは違う。テオに指示を出す時の声とは違う。宰相に答弁する時の声とは違う。


 私の名前だけに使う声。


 涙が出た。


 なんの前触れもなく。堪える暇もなく。目の奥からあふれて、頬を伝って、顎から落ちた。


 「……なんで泣いてるんだ」


 「嬉しいからよ、馬鹿」


 声が震えた。笑いながら泣いている。みっともない顔をしているだろう。前世の経理部時代に泣いた時は、トイレの個室に隠れた。今は——隣に人がいるのに、隠れない。隠れたくない。


 レオンハルトの手が動いた。


 大きな手。長い指。ペンだこのある指。帳面の最後のページに朱印を押した手。花を廊下に置いた手。焼き菓子の包みを結んだ手。射的で三発とも的を射抜いた手。


 その手が——私の頬に触れた。


 指の腹で、涙を拭った。右の頬。左の頬。丁寧に。一滴ずつ。


 温かかった。指先は少し冷えているのに、触れている場所だけが温かかった。


 「……下手だな」


 「何が」


 「泣き方」


 「うるさい。あなたは笑い方が下手でしょ」


 レオンハルトの口角が——動いた。あの、口角ではなく目が先に笑う人の、ぎりぎりの笑顔。


 「……否定しない」


 笑った。二人で。涙を拭ってもらいながら。ベンチの上で。



 夕焼けが始まった。


 山の稜線に太陽が近づいて、空がじわじわとオレンジ色に染まっていく。あの日と同じ色。あの夕方、一人でベンチに座って、古い伝説の本を読みながら泣いた日と、同じ色。


 同じ景色。同じベンチ。同じオレンジ。


 でも——全部、違う。


 隣に人がいる。右端に。暗い紺の外套。膝の上には何もない。書類もない。切符もない。手ぶらで、ただ——夕焼けを見ている。


 私も見ている。左端から。


 手は——繋いだまま。ベンチの座面の上で。指を絡めている。いつからそうなったのか覚えていない。涙を拭ってもらった後、自然にそうなった。


 何も言わなかった。言わなくてよかった。


 夕焼けの光が、二人のベンチを横から照らしている。影が公園の芝生に長く伸びている。前は一人分の影だった。今日は——二つ。


 丘の上の方で、白い花が咲いているのが見えた。冬に咲く花。あの廊下に置いてあったのと同じ花。レオンハルトが押し花にして持っていた花。


 ここに咲いていたのか。最初から、ここに。


 「レオンハルト」


 「ん」


 「休むのに理由って、いると思う?」


 「いらない」


 「即答」


 「事実だからな」


 笑った。声は出さなかった。口元だけで。


 前世の私は、休むのに理由が必要だと思っていた。体調不良。冠婚葬祭。家庭の事情。——「何もないけど休みたい」は、許されないと思っていた。


 今世でも、十年間そう思っていた。借金を返すため。恩暇の条件を満たすため。全部、理由があった。


 でも——今日の有給には、理由がない。


 ただ、ここに座りたかった。このベンチで。この人の隣で。夕焼けを見たかった。それだけ。


 それだけで、十分だった。



 同じ夕焼けを——レオンハルトも見ていた。


 オレンジの光。山の稜線。温泉街の屋根に湯気が立ち上っている。


 隣に、人がいる。左端に。小さな手が、自分の手の中にある。温かい。


 あの日——初めてこのベンチに座った時、反対側の端で泣いている女を見た。声を出さずに、肩だけ震わせて。あの時は、名前も知らなかった。


 今は——知っている。


 エステル。


 あの名前を呼ぶ時だけ、声が変わるのは自覚している。意図してやっているわけではない。気づいたら、そうなっていた。


 さっき、泣かれた。名前を呼んだだけで。


 (……面倒な女だ)


 面倒で。泣き虫で。仕事に没頭すると周りが見えなくなって。帳面を武器にして。蜂蜜の菓子を三つ食べて。ぬいぐるみを旅行鞄にねじ込んで。


 ——面倒で。手が離せない。


 繋いだ手のひらから、体温が伝わってくる。冬の温泉地の夕暮れ。あの時と同じ風が吹いている。同じ色の空。


 でも——あの時、俺は反対側の端にいた。名前を知らない女の隣で、書類を読んでいた。


 今は——書類はない。手の中にあるのは、紙ではなく、この人の手だ。


 悪くない。


 悪くなかった。



 夕焼けが空を燃やしている。


 二人きりのベンチ。木の葉がさらさらと鳴る。——いや、冬だから、葉はほとんどない。枝が風に揺れて、かすかな音を立てている。


 手を繋いだまま、黙って座っている。


 言葉はいらなかった。十年間、言葉にならない仕事をしてきた。言葉にされなかった評価を待っていた。言葉のない日々を過ごしてきた。


 でも——今は、言葉がないのが心地いい。


 隣にいる人の体温が、繋いだ手から伝わってくる。それだけで。


 オレンジの光が薄くなっていく。空の色が、紫に変わり始めている。星が一つ、山の上に出た。


 「……そろそろ戻るか」


 レオンハルトの声。低い。短い。


 「もう少し」


 「冷える」


 「もう少しだけ」


 レオンハルトが黙った。手は離さなかった。


 星が二つになった。三つ。リンデンバートの星空が、少しずつ広がっていく。あの夜、東屋で名前を交わした星空と同じ。


 冷えてきた。吐く息が白い。でも——手のひらは温かい。


 二度目の人生も、結局ブラックだった。


 十年間、朝は誰より早く、夜は誰より遅く。手柄は奪われ、昇給は止められ、名前すら呼ばれなかった。


 でも——


 今、隣に人がいる。右端に。私の名前を、他の誰にも使わない声で呼ぶ人。行程表にベンチまでの歩数を書く人。焼き菓子を三つ送る人。廊下の灯りを灯す人。花を置く人。印を押す人。涙を拭う人。


 そして——手を、離さない人。


 二度目の人生は——休み方を、知っている。


 隣で休む人も、知っている。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!


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