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社畜令嬢は有給休暇をご所望です!  作者: 九葉(くずは)
第3章

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第24話 越権

「金の受け渡しを見たんです——食堂で、昼休みに」


 テオの声は低かった。いつもの元気な張りがない。文書管理室の扉を閉めて、私の机の前に立って、小声で話している。


 「書記局の食堂?」


 「はい。俺の同期のリーゼが——あ、書記局の三年目の子なんですけど——昼飯食べてたら、隅のテーブルで男が二人話してたって。一人はカルステン弁護人の助手。もう一人は知らない顔。助手が封筒を渡して、中身を確認した男が頷いて、そのまま別々に出ていったと」


 「封筒の中身は見えた?」


 「リーゼが言うには、ちらっと見えた紙幣の束が——あ、でも確実じゃないって。角度的に」


 証人買収。


 カルステンの助手が、誰かに金を渡している。食堂の昼休み。人目のある場所でやるのは不用心だけれど、逆に言えば「ただの食事中の知人同士」に見せかけられる場所でもある。


 (前世で会社の不正調査をやった時も、賄賂の受け渡しは社員食堂だったっけ。人が多い場所の方が、かえって目立たない)


 「テオ。その情報は今のままだと法廷には出せない」


 「え、なんでですか!」


 「目撃証言だけでは弱い。リーゼが見たのは『封筒を渡した』という行為で、中身が金銭だったかは推測にすぎない。それに、リーゼの立場——書記局の現役書記官が弁護人の助手を告発する——は政治的にも危うい」


 テオが唇を噛んだ。


 「じゃあ、何もできないんですか」


 「できることはある」


 帳面を開いた。白いページにペンを走らせる。


 「リーゼに頼んで。日時、場所、助手と相手の容貌、座っていたテーブルの位置。できるだけ詳しく書き留めておいてもらって。——それから、食堂の給仕記録があるはずよ。誰がいつどのテーブルを使ったか。食堂の管理人に頼めば、閲覧はできる」


 「給仕記録?」


 「前世の——いえ、以前聞いた話なんだけど。食堂の利用記録と、帳簿上の不審な出金記録を照合すれば、金の流れが追える。直接の証拠にはならなくても、間接的な裏付けにはなる」


 テオの目が光った。


 「やります。リーゼに今日中に連絡します」


 「ありがとう。——でも、無理はさせないで。リーゼにも立場がある」


 「わかってます。あいつ、度胸だけはありますから」


 テオが鞄を掴んで、文書管理室を飛び出していった。扉がばたんと鳴る。


 (……この子の行動力だけは、本当に助かる)


 一人になった執務室。窓から冬の白い光。机の上に処理済みの書類が積まれている。テオが私の代わりに片付けてくれたもの。


 引き出しを開けた。焼き菓子の包みがまだある。昨日の残り一つ。封筒もある。まだ開けていない。


 閉じた。


 今日は法廷三日目。カルステンが次の手を打ってくる。



 裁定の間。


 石の壁。ランプの灯り。三度目のこの部屋。椅子の硬さにはもう慣れた。帳面の重さにも。


 カルステンが立ち上がった。今日の声は、いつもよりゆっくりだった。


 「本日は、証拠の信頼性について審議を求めます」


 信頼性。嫌な予感がした。


 「先の監査報告において、書記局の不正を暴いたのは帝国監査局長レオンハルト・グレイです。この監査結果に基づき、ヘルツ元次長は横領で告発されました。——しかし」


 カルステンが書類を一枚取り出した。


 「監査局長グレイは、監査期間中に重大な越権行為を犯しています」


 越権行為。


 心臓が跳ねた。


 (——まさか)


 「グレイ監査局長は、監査対象であるリヒター書記官が功労恩暇中に辺境の温泉地に滞在していた際、書記局からリヒター書記官を呼び戻す使者が到着したにもかかわらず、この使者を追い返しています」


 あの日のことだ。


 リンデンバートでの休暇中。ヘルツが私を呼び戻そうとして使者を送った。レオンハルトがその使者を追い返した。翌朝まで手紙を渡さなかった。


 あの時は知らなかった。後から知った。レオンハルトが——あの無愛想な青年が、私の休暇を守るために、使者を止めたのだと。


 「これは『調査対象への不当な介入』に該当します。監査局長が調査対象の行動に影響を与えた以上、この監査結果そのものの公正性に疑義が生じます」


 カルステンの声は静かだった。感情がない。法の条文を読むのと同じ温度。


 「すなわち——グレイ監査局長が関わった監査報告に基づくヘルツ元次長への告発は、その根拠において瑕疵がある可能性があります」


 法廷の空気が変わった。


 裁定官席の宰相が、手元の書類に目を落とした。ヨハンの眼鏡の奥の目が、微かに動いた。


 ヘルツが——初めて、顔を上げた。伏せていた目が、カルステンの背中を見ている。期待の光。


 (あの人が、私を守ったことが——今、刃になっている)


 膝の上の帳面を握りしめた。指が白くなるほど。


 レオンハルトは使者を追い返した。事実だ。温泉地で、あのベンチで、私が何も知らないままのんびり焼き菓子を食べていた間に、あの人は私の休暇を守るために動いた。


 公的な立場の人間が、調査対象の環境に手を加えた。法的にはグレーだ。監査局の内規に「調査対象の環境保全」という曖昧な条項があるとはいえ、使者の追い返しが「環境保全」にあたるかどうかは——解釈次第。


 カルステンはその灰色を、黒に塗り替えようとしている。


 「法務部として見解を述べます」


 ヨハンが立ち上がった。


 「弁護側の指摘は手続き上受理します。越権行為の有無については、今後審理の対象とする可能性があります」


 ——そこまでは予想通りだった。


 「ただし」


 ヨハンの声に、わずかな硬さが加わった。


 「一点、法廷に報告すべき事項があります。——本件の公判準備にあたり、法務部は証拠資料の公正性を独自に検証する必要がありました。その検証過程において、帝国監査局から正式な手続きに基づき、全ての関連資料の検証済み副本が提出されています」


 検証済み副本。


 「監査局長グレイは、自身の越権行為が弁護側から攻撃されうることを見越し、監査結果の公正性を第三者が独立に検証できるよう、全資料を法務部に提出していました。——この提出は、監査局の公的権限内で行われたものであり、手続き上の瑕疵はありません」


 息が詰まった。


 ——見越していた。


 あの人は、自分の行動が攻撃材料になることを、最初からわかっていた。だから——法的に攻撃されても証拠そのものが揺るがないように、全資料を法務部に渡していた。


 公的権限の範囲内で。手続きを踏んで。


 あの人のやり方だ。言葉ではなく行動で。感情ではなく手続きで。菓子を送る時も、灯りを灯す時も、照合済印を押す時も——全部、物と手続きに託す人。


 カルステンが口を開いた。


 「検証済み副本の存在は、越権行為の事実を否定するものではありません」


 「否定するものではありません。しかし、監査結果の公正性は検証済み副本によって独立に確認可能です。——越権行為の有無と、証拠の信頼性は、切り分けて審理すべきと考えます」


 ヨハンの声は淡々としていた。法の番人。切り分ける。感情ではなく、手続きで。


 宰相が頷いた。


 「越権行為の審理は別途行う。本件の証拠審理に直接影響を与えるものとしては、現時点では扱わない。——ただし、弁護側の指摘は記録に留める」


 記録に留める。完全な棄却ではない。カルステンの攻撃は、傷をつけた。レオンハルトの名前に、疑義という小さな傷を。


 でも——証拠は守られた。あの人が先に手を打っていたから。


 法廷が閉じた。三日目の審理終了。



 廊下。


 石の階段を上がって、地上に出た。冬の日差し。白い光。


 人気のない廊下を歩いた。足音だけが響く。


 立ち止まった。


 壁に手をついた。


 (……あの人は)


 あの温泉地で使者を追い返した日。あの人は私の休暇を守った。そしてその行為が今、法廷で攻撃材料にされている。


 怒らなかった。あの人のことを怒る気にはならなかった。


 だって——あの人は、知っていたのだ。自分が追い返した使者のことが、いつか自分に返ってくることを。それでも追い返した。私の六十日間の、たった一つの休暇を守るために。


 そして今——離れていても、動いている。監査局の権限の中で、手続きの枠の中で、証拠の公正性だけは揺るがないように。


 直接は会えない。接触すればカルステンの思う壺だ。会えないから、手続きで支える。物で支える。検証済み副本を法務部に出す。菓子を机に置く。廊下の灯りを——


 (……灯りも、そうなの?)


 テオが言っていた。文書管理室の廊下だけ、油の消費量が倍。


 まさか。


 いや——今は、考えない。考えたら、歩けなくなる。


 壁から手を離した。背筋を伸ばした。


 「あの人は……離れていても、やることをやっている」


 声に出した。誰もいない廊下で。


 だから私も、やることをやる。証人買収の証拠を固める。偽造承認書の鑑定を進める。帳面の数字で、全部証明する。


 あの人が守ったものを、私が無駄にはしない。


 廊下の先に、文書管理室の扉が見えた。表札のない扉。白い四角い跡。


 ——取り返す。全部。


 足を踏み出した。靴音が石の廊下に響いた。


 帳面の重さが、肩にかかっている。十年分の重さ。でも今は——一人で背負っている重さではない気がした。


 遠くの廊下の角を曲がる時、ふと振り返った。


 誰もいない。白い冬の光だけが、窓から差し込んでいる。


 でも——廊下のランプが、一つだけ灯っていた。昼間なのに。消し忘れだろうか。


 それとも。


 振り返るのをやめて、歩き出した。鞄の中の帳面が、とん、と背中を叩いた。

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