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社畜令嬢は有給休暇をご所望です!  作者: 九葉(くずは)
第3章

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第25話 守るということ

 手紙は、たった一文だった。


 朝、官舎の部屋の扉の下に封筒が差し込まれていた。宰相府の公用封筒。朱印が押してある。公式の連絡経路。


 封を切った。薄い紙が一枚。硬い筆跡。装飾のない、まっすぐな文字。


 『この件が終わるまで、二度と会わない。——グレイ』


 それだけ。


 日付も、宛名も、理由も書いていない。一文と、署名。あの人らしいと言えばあの人らしい。言葉が少ない。いつも少ない。短い返事と、行動だけの人。


 でも——今日の短さは、いつもとは違った。


 温泉地のベンチで「……ああ」と頷いた時の短さではない。廊下で「足手まといだと言った」「嘘だった」と告げた時の短さでもない。


 切り捨てる短さだった。


 紙を握った。皺が寄った。


 「……それは、私の選択じゃない」


 声が出た。自分の部屋で、一人で、朝の光の中で。


 怒っていた。


 仕事のことで怒ったことはある。ヘルツに手柄を奪われた時。昇給を止められた時。帳面の数字が合わない時。——全部、仕事の怒り。理不尽に対する、冷静な怒り。


 今は違う。


 仕事じゃない。これは——仕事じゃない怒りだ。


 (あの人は、また一人で決めた)


 温泉地で使者を追い返した時もそうだった。接触禁止勧告の時もそうだった。私の知らないところで、私に相談せず、私の代わりに判断して、一人で背負い込む。


 守るため。全部、守るため。


 わかっている。カルステンが越権行為を攻撃材料にしている。監査局長が被疑者の室長と接触すれば、「庇護している証拠」として法廷に出される。離れるのが合理的だ。法的に正しい。


 ——でも。


 「私に聞いてよ」


 紙が手の中でくしゃりと鳴った。


 離れるかどうかは、二人で決めることでしょう。守り方を、一人で選ばないでよ。あの夜、廊下で指先が触れた時——「次の休暇は」って聞いてくれた時——あれは、二人の話だったはずでしょう。


 なのに。たった一文で。公用封筒で。署名だけで。


 (……馬鹿)


 手紙を鞄に突っ込んだ。帳面の隣に。



 宰相府の廊下を歩いていた。


 足が勝手に動いている。文書管理室ではなく、反対方向。帝国監査局の執務室がある棟の方。


 角を曲がれば、あの暗い紺の外套が見えるかもしれない。壁に背を預けて、腕を組んで、書類を読んでいるあの姿が。


 角の手前で、足が止まった。


 (行けない)


 わかっている。行ったら、カルステンの思う壺だ。「監査局長と被疑者が接触した」——その一事で、これまで積み上げた証拠の信頼性が全て崩れかねない。


 ヨハンが「検証済み副本は公正」だと言ってくれた。あの人が先回りして守った証拠の盾。私が今ここで会いに行けば、その盾に自分で穴を開けることになる。


 (わかってる。わかってるのよ、そんなことは)


 壁に手をついた。冷たい石。冬の廊下。白い光が窓から差し込んでいる。


 角の向こうから、靴音が聞こえた。複数の足音。監査局の職員だろう。あの人の足音かどうかは——わからない。あの人の足音を聞き分けられるほど、まだ近くにいられたわけじゃない。


 手を壁から離した。


 振り返った。来た道を戻る。文書管理室の方向へ。


 一歩ごとに、角が遠くなる。


 泣かなかった。ここは宰相府だ。泣く場所じゃない。



 官舎に帰ったのは、日が落ちてからだった。


 文書管理室でテオと引き継ぎの確認をして、法廷準備の資料を整理して、墨師への鑑定依頼の段取りを考えて。仕事をしている間は大丈夫だった。帳面の数字と向き合っている間は、頭の中が仕事で埋まる。


 でも——官舎の扉を閉めた瞬間に、仕事が消えた。


 狭い部屋。蝋燭。窓の外の暗い空。


 棚の上に、白い熊のぬいぐるみがいた。


 祭りの夜。射的で三発とも的の中心を射抜いたあの人が、無言で差し出した景品。花火の光。人混みで引かれた手。名前も知らなかった頃の——一番温かい記憶。


 手を伸ばした。棚から降ろした。


 小さい。両手に収まるくらいの大きさ。桶を抱えた白い熊。ふわふわの毛並み。文書管理室の机の上にいたのを、職務停止の日に持ち帰った。


 抱えた。


 胸の前で。両腕で。


 (——あの人は、いつもそう)


 守るために離れる。足手まといになると言って距離を取る。一人で決めて、一人で背負って、一人で——


 (それは、前世の私と同じだ)


 不意に気づいた。


 前世の経理部。全部一人で抱え込んで、引き継ぎ書も作らず、休みも取らず、誰にも助けを求めなかった。「自分がやらなきゃ」と思い込んで、周りに相談する余裕すらなくて——そのまま倒れた。


 あの人も、同じことをしている。守り方を間違えている。


 一人で背負い込むのは——強さじゃない。ただの、不器用さだ。


 (……私は、あの日泣いた。リンデンバートのベンチで。夕焼けの中で。あの時は、一人で泣いた。誰かに泣いているところを見せたことなんてなかった。前世でも今世でも)


 でもあの人は——見ていた。私が泣いているのを。ベンチの反対側から。何も言わずに。


 あの日から、一人じゃなかった。


 それなのに。また一人にされようとしている。


 涙が出た。


 今度は、声が出た。


 リンデンバートの夕焼けの下で流した涙は無音だった。声を殺して、肩だけ震わせて。あれは——十年分の我慢が溢れた涙だった。


 今夜のは違う。


 「——ばか」


 声が震えた。ぬいぐるみの頭に顔を埋めた。毛並みが涙を吸った。


 「一人で決めないでよ……」


 蝋燭の灯りが揺れている。官舎の狭い部屋。窓の外は暗い。星は見えない。


 泣いた。声を出して。しゃくりあげて。前世でも今世でも、こんなふうに泣いたことはなかった。仕事で泣いたことはない。理不尽に泣いたこともない。


 これは——仕事じゃない涙だ。


 (でも)


 涙の奥で、何かが固くなっていくのを感じた。


 一人でも立てる。


 立てる。十年間、一人で立ってきた。帳面がある。数字がある。前世の知識がある。


 でも——一人で立てるのは、あの人がいたからだ。温泉地のベンチで隣に座ってくれたから。外套をかけてくれたから。「人の仕事を正しく評価する方法がわからない」と正直に言ってくれたから。


 あの人がいたから——「一人で立つ」ことの意味が変わった。


 (だから——一人で立って、証明する。あの法廷で。帳面と数字で。全部終わらせて、あの人の前に立つ)


 ぬいぐるみを胸から離した。涙で少し湿った白い毛並み。熊の黒い目が、蝋燭の灯りを反射している。


 「……待ってなさい」


 誰に言ったのかわからない。熊に言ったのか、遠くの執務室にいるはずの誰かに言ったのか。


 ぬいぐるみを枕元に置いて、帳面を開いた。涙を袖で拭って、ペンを取った。


 明日の法廷準備。墨師への依頼書の下書き。偽造承認書の鑑定ポイントの整理。


 数字は嘘をつかない。涙は——もう、拭いた。



 同じ夜。帝国監査局長執務室。


 レオンハルトは窓際に立っていた。


 外套は脱いでいる。白い襯衣の袖をまくったまま、腕を組んで、窓の外を見ている。


 官舎の建物が見える。冬の夜。灯りが点々と並んでいる。


 一つだけ——見分けがつく窓がある。三階の角部屋。小さな窓。


 灯りがついていた。


 蝋燭の灯り。揺れている。人影は見えない。距離が遠すぎる。でも——灯りがあるということは、起きている。


 (……泣いているだろうか)


 手紙は届いたはずだ。公用封筒。一文だけ。


 書くのに、三時間かかった。


 最初は二行書いた。消した。次は五行書いた。消した。理由を書こうとした。「カルステンが越権行為を攻撃に使っている。俺が近くにいれば、お前の証拠が全て疑われる。だから——」


 全部消した。


 理由を書けば、あの人は理解する。理解した上で——たぶん、怒る。「一人で決めないで」と。


 わかっている。あの温泉地のベンチで、あの人が言った。「その人がいなくなった時に、何が困るかを見れば。それが——その人の本当の仕事です」。


 俺がいなくなったら——あの人は、困るだろうか。


 いや。困らない。あの人は十年間、一人で全部やってきた。俺がいなくても立てる。帳面がある。数字がある。あの人は——強い。


 でも。


 強い人間が泣くのを——一度だけ見た。夕焼けの下で。ベンチの反対側から。あの日、声を出さずに泣いていた横顔が、今でも目の裏に残っている。


 引き出しを開けた。


 乗合馬車の切符。二枚。リンデンバート行き。日付は空欄のまま。


 ——使えるだろうか。この件が終わったら。


 終わるだろうか。


 切符を指で挟んだ。紙の感触。薄い。こんなに薄い紙一枚に、あの温泉地のベンチと、夕焼けと、蜂蜜の菓子と、花火の音が——全部載っている。


 窓の外。官舎の灯り。まだついている。


 「……泣くな」


 声に出した。届かない声。窓硝子に白い息がかかって、灯りが一瞬だけ滲んだ。


 切符を引き出しに戻した。閉めなかった。


 明日の朝、閉める。今夜は——開けておく。



 翌朝。


 目が覚めた。


 蝋燭はとっくに消えていて、窓から冬の白い光が差し込んでいた。帳面がベッドの脇の床に落ちている。昨夜、書きながら眠ってしまったらしい。


 身体を起こした。枕元の白い熊を見た。


 ——首に、小さな紐が結ばれていた。


 細い糸。白い糸。蝋燭の灯りでは見えないくらい細い。昨夜はなかった——と思う。泣きながら帳面を書いて、そのまま眠ったから、記憶が曖昧だ。


 自分で結んだのか。泣きながら、無意識に。あるいは——


 (いや。鍵はかけてあった。誰も入れない)


 自分でやったのだろう。きっと。泣いている間に、ぬいぐるみの首元をいじっていたのかもしれない。


 紐に触れた。ほどかなかった。


 なんとなく——ほどきたくなかった。


 ぬいぐるみを枕元に残して、顔を洗った。冷たい水で目を冷ました。腫れているだろう。前世で泣いた翌朝は、目が腫れて上司にからかわれた。今世では——からかう上司はいない。私が上司だ。職務停止中だけど。


 鞄を肩にかけた。帳面と、くしゃくしゃの手紙と、墨師への依頼書の下書き。


 扉を開ける前に、もう一度振り返った。


 白い熊。首の紐。朝の光の中で、毛並みが柔らかく光っている。


 「——行ってくるね」


 扉を閉めた。


 冬の朝。白い息。石畳の上を歩く。


 一人だ。隣には誰もいない。ベンチもない。蜂蜜の匂いもない。


 でも——鞄の中に帳面がある。引き出しの中に封筒がある。枕元に熊がいる。首に白い紐が結ばれた、小さな熊。


 全部、あの人が残したもの。


 (一人でも立てる。でもそれは——あの人がいたから)


 だから。


 一人で立って、証明する。法廷で。帳面で。数字で。


 全部終わらせて——あの白い紐の意味を、本人に聞く。

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