表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
社畜令嬢は有給休暇をご所望です!  作者: 九葉(くずは)
第2章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

19/30

第19話 裁定

 裁定会議室は、大会議室よりも天井が低い。


 壁に掛かった宰相府の紋章と、長い楕円のテーブル。椅子の数は少ない。傍聴席はない。ここは見せるための場所ではなく、決めるための場所だった。


 私は出席者席の末席に座っていた。文書管理室室長として。証人ではなく、関係部署の長として。


 ──あの日、証人席で膝の上の帳面を握っていた私は、もういない。



 宰相が議事を開いた。


 「本日の裁定事項は三件。第一に、ヴィクトル・フォン・ヘルツ元書記局次長に対する横領の正式認定および刑事告発の決定。第二に、匿名告発書の審議。第三に、関連する人事措置について」


 ヘルツが召喚席に座っていた。


 五日前の予算審議会で椅子に沈んでいた時よりも、さらに痩せた気がした。頬がこけて、目の下に影がある。柔和な表情を作る余裕すら、もうないらしい。


 「ヘルツ元次長。弁明の機会を与える」


 宰相の声は平坦だった。裁く者の声。


 ヘルツが口を開いた。一度閉じた。喉が動いた。


 「……申し上げることは、ありません」


 声が、床に落ちた。石の床に吸い込まれて、消えた。


 会議室に沈黙が落ちた。それから宰相が、手元の書類を一枚めくった。


 「横領を正式に認定する。刑事告発の手続きを法務部に指示する。加えて──爵位剥奪を宮内省に勧告する」


 爵位剥奪。ヘルツ家の名前ごと消える。


 ヘルツの肩が、微かに震えた。それだけだった。十年間、部下の手柄を奪い、金を掠め取り、柔和な笑顔の下に全てを隠してきた人の最後は──震えだけだった。


 (……何も、感じない)


 嘲笑する気はなかった。最初からなかった。怒りはとうに通り過ぎた。あるのはただ──数字が正しい場所に収まった、という感覚だけ。帳簿が合った時と同じ。それだけのこと。



 「第二議題。匿名告発書の審議に移る」


 ヨハン・ブレヒトが立ち上がった。


 分厚い眼鏡。淡々とした声。この人はいつも同じだ。法の側にだけ立つ。


 「宰相府に提出された匿名告発書について、筆跡鑑定を実施しました」


 手元の鑑定書を広げる。


 「告発書の筆跡は、メリッサ・フォン・オルテア主任書記官──現在は降格処分により一般書記官──の公式書類の筆跡と一致しました。特徴的な子音の繋ぎ字、行末の処理、大文字の装飾癖が合致しています」


 メリッサが立ち上がった。──いや、立ち上がろうとした。膝が震えていた。


 「違います。あれは私ではありません」


 「加えて」


 ヨハンの声は、メリッサの声を通り越して進んだ。


 「告発書の封書には封蝋が使用されていませんでした。そのため紙面に直接残った指紋の圧痕を照合しました。──オルテア書記官の人事登録時の指紋記録と一致します」


 封蝋なし。あの夜、メリッサが急いで封をしたから。蝋を使わなかったのは、手元になかったからか、焦っていたからか。いずれにしても──その省略が、本人を指し示した。


 メリッサの顔から血の気が引いた。唇が動いた。言葉にならなかった。


 「告発の内容──帝国監査局長と文書管理室室長の不正な私的関係──について、裏付ける証拠は確認されませんでした。本告発は根拠なしとして棄却を勧告します」


 ヨハンが着席した。



 沈黙を破ったのは、オルテア伯爵だった。


 ゆっくりと、老いた身体を椅子から持ち上げた。厳格な顔。五日前の予算審議会で「弁明の機会を」と言った、あの声。


 でも──今日の声は、あの時とは違っていた。


 「閣下。──娘の行為は、オルテア家の監督の不行き届きによるものです」


 メリッサの目が、見開かれた。


 「父上──」


 伯爵はメリッサを見なかった。宰相だけを見ていた。


 「オルテア家として、娘の宮廷追放を受け入れます。また、予算審議委員としての私の推薦枠において、今後オルテア家の名を挙げることはいたしません」


 推薦取り下げ。伯爵にとって、それは宮廷における影響力の一つを自ら手放すことを意味する。


 (……あの日から)


 あの面会室。十年分の記録を見た後の、声色の変化。「これを、一人で?」──あの問いの中に、すでに答えがあったのかもしれない。権力者が真実を知った時、権力の使い方が変わる。


 「メリッサ」


 伯爵が、初めて娘を見た。


 「家に帰りなさい」


 低い声だった。切り捨てる声ではなかった。でも──守る声でもなかった。終わらせる声。これ以上、この場にいてはいけないと告げる、父親の声。


 メリッサの目から、涙がこぼれた。音もなく。──私は、その涙を見てしまった。


 憐れんだわけじゃない。許したわけでもない。ただ──あの涙は、嘘ではなかった。



 「メリッサ・フォン・オルテアの宮廷追放を承認する」


 宰相の声が、会議室を閉じた。


 「同時に、帝国監査局長レオンハルト・グレイに対する接触禁止勧告を撤回する。根拠となった告発が棄却されたため、勧告を維持する理由はない」


 撤回。


 胸の奥で、何かが緩んだ。表情には出さなかった。出すわけにいかなかった。ここは裁定の場だ。


 でも──膝の上で、指先がほんの少しだけ、震えた。



 裁定後。


 会議室を出ると、宰相が廊下で待っていた。


 「リヒター室長。──未払い昇給の追給手続きは来週から始まる。書類は法務部から届くだろう」


 「ありがとうございます、閣下」


 「それと、もう一件」


 宰相が、薄い封書を差し出した。宰相府の朱印。


 「目を通しておいてくれ。返答は急がない」


 封書を受け取った。開けようとして──宰相の目がほんの少し緩んだのが見えた。笑ったのか、あの人も。わからない。あの日の裁定会議でレオンハルトの補記事項を受理した時と、同じ目だった。


 「……失礼いたします」


 封書を資料の間に挟んだ。あの白い花を挟んだのと同じ場所に。


 廊下を歩く。裁定会議室から、宰相府の正面廊下まで。冬の光が窓から差し込んでいる。白い光。──あの執務室の朝と同じ白。


 角を曲がった。


 壁際に──人がいた。


 暗い紺の外套。腕を組んで、壁に背を預けている。あの夜、ランプの下で書類を読んでいた時と同じ姿勢。でも今日は書類を持っていない。手ぶらで、ただ──立っていた。


 足が止まった。


 レオンハルトが顔を上げた。暗い瞳。眉間の皺。──でも、あの予算審議会の日に見た空席とは違う。ここに、いる。


 「……裁定は」


 「終わりました」


 「そうか」


 短い返事。この人はいつもそうだ。言葉が足りない。でも──今日は、続きがあった。


 「足手まといだと言った」


 「ええ」


 「嘘だった」


 壁から背を離した。私の方を向いた。


 「お前に害が及ぶ告発が出ている時に、俺が傍にいれば口実を与える。離れる以外に方法がなかった。──説明が足りなかった」


 知っている。あの夜、官舎でぬいぐるみを抱えながら、とっくに気づいていた。


 でも──本人の口から聞くのは、違う。


 「……知ってた」


 レオンハルトの目が、一瞬だけ見開かれた。


 「知ってた、って──いつから」


 「あの日の夜から。……馬鹿だなって思った」


 口角が動きそうになって、こらえた。こらえきれなかった。少しだけ笑ってしまった。


 レオンハルトが黙った。それから──片手を壁から下ろした。


 「照合済印の件は」


 「気づきました。──壇上で、最終ページをめくった時に」


 「……そうか」


 また短い返事。でも──目が、少し緩んだ。あの執務室で微かに笑った時と同じ。口角ではなく、目が先に笑う人。


 「あと」


 私は言った。


 「廊下のランプ。ずっと油が減るのが早かったの、知ってます」


 レオンハルトの動きが止まった。


 「……誰に聞いた」


 「テオから。夜間の油の補充記録を見たって。文書管理室の廊下だけ、消費量が倍だったそうです」


 沈黙。


 長い指が、外套の袖口を掴んだ。離した。


 「……仕事の一環だ」


 「嘘が下手ですね、局長殿」


 レオンハルトが、まっすぐ私を見た。


 否定しなかった。


 冬の光が廊下を白く染めている。二人の間に、一歩分の距離。あの丘の上の東屋と同じ。肩が触れるか触れないかの距離。


 レオンハルトの手が──下がった。自然に。力を入れたわけでも、意図したわけでもないように。指先が、私の指先のすぐ傍に来た。


 触れた。


 指先だけ。握らない。絡めない。ただ──指の腹が、私の指の甲に触れた。温かかった。あの祭りの夜、人混みで引かれた手とは違う。今度は、優しい温度だった。


 「……次の休暇は」


 レオンハルトが言った。


 「まだ予定を聞いてなかった」


 笑った。声に出して笑ったら、目の奥が熱くなった。泣きそうだった。でも──ここは宰相府の廊下だ。泣かない。


 「……蜂蜜菓子が届いたら、考えます」


 レオンハルトの指が、ほんの一瞬だけ、私の指を押した。小さく。確かに。


 それから離れた。


 「──明日届く」


 背を向けた。暗い紺の外套。まっすぐな背中。廊下を歩いていく。


 私はその背中を見送って、資料を抱え直した。封書と、白い花の挟まったページと。


 文書管理室へ帰ろう。テオが待っている。仕事がある。


 ──でも、指先がまだ温かかった。冬の廊下なのに、ずっと。



 同じ夜。帝国監査局長執務室。


 引き出しを開けた。


 蜂蜜と胡桃の焼き菓子。紙包み。リンデンバートのあの店から取り寄せた二つ目の包み。あの夜、「届けられない」と戻したもの。


 机の上に置いた。


 明日の朝、文書管理室に届ける。公的な名目は──いらない。もう、いらない。


 窓の外に、月が出ていた。薄い冬の三日月。あの温泉地の星空とは違う。でも──悪くなかった。


 「……知ってた、か」


 声に出した。誰もいない部屋で。


 あの人は、十年間、誰にも気づかれずに働き続けた。誰よりも目が良い。誰よりも数字を読む。


 俺の下手な嘘など、最初から見えていたのだろう。


 それでも──「知ってた」と笑ってくれた。


 包みに手を置いた。紙の感触。明日、届ける。今度こそ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ