第20話 有給
表札に触れた。
木の感触。インクの匂い。──もう新しくはない。角が少しだけ丸くなっている。毎朝、出勤するたびにここに指を当てる癖がついたから。
『文書管理室 室長 エステル・フォン・リヒター』
あの日──初めてこの表札を見た朝、指先が震えていた。十年間、名前のない仕事をしてきた私の名前が、初めて扉に掛かった日。
今日は震えない。この名前は、もう私のものだ。
執務室に入る。机が二つ、書棚が四つ、窓が一つ。変わらない。でも──引き出しは、もう空っぽじゃなかった。
開ける。処理済みの記録綴り。テオと作った照合表の控え。予算審議会の報告書の写し。この数週間で積もった、私の仕事。誰の名前でもない、私の仕事の記録。
その上に──昨日、宰相から受け取った封書が載っている。
まだ開けていなかった。裁定の後、廊下でレオンハルトの指先に触れて、それから文書管理室に戻って、テオに裁定の結果を報告して、帰宅して──封書のことは、わかっていたのに後回しにしていた。
怖かったわけじゃない。たぶん。ただ──急がなくてよかった。宰相も「急がない」と言った。だから、今朝の静かな光の中で開けたかった。
封蝋を割る。薄い紙が一枚。宰相の直筆。短い文面。
『文書管理室室長エステル・フォン・リヒターを、宰相府直轄の終身職として任命する。未払い昇給三年分の追給を法務部より執行する。また、今後の勤務において年次有給休暇を正式に付与する。──ルドルフ・フォン・ヴァルトシュタイン』
終身任命。追給。年次有給。
一度、目を閉じた。
前世の記憶が、ふっと浮かんだ。「有給休暇」。日本の法律で定められた、働く人の権利。入社した年に付与されて──私は、一度も使わなかった。忙しくて。上司が嫌な顔をするから。経理部に私しかいなかったから。結局、一日も消化しないまま、病院のベッドで目を閉じた。
今世でも、十年間休みがなかった。功労恩暇を申請するまで、「休む」という選択肢は存在しなかった。
でも──今、手の中にある。
年次有給。毎年、正式に、休んでいい日。紙に書かれた権利。法務官の印が押された、誰にも奪えない権利。
(……前世の私に、見せてあげたいな)
紙を机の上に置いた。皺にならないように、丁寧に。
◇
「おはようございます、室長!」
テオが入ってきた。いつもの元気な声。鼻の先は今日も少し赤い。──この子はいつ見ても鼻が赤い。
「テオ。座って」
「はい? なんですか改まって」
封書を見せた。テオが読んだ。読み終わるまでに、目が三回瞬いた。
「終身……追給……有給……」
顔を上げた。目が、予想通り潤んでいた。
「室長……」
「泣かないで」
「泣いてません! 目から──」
「汗は出ないって、何回言えばわかるの」
テオが唇を噛んで、ぐっとこらえた。こらえきれず、袖で目元を拭いた。
「……よかった。本当に、よかったです」
「うん」
「室長の十年間が、ちゃんと──」
「テオ」
「はい」
「来週の金曜日、休みなさい」
テオの動きが止まった。
「……え?」
「有給。文書管理室室長の権限で、部下に休暇を与えます。一日だけだけど」
テオの口が開いた。閉じた。また開いた。
「室長の……最初の命令が……休暇ですか」
「そうよ。これが一番大事な仕事」
テオがまた目を赤くした。今度は何も言わずに、深くお辞儀をした。長い沈黙の後で、小さく「ありがとうございます」とだけ言った。
(……前世の私には、休めと言ってくれる上司がいなかった)
だから。私はなる。休めと言える上司に。
◇
午前十時。
ノックの音。二回。──あの人だ。いつから二回ノックになったのか、もう覚えていないけれど、この音だけで胸が跳ねるようになっている。
「どうぞ」
扉が開いた。
暗い紺の外套。──正装じゃなかった。胸元に局章がない。リンデンバートで見たのと同じ、飾りのない外套。
片手に、紙包み。
「……届けに来た」
低い声。昨日の約束。
テオが机から顔を上げた。私の顔を見て、レオンハルトの手元を見て、紙包みを見て──椅子を引いた。
「何も見ていません!」
扉が閉まった。廊下を走る足音。
沈黙。
「……有能な部下だ」
レオンハルトが言った。
「あの子、三回目ですよ」
「学習能力がある」
笑った。声を出して。──この人と一緒にいると、声を出して笑うことが増えた。前世でも今世でも、仕事場で笑ったことなんてなかったのに。
紙包みを受け取った。開ける。蜂蜜と胡桃の焼き菓子。リンデンバートのあの店のもの。甘い匂い。温泉地の朝に屋台で買ったのと同じ匂い。
一つ手に取って、一つをレオンハルトに差し出した。
あの日と同じ。蒸し饅頭を分けた朝と同じ。
レオンハルトが受け取った。長い指。あの時よりも少しだけ、迷いなく。
二人で黙って食べた。窓から白い冬の光。甘い香り。
「……あの花」
私は言った。
「廊下に置いてあった白い花。──あれ」
レオンハルトの咀嚼が止まった。
「リンデンバートの丘に咲いていたのと、同じ花ですよね」
沈黙。長い沈黙。この人の沈黙は、嘘をついている時と、言葉を探している時がある。今は──後者だった。
「……押し花にして持っていた」
「──いつから」
「あの丘の日から」
あの日。秋の丘。東屋。紅葉の町並みを見下ろした午後。隣に立っていたのに、名前も知らなかった頃。
あの日の花を──ずっと持っていた。温泉地から王都に戻って、監査の日々の中で、接触禁止の中で。引き出しの中に、あの丘の花を。
(……この人は)
言葉が少ない。表情が乏しい。笑顔は口角ではなく目に出る。感情を伝えるのが下手で、仕事の枠でしか動けなくて──それでも、花を押して、菓子を送って、ランプの油を足して、照合済印を押して、廊下に花を置いた。
全部、物に託す人。
不器用で──でも、全部ちゃんと届いていた。
「……ありがとう」
レオンハルトが顔を上げた。
「──リンデンバートに」
声が、ほんの少し低くなった。
「次の休暇、リンデンバートに行かないか。あのベンチが──まだあるなら」
あの日、この人は言った。「俺の隣で、休んでくれないか」。あの時、私は答えた。「有給が出るなら、考えます」。
今日は違う。
「有給は──もう、ある」
レオンハルトの瞳が、ふっと緩んだ。口角が──動いた。あの日よりも、もう少しだけ大きく。笑顔と呼んでいい、ぎりぎりの変化。
「……そうか」
短い返事。でも──それで十分だった。
◇
午後。レオンハルトが帰った後。
文書管理室に、一人。テオはまだ「何も見ていない」ふりをして別室にいる。
棚を見上げた。
白い熊のぬいぐるみ。いつの間にか官舎から持ってきていた。祭りの夜、射的で当たった──いや、レオンハルトが当てた。あの夜。花火の音。手を引かれた人混み。名前も知らなかった頃の、一番温かい記憶。
手を伸ばして、降ろした。机の隅に置いた。書類の隣。インク壺の隣。表札の見える位置。
「……ここが、お前の席ね」
白い熊は何も言わなかった。ふわふわの毛並みが、窓からの光を受けて、柔らかく光っていた。
仕事場に、温泉地の記憶を置く。仕事と休息を分けない。──いや、両方を同じ場所に置けるようになった、ということだ。
窓の外で、鐘が鳴った。正午の鐘。
さて、仕事をしよう。テオを呼び戻さないと。午後の決裁が溜まっている。
──でも、その前に。
菓子の紙包みを折りたたんで、引き出しにしまった。甘い匂いが、紙に残っていた。
◇
同じ日の夕方。帝国監査局長執務室。
引き出しを開けた。
空だった。
菓子の包みは届けた。押し花は──もう、あの人の手元にある。廊下の壁際ではなく、白い光の差す執務室に。
引き出しに、何もなくなった。
──いや。
一枚だけ、紙がある。リンデンバート行きの乗合馬車の時刻表。いつ取り寄せたのか、自分でも覚えていない。気づいた時には引き出しに入っていた。
窓の外に、冬の夕焼け。橙色の光が、王都の屋根を染めている。
リンデンバートで見た夕焼けと、同じ色。あの時はベンチの反対側から、泣いている彼女を見ていた。今は──次にあの夕焼けを見る時、隣にいる。
「……悪くない」
窓に向かって、声に出した。
あの人が、最初の朝に王都の光を見て言った言葉。同じ言葉が──今、俺の口から出た。
悪くない。
仕事しか知らなかった人間が、休み方を覚えた。それだけのことが──こんなにも、悪くなかった。
◇
二度目の人生も、結局ブラックだった。
十年間、朝は誰より早く、夜は誰より遅く。手柄は奪われ、昇給は止められ、名前すら呼ばれなかった。
でも──。
今、窓から差す冬の光は白い。表札には私の名前がある。机の隅に白い熊がいる。引き出しには甘い匂いが残っている。来週、部下が初めての休暇を取る。次の休暇には、隣に座る人がいる。
二度目の人生は──休み方を、知っている。
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