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社畜令嬢は有給休暇をご所望です!  作者: 九葉(くずは)


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第2話 何もしない一日

朝の光が瞼を撫でて、私は目を覚ました。


──誰にも起こされなかった。


それだけのことに、しばらく天井を見上げたまま動けなかった。


ここはリンデンバート。王都から馬車で五日、山あいの小さな温泉地。昨日の夕方、揺れに揺られてようやく着いた宿の部屋は、壁に染みがあって、窓枠が少し歪んでいて、前世の感覚で言えばビジネスホテル以下だ。


最高だった。


だって誰も来ない。扉を叩く音がない。「リヒター嬢、この書類を至急」がない。「明日の朝までに」がない。


枕に顔を埋めて、深く息を吸う。干したばかりのシーツの匂いがした。お日様の匂い。


(……いつぶりだろう。こんなふうに、朝の匂いを嗅いだの)


のろのろと起き上がる。着替えて、部屋を出て、階段を下りる。


宿の一階は食堂になっていて、朝の光が窓から差し込んでいた。木のテーブルに、焼き立てのパンと、チーズと、薄く切った燻製肉が並んでいる。


「おはよう、お嬢さん。ぐっすり眠れたかい?」


女将のマルタが声をかけてくる。五十がらみの、腰の据わった大柄な女性だ。笑うと目尻の皺がくしゃっと寄る。


「はい……おかげさまで」


「そりゃ良かった。ゆっくり食べな。今日はいい天気だから、温泉も気持ちいいよ」


パンをちぎって口に運ぶ。


……おいしい。


たったそれだけのことに、喉の奥がつんと痛くなった。書記局にいた頃は、朝食を味わう余裕なんてなかった。立ったまま固いパンをかじって、走って出仕して、机に着いた瞬間から書類の山。十年間、ずっと。


(もういい。今日は考えない。何も考えない)


マルタに教わった大浴場に向かう。



お湯が、熱い。


いや、熱くはない。ちょうどいい。でも身体が驚いている。こんなに長く、何にも追われずにお湯に浸かったことがないから。


湯気の向こうに、石造りの天井が見える。小さな窓から朝日が差し込んで、湯面に光の模様を描いていた。


(前世の銭湯にちょっと似てる……いや、こっちの方がいい。人がいない)


広い浴場に、私一人。ぬるめの湯に身体を沈めて、ぼんやりと目を閉じる。


──こんなことしていていいのかな。


唐突に、その考えが浮かんだ。


書記局では今頃、テオが困っているかもしれない。引き継ぎ書は作っていない。だって作れと言われたことがなかったし、私の仕事のやり方を聞いてくる人もいなかった。


ヘルツ次長は困らないだろう。あの人は私の仕事を自分の手柄にしていたけれど、仕事の中身には興味がなかった。帳簿の整理法則も、文書の分類体系も、あの人は知らない。


──知らないなら、困らないでしょう。困っていることにも気づかないんだから。


(いや、だから。考えないって決めたでしょ、私)


ざぶん、と頭まで湯に沈む。ぶくぶくと泡が上がる。前世の過労死の直前もこうだった。湯船の中で「あと五分だけ」と思って、そのまま意識が──


やめよう。


顔を上げて、息を吐く。天井の石に、朝日が反射してきらきら光っている。


ここにいていい。休んでいい。有給は法的に有効だって、法務官殿が認めた。


──休むのに、理由はいらない。


お湯の中で、自分の手をじっと見る。インクの染みが消えかけている。十年分の染みが、温泉で少しずつ薄くなっていく。


なんだか、それだけで泣きそうになった。



午後。市場を歩いた。


小さな温泉街の市場は、王都とは比べものにならないくらいのんびりしていた。干し果物の屋台、手編みのショールを売る老婆、石鹸を並べた露店。どれも素朴で、誰も急いでいない。


焼き菓子の屋台を見つけた。蜂蜜とナッツの焼き菓子。一つ買って、かじる。


甘い。


ただ甘いだけなのに、胸の奥がじわっと温かくなる。王都では甘いものを買う余裕がなかった。お金は全部借金の返済に回していたから。十年間で、自分のために買った贅沢品は──たぶん、ない。


(……私、十年間何やってたんだろ)


いや、わかっている。借金を返していた。父の残した負債。男爵家の名前を守るため。それは私が選んだことだ。後悔はしていない。


でも、焼き菓子一つ買えなかった十年間は、やっぱりちょっとだけ、惜しい。


二つ目を買った。


公園のベンチに座って、本を広げた。宿の本棚から借りてきた、辺境の伝承をまとめた古い本。文字を追ううちに、いつの間にかうとうとして──


──目を開けたら、空がオレンジ色だった。


夕焼け。


山の稜線の向こうに太陽が沈みかけていて、空の半分が茜色に染まっている。雲の端が金色に光って、風が冷たくなり始めていた。


綺麗だった。ただ、それだけ。


涙が出た。


声は出なかった。ただ頬を伝って、顎の先から落ちた。次から次へと、止まらなかった。


前世の、最後の夜を思い出す。病院のベッドの上。もう少しだけ、と思った。もう少しだけ休みたい、と。あの時の私に教えてあげたい。


──休めたよ。やっと。


しばらくそのまま、ベンチに座って泣いた。誰も見ていなかった。たぶん。



翌朝。休暇二日目。


昨日と同じように好きな時間に起きて、朝食を食べて、散歩に出た。昨日の公園のベンチが気に入ったので、同じ場所に向かう。


──先客がいた。


ベンチの右端に、一人の青年が座っていた。


眉間に深い皺を寄せて、膝の上に広げた書類を睨んでいる。外套の色は暗い紺。大きな手が、紙の端を苛立たしげに弾いた。


(……休暇先で書類を読んでいる人がいる)


前世の自分を見ているようだった。ちょっとだけ親近感が湧いたのは、たぶんそのせい。


ベンチに近づく。青年が顔を上げた。


暗い色の瞳。愛想はない。表情もほとんどない。でも、敵意もなかった。


私が立ち止まったのを見て、青年は何も言わずにベンチの端に寄った。膝の上の書類を片手でまとめ、隣に置いていた革鞄をさらに端へ押しやる。


──座れるスペースが、できた。


言葉はなかった。ただ荷物を寄せただけ。でもそれは、「ここに座ってもいい」という無言の許可だった。


「……失礼します」


小さく会釈して、腰を下ろす。


青年は何も言わず、書類に視線を戻した。


風が吹いた。木の葉がさらさらと鳴る。温泉街の遠くから、子どもの笑い声が聞こえる。


それだけ。


名前も聞かない。聞かれもしない。ただ同じベンチに座っている、というだけの関係。


──なんだろう。嫌じゃない。


本を開く。文字を追う。隣で紙がめくれる音がする。それぞれの沈黙が、不思議と心地よかった。



夕方。宿に帰る前に、もう一度公園の前を通った。


まだいた。


同じベンチ、同じ姿勢。眉間の皺も変わっていない。朝からずっとここにいたのだろうか。


「……まだいたんですか」


思わず声が出た。


青年が顔を上げる。暗い瞳が私を認識して、一拍。


「……ああ」


それだけ。


二言で終わった会話。なのに、口元が少し──ほんの少しだけ緩んだように見えたのは、夕日のせいだろうか。


その時、風がひときわ強く吹いた。


青年の膝から書類が一枚、ひらりと舞い上がる。私の足元にふわりと落ちた。


拾い上げて、差し出す。


指先が紙に触れた一瞬、文字がちらりと見えた。


──『書記局』。


「……どうも」


青年が低い声で言って、書類を受け取った。大きな指が紙の端を掴んで、革鞄にしまう。


(書記局の書類……まあ、宮廷関連の文書なんて世の中にいくらでもあるか)


気に留めなかった。


宿に帰ると、マルタが夕食の準備をしていた。


「ねえマルタさん。公園のベンチに毎日いる青年を知っていますか? 背が高くて、無愛想で、ずっと書類を読んでいる人」


「ああ、あの子かい。数日前から来ているお客さんだよ。うちの宿じゃないけどね。近くの宿に泊まってるって聞いたかな」


「そうですか」


それだけ聞いて、部屋に戻る。


窓を開けると、山の向こうにまだ夕焼けの残りが見えた。昨日泣いたのと同じ色。でも今日は泣かなかった。


(……あの人も、休暇で来ているのかしら)


休暇なのに書類を読んでいる。休み方を知らない人。


──ちょっとだけ、昔の自分に似ていると思った。

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