第3話 温泉饅頭と、名前のない隣人
温泉饅頭の湯気が、朝の冷たい空気の中で白く立ちのぼっていた。
──いい匂い。
リンデンバートの市場は、朝が早い。太陽が山の稜線を越える頃には、屋台がずらりと並んで、干し果物や焼き菓子や手編みの小物が所狭しと広げられる。
休暇三日目。私はすっかり朝寝坊が板についてしまって、市場に着いた頃にはもう昼近くだった。
(前世の上司が見たら卒倒するわね。八時出社の私が、昼まで寝てるなんて)
市場を歩く。王都の大市場とは比べものにならない規模だけど、そのぶん道が入り組んでいる。昨日も来たはずなのに、路地を一つ曲がったら見覚えのない石壁に突き当たった。
迷った。
温泉地に来て三日目で道に迷う二十五歳の宮廷書記官。いや、元書記官じゃない。休暇中の現役書記官。……ああ、どっちでもいいか。
「……あの」
誰かに声をかけようにも、路地に人がいない。石壁と石壁の間の細い道。頭上で洗濯物がはためいている。
振り返ろうとした時、路地の反対側から人影が歩いてきた。
あのベンチの青年だった。
暗い紺の外套。眉間の皺。革鞄を片手に提げて、もう片手には──何か紙の包み。
青年は私を見た。私も青年を見た。
一拍の沈黙。
青年が、何も言わずに右手を上げて、路地の先──私の背後の方向を指差した。
そっちが出口らしい。
「……ありがとうございます」
頭を下げて、指差された方向に歩く。角を曲がると、市場の大通りに出た。屋台の声と、人の流れ。
(なんであの人、私が迷ってるってわかったんだろう)
いや、石壁をきょろきょろ見上げている女が一人でぽつんと立っていれば、誰だってわかるか。
◇
温泉饅頭の屋台は、市場の東端にあった。
蒸籠から湯気がもうもうと上がって、薄皮の中に餡が透けて見える。前世で言うところの温泉まんじゅうにそっくりで、見た瞬間に足が止まった。
「おじさん、三つください」
二つのつもりだったのに、口が勝手に三つと言った。まあいい。休暇中だもの。三つ食べたっていい。
紙に包まれた饅頭を受け取って、一つ取り出す。かぶりつこうとした──その時。
「……」
屋台の向かいに、あの青年がいた。
さっきの路地で道を教えてくれた人。革鞄を足元に置いて、紙の包み──さっき持っていたのは焼き菓子の袋だろうか──を抱えたまま、饅頭の屋台をじっと見ている。
見ているのに、買わない。
(……お金がないのかな。いや、焼き菓子は買ってるし。じゃあ饅頭に興味があるだけ? にしては目つきが真剣すぎない?)
目が合った。青年が視線を逸らす。
──なんだか、ほうっておけなかった。
「あの」
声をかけると、青年がこちらを見た。暗い瞳。表情は相変わらず読めない。
「一つ余分に買ってしまったので、よかったら」
饅頭を差し出す。紙包みの上に、ほかほかと湯気を立てる白い饅頭。
青年が目を見開いた。
ほんの一瞬。すぐに元の無表情に戻ったけれど、あの暗い瞳が丸くなった瞬間を、私は確かに見た。
「……ありがとう」
小さな声だった。低い。けれど、昨日ベンチで聞いた「ああ」とは、どこか違う響き。
(気のせいかな)
気のせいだろう。饅頭を受け取る青年の指が長いことだけ、なぜか目に入った。
私は自分の饅頭にかぶりついた。
甘い。
餡がとろりと舌に広がって、薄皮がふわっとほどける。前世の温泉まんじゅうより生地が軽くて、蜂蜜の風味がほんのり残る。
──ああ、おいしい。
目を閉じて噛みしめていると、ふいに、記憶が割り込んでくる。
書記局の執務室。夜遅く。外交書簡の下書きをようやく仕上げて、机に突っ伏した私の耳に、廊下からメリッサの声が聞こえた。
『没落令嬢だから必死なのよ。見ていて滑稽だわ』
笑い声。誰かの相槌。ヒールの音が遠ざかっていく。
三年間、昇給はなかった。ヘルツ次長が書類を握り潰していたなんて、当時は知らなかった。ただ「自分の能力が足りないから」だと思っていた。前世と同じだ。頑張りが足りないから報われない。もっと頑張らなきゃ。もっと──
饅頭の甘さが、記憶を断ち切った。
(……もういい)
ぎゅっと紙包みを握る。
借金は終わった。あの執務室に戻る義務は、今はない。功労恩暇は法的に有効で、私の給与は支払われ続けている。
──これからは、私は、私のために生きていい。
目を開ける。市場の雑踏。太陽の光。手の中の、まだ温かい饅頭。
隣で、青年が黙々と饅頭を食べていた。
なんとなく、二人で並んで歩き始めた。
◇
王宮、書記局──。
ヴィクトル・フォン・ヘルツは、机の上に積まれた書類の山を睨んでいた。
外交書簡の未処理が六通。帳簿の月次集計が未了。文書の受付台帳に三日分の空白。
「ヘルツ次長、隣国の大使館から正式な苦情が届きました」
テオ・バルツが蒼白な顔で書簡を差し出す。
『貴局からの返答が遅延していることにつき、遺憾の意を表する──』
ヴィクトルは書簡を読み終えると、テオを見下ろした。
「たかが一人の下級書記官が抜けただけだ。残った者で回せるだろう」
「は、はい。ですが──リヒター先輩の引き継ぎ書がないんです。帳簿の整理法則も、文書の分類体系も、先輩独自のもので……」
「なら聞けばいい。手紙でも書いて──」
ヴィクトルは言いかけて、口を閉じた。
功労恩暇中の書記官に業務の問い合わせ。法的に問題はないが、つい数日前に「そんな古い条文が」と鼻で笑った相手に、自分から頭を下げることになる。
「……他の書記官に分担させろ。以上だ」
テオは一礼して退室した。
廊下に出てから、テオは小さく呟いた。
「リヒター先輩の仕事の仕方を理解できる人が、誰もいない……」
◇
夕方のベンチに、あの青年がいた。
もう驚かない。三日連続だ。むしろ「いなかったら心配する」くらいには、この風景に慣れ始めている。
隣に座る。今日は本ではなく、何も持たずに来た。手ぶらで座って、ただ公園の木々を眺める。
青年は今日も書類を読んでいた。でも昨日よりペンを持つ手が緩い。時々、書類から目を離して、同じように木々を見ている。
「あなたも、休暇で来ているんですか?」
なんとなく聞いた。昨日の「書記局」の文字が頭をよぎったけど、それとこれとは関係ない。世の中に書記局の書類なんていくらでもある。
青年が書類を膝に置いた。
「……ああ」
一拍。
「そういうことに、しておいてくれ」
含みのある言い方だった。休暇ではない、と言っているようにも聞こえる。でも詮索するつもりはなかった。
名前も聞いていない。聞くつもりもなかった。ここでは、お互い「ただの人」でいい。肩書きも、爵位も、借金も、手柄を奪われた十年も。全部置いてきた。
「……そうですか」
風が吹いた。木の葉がさらさらと鳴る。遠くから温泉の湯けむりが漂ってきて、硫黄の匂いがほんのりと。
「今日の饅頭、おいしかったですね」
「……悪くなかった」
(それ、この人なりの「おいしい」なのかな)
口元が一瞬だけ動いた気がしたけれど、夕日のせいかもしれない。
ベンチに座ったまま、しばらく何も言わなかった。言わなくても、不思議と居心地が悪くない。誰かの隣にいて、何も求められず、何も差し出さなくていい時間。
──こんな時間があるなんて、知らなかった。
王宮の書記局では、今頃どうなっているんだろう。
まあ、知ったことじゃないけど。




