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社畜令嬢は有給休暇をご所望です!  作者: 九葉(くずは)
第2章

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第17話 離れる理由

 朝の執務室に差し込む光は、もう冬の色をしていた。


 窓の外で落葉が一枚、風に巻かれて消えた。テオが扉を開けたのは、私がインク壺の蓋を開けた直後だった。


 いつもの元気な「おはようございます」がない。顔が白い。紙より白い。


 「室長。──宰相府から通達です」


 差し出された封書には、宰相府の朱印。封蝋を割って開く。


 文面は短かった。


 『帝国監査局長と文書管理室室長の間における私的接触について、匿名の申告が提出された。事実確認を行うため、当面の期間、業務外の接触を控えるよう勧告する』


 指先が、一瞬だけ止まった。


 (……来た)


 予想していなかったわけじゃない。あの夜──テオが真実を声にした翌日から、何かが動くだろうとは思っていた。匿名。差出人の名前がなくても、筆跡を見なくても、誰が書いたかは想像がつく。


 「室長……」


 テオの声が不安に揺れている。


 私は通達を机に置いた。静かに。音を立てないように。


 「テオ、今日の処理予定を確認して。午前中に外交経費の帳簿を片付ける」


 「──はい」


 仕事を、する。それだけだ。十年間そうしてきたように。



 午前十時。


 レオンハルトが来た。


 暗い紺の正装。胸元の局章。──いつもと同じ。でも、違う。扉を開ける前に、二度、ノックした。以前は一度だった。


 「監査局長として、前回の確認事項の補足に伺いました」


 声が硬い。リンデンバートのベンチで「まだいるのか」と言った時とも、「足手まといになる」と──いや、まだ言っていない。まだ、これからだ。


 テオが同席した。公式の面会。書類のやり取り。事務的な質問と回答。声のトーンも、視線の角度も、全てが「業務」の枠の中に収まっていた。


 確認が終わった。テオが書類を整えるために一瞬、書棚に向かった。


 その隙。


 レオンハルトの声が、低くなった。


 「──通達は読んだか」


 「ええ」


 「……足手まといになる」


 顔を上げた。レオンハルトは私を見ていなかった。壁の表札を見ていた。私の名前と肩書きが書かれた、あの木の板を。


 「しばらく距離を取る。──すまない」


 立ち上がった。背中が見えた。広い背中。リンデンバートの丘で隣に立った時よりも、ずっと遠い背中。


 扉が閉まった。


 テオが振り返った。私の顔を見て、何か言いかけて、口を閉じた。


 「──帳簿を持ってきて。外交接待費の、三年分」


 「……はい」


 (泣くのは、後。今は数字)



 午後。


 文書管理室の机に、三年分の外交接待費の帳簿が広がっていた。


 この前で見つけた規則的な上乗せ。四半期ごとに約百二十の増額。ヘルツ次長の在任期間と一致する不自然なパターン。あの時は「疑い」だった。今日、確信に変える。


 支出伝票を一枚ずつ、窓からの光に透かした。


 前世の経理部で教わった手法。上から書き直された書類には、下の筆圧が紙に残る。インクは消せても、ペンの跡は消えない。人の手は嘘をつけるけれど、紙は正直だ。


 三十七枚目。


 光に透かした伝票の、承認署名の下に──別の文字の凹凸が浮かんだ。


 細い線。几帳面な筆跡。見慣れた癖。大文字のVの下端が、独特の角度で跳ねる。


 「V. v. Hertz」


 ──ヴィクトル・フォン・ヘルツ。


 解任されたはずの前上司の名前が、別の承認者の署名の下に、筆圧の痕として残っていた。


 つまり。この伝票は最初にヘルツが署名し、後から別の名義で書き直された。解任前から──いや、あるいは解任後も。この不正は、ヘルツ個人の手柄の横取りだけでは終わらない。金が動いている。


 (……数字は嘘をつかない。紙も、嘘をつかない)


 前世の記憶が、ふっと重なった。深夜のオフィス。蛍光灯の下で上司の領収書を電卓で叩いた夜。あの時と同じだ。数字の裏に人の嘘がある。でも──数字そのものは、いつだって正直だった。


 帳簿を閉じた。伝票をそっと元に戻し、透かし結果をメモに取った。日付、伝票番号、筆圧痕の位置。前世で叩き込まれた証拠保全の手順。


 テオが戻ってきた。お茶を二つ持って。


 「室長、そろそろ休憩を──」


 「テオ」


 「はい」


 「明日から、帳簿の全件照合を始める。三年分。──手伝って」


 テオが目を見開いた。それから、鼻の先が赤くなった。


 「泣かないわよ」


 「泣いてません! ──はい、やります」



 夜。官舎の部屋。


 靴を脱いで、上着を椅子に掛けて、棚を見上げた。


 白い熊のぬいぐるみ。射的で当てた──いや、レオンハルトが当てた。祭りの夜。手を引かれた夜。名前も知らなかった頃の、あの夜の記念品。


 手を伸ばして、降ろした。少し埃をかぶっていた。手のひらで払う。ふわふわの毛並み。安っぽい綿の詰め物。でも──温かい。


 ベッドに座って、膝の上に熊を置いた。


 「足手まといになる」。


 あの言葉を、反芻する。硬い声。壁の表札を見ていた横顔。私を見なかった目。


 ──あの人は、私を見なかった。


 見たら、嘘がばれるから。


 温泉地で、使者を追い返した人。祭りの夜に手を引いた人。廊下のランプの下で書類を読んでいた人。蜂蜜菓子を匿名で届けた人。


 「足手まといになる」──そんなわけがない。


 あの人は、私を告発の矢面に立たせたくなかったのだ。匿名の申告が二人の関係を狙い撃ちにしている以上、接触を続ければ私の立場が危うくなる。だから離れた。守るために。あの人の不器用なやり方で。


 (……馬鹿)


 声に出した。小さく。部屋には誰もいない。


 ぬいぐるみの頭を、指先で撫でた。


 涙は出なかった。出さない。泣くのは全部終わってからにする。


 机の上に、今日のメモが置いてある。筆圧痕の記録。V. v. Hertzの六文字。


 私にはこれがある。数字がある。紙がある。十年間の記録がある。


 あの人が距離を取るなら、その間に私は証拠を揃える。予算審議会の壇上で、数字だけで全てを証明する。あの人が隣にいなくても。


 ──いなくても。


 白い熊を、ぎゅっと抱き締めた。一度だけ。それから棚に戻した。


 帳簿を開いた。



 同じ夜。帝国監査局長執務室。


 机の上に、紙が一枚。匿名告発の写し。流れるような筆跡。封蝋なし。──差出人は知っている。知っていて、手を打てない。


 引き出しを開けた。


 紙包み。蜂蜜と胡桃の焼き菓子。リンデンバートから取り寄せた、あの店のもの。三日前に届いていた。届けるつもりだった。


 包みを見つめる。


 「……届けられない」


 声は、誰にも届かなかった。


 窓の外は月のない夜だった。灯りのない廊下と同じ暗さ。


 ──あの灯りの下で、彼女は数字を数えている。俺がいなくても。


 わかっている。あの人は、一人でも立てる。十年間、そうしてきた。


 だから──今は、離れる。


 包みを引き出しに戻した。


 報告書を開いた。

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