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社畜令嬢は有給休暇をご所望です!  作者: 九葉(くずは)
第2章

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18/30

第18話 壇上

 手のひらが冷たかった。


 前にも同じことを思った。宰相府の大会議室。秋の終わりの朝。あの日は証人席の硬い椅子に座っていた。膝の上の帳面を握りしめて、誰かが私の十年間を代わりに語ってくれるのを、黙って聞いていた。


 今日は違う。


 報告者席に、私が立っている。



 朝、文書管理室で資料の最終確認をした。


 帳簿の写し。全件照合表。筆圧痕の記録。伝票の現物。テオと十日間、朝から晩まで突き合わせた結果の全て。


 テオが水差しを持ってきた。


 「室長」


 「ん」


 「行ってらっしゃい」


 真っ赤な目をしていた。また泣いたな、この子。


 「泣いてないわよ」


 「それ僕の台詞です」


 少しだけ笑って、資料を抱えた。廊下に出る。


 長い廊下。冬の朝の白い光。ランプはもう点いていない。──あの夜、ここでレオンハルトが書類を読んでいた。壁に寄りかかって、灯りの下で。


 今日、その場所には誰もいなかった。



 大会議室。


 空気が冷えている。あの日と同じ。でも──季節が進んだ分だけ、本当に寒い。


 正面に宰相ルドルフ・フォン・ヴァルトシュタイン閣下。隣に副宰相。各局の局長級。外務局長。


 予算審議委員席に、オルテア伯爵。厳格な横顔。あの面会室で「……これを、一人で?」と声色を変えた人。今日はまだ、表情が読めない。


 召喚席に──ヴィクトル・フォン・ヘルツ。


 元次長。解任されたはずの男が、椅子に座っている。柔和な表情は作っていなかった。顎の筋肉が強張っている。あの癖。十年かけて覚えた顔。


 傍聴席の後方に、メリッサの横顔がちらりと見えた。


 そして──監査局長の席。


 空だった。


 (……いない)


 わかっていた。接触禁止の勧告が出ている以上、この場に同席すれば告発の口実を与える。だから来ない。来られない。


 報告者席に立った。机の上に資料を広げる。手のひらが冷たい。指先が微かに震えている。


 ──でも。


 あの日は、誰かに証明してもらった。今日は、自分で証明する。


 「文書管理室室長、エステル・フォン・リヒターです。外交接待費の帳簿調査結果を報告いたします」


 声が、少し震えた。聞こえただろうか。聞こえたかもしれない。


 でも、止めなかった。



 「過去三年間の外交接待費を全件照合した結果、四半期ごとに約百二十ターラーの定額上乗せが確認されました」


 図を示す。テオと作った一覧表。四半期ごとの支出額を棒グラフにしたもの。前世なら表計算ソフトで一瞬だけれど、ここでは定規とインクで三日かかった。


 「この上乗せは、ヘルツ元次長の着任時期と完全に一致します。着任前の四半期には存在せず、着任後の全四半期に等しく現れています」


 会議室がざわついた。局長級の一人が手元の資料に目を落とした。


 ヘルツが立ち上がった。


 「閣下。これは推測に過ぎません。支出額の変動は外交状況により──」


 「では、現物をお示しします」


 私はヘルツの声を遮った。──あの日、レオンハルトがヘルツを遮ったのと、同じように。意識したわけじゃない。でも、声は自然に出た。


 鞄から支出伝票を取り出す。三十七枚目。あの日、光に透かした一枚。


 窓に向かって歩いた。冬の朝の白い光が、斜めに差し込んでいる。


 伝票を掲げた。光に透かした。


 「この伝票の承認署名の下に、別の署名の筆圧痕が残っています。ペンの跡は紙に凹凸を刻みます。上からインクを塗り直しても──紙は、嘘をつきません」


 会議室が静まった。


 宰相が身を乗り出した。副宰相が眼鏡を外して目を凝らした。


 光に浮かぶ凹凸。細い線。几帳面な筆跡。大文字のVの下端が、独特の角度で跳ねている。


 「筆圧痕の筆跡は、ヘルツ元次長の公式署名と一致します。つまり──この伝票は最初にヘルツ元次長が署名し、後から別の名義で書き直されたものです」


 ヘルツの顔から、一切の表情が消えた。白い。紙みたいに白い。──あの日と同じ顔。でも今日は、もっと深い白さだった。


 「偽造だ」


 声が裂けた。ヘルツの声だとは思えないほど、甲高い。


 「そんなものは偽造だ。リヒター嬢が自作した──」


 「法務官殿」


 私はヨハンを見た。レオンハルトがあの日そうしたように。


 ヨハン・ブレヒトが立ち上がった。分厚い眼鏡。一切の私情のない目。三度目の法廷に立つ男の、淡々とした声。


 「当該伝票は文書管理室の保管庫から、法務部立ち会いの下で取り出されたものです。保管庫の施錠記録、取り出し日時、立会人の署名を添付しています。加えて、副本台帳との照合により、記載内容の改ざんがないことを確認済みです。──偽造の余地はありません」


 ヘルツの口が開いた。閉じた。もう一度開こうとして──開かなかった。


 (……前にも、この顔を見た)


 あの日。レオンハルトが功績の横取りを暴いた時と同じ。でも──あの時は手柄の話だった。今日は金の話。重みが違う。



 資料の最終ページをめくった。


 全件照合の総括表。日付、伝票番号、金額、筆圧痕の有無。十日間の作業の結晶。


 その右下隅に──印が押してあった。


 帝国監査局の照合済印。小さな朱印。局章の鷲の紋。


 (──いつ)


 この資料は昨夜、テオと最終確認して封をした。照合済印が押されるには、監査局長の決裁が必要なはず。


 ──私が知らない間に、テオに連絡を取ったのか。それとも法務部経由で。いずれにしても、直接の接触を避けながら、証拠の公的裏付けだけは──。


 (……あの人は)


 距離を取ると言った。足手まといになると言った。でも──印だけは、押した。自分の名前ではなく、局の名前で。公的に。正式に。この証拠は正しいと、黙って保証した。


 指先が震えた。冷たさではなく。


 顔を上げた。宰相の方を向いた。


 「以上が、外交接待費に関する帳簿調査の全結果です」


 声は、もう震えていなかった。



 宰相が長い沈黙の後に口を開いた。


 「──ヘルツ元次長。本件を横領として認定する。刑事告発の手続きに入ることとする」


 横領認定。刑事告発。解任よりも重い。地位を失うだけでなく、財産と名誉を失う。


 ヘルツは何も言わなかった。椅子に沈んだまま、天井を見ていた。


 「なお、匿名の告発書について──」


 宰相の目が、傍聴席に向いた。メリッサの方ではない。伯爵の方。


 オルテア伯爵が、ゆっくりと立ち上がった。


 厳格な顔。あの面会室で見た横顔と同じ。でも──目の奥に、何かが揺れていた。


 「閣下。──娘の件も含め、弁明の機会を頂きたい」


 会議室の空気が変わった。メリッサの顔が、傍聴席の影の中で凍りついたのが見えた。


 宰相が頷いた。


 「次回の裁定会議で審議する。──本日は閉会とする」


 椅子を引く音。足音。ざわめき。


 私は報告者席に立ったまま、資料を揃えた。最終ページの照合済印に、もう一度だけ指で触れた。


 小さな朱印。あの人の手が、ここに触れた。



 廊下に出た。


 大会議室の重い扉が背中で閉まる。冬の光が廊下を白く染めている。


 壁際に、何かがあった。


 白い花。一輪。花瓶もなく、壁と床の隙間にそっと挟まれていた。リンデンバートの丘で見た野花と似ている。こんな冬の王都で、どこから持ってきたのか。


 名前は書いていない。


 しゃがんで、手に取った。花弁がひんやりと冷たい。でも──茎はまだ瑞々しかった。つい先ほどまで、誰かの手の中にあったのだろう。


 資料の間に挟んだ。照合済印のページの、すぐ隣に。


 (……来られなかったのに)


 来なかったんじゃない。来られなかった。でも──花だけは、ここに置いた。


 立ち上がって、廊下を歩き出した。文書管理室へ。テオが待っている。報告が待っている。仕事が待っている。


 でも──資料を抱える腕に、いつもより少しだけ力がこもっていた。



 傍聴席の出口。


 メリッサ・フォン・オルテアは、人波が消えた廊下に一人で立っていた。


 父の声が、まだ耳に残っている。


 「──娘の件も含め、弁明の機会を頂きたい」


 弁明。


 あれは、守るための言葉ではなかった。


 家名を守るために、切り離すための言葉だった。娘の愚行は家の責任──そう宰相に示すことで、オルテア家の信用を最低限繋ぎ止める。


 匿名の告発。封蝋なしの手紙。あれが自分に返ってくる。


 壁に手をついた。指先が震えていた。


 (私は──何をしたかったんだろう)


 答えは出なかった。

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