第16話 告白
「『リヒター先輩は、本当にすごい人だったんだな』——って、書記局で言ったんです。俺が」
テオの声は、いつもの大音量だった。朝の文書管理室。窓から差し込む光が白い壁を照らしている。
「……いつ」
「昨日です。昼休みに、書記局の食堂で」
帳簿を持つ手が止まった。テオの方を見る。栗色の頭が少しだけ俯いていて、でも目はまっすぐこちらを見ている。
「前から思ってたんです。先輩の仕事を、書記局の連中はちゃんとわかってないって。噂が広まった時、黙ってるのが我慢できなくなって」
「テオ、あなた——」
「勝手にやりました。すみません」
頭を下げる。深く。栗色の髪がばさりと落ちる。
「先輩が十年間どれだけ仕事してたか。ヘルツ次長が功績報告書に何を書いてたか。メリッサ先輩が外交書簡の下書きをどう扱ってたか。俺が見てきたことを、そのまま話しました」
(この子は——私に黙って——)
怒る気にはなれなかった。テオの性格は知っている。感情的で、真っ直ぐで、我慢が続かない。三年間ずっと見てきたことを、溜め込み続ける方が不自然だ。
「怒ってますか」
「怒ってない」
「……本当ですか」
「本当。——でも、次からは事前に言いなさい」
テオが顔を上げた。目が赤い。いつもの。
「室長の仕事が認められないのは、おかしいんです。みんなが知らないだけで——知れば、わかるはずだから」
(……この子は、ずっとそう思ってくれていたんだ)
三年前。書記局に配属されたばかりの青年が「教えてください」と言った。他の誰も聞いてこなかったことを、この子だけが聞いた。あの時から、この子だけは見ていた。
「ありがとう、テオ」
それだけ言った。声が少しかすれたのは、朝の空気が乾燥しているせいだ。
◇
変化は、午前中のうちに現れた。
文書管理室の扉を叩く音。開けると、エーリヒが立っていた。
三日前の訪問では目を泳がせて足早に去った、あのエーリヒ。
今日は、目がまっすぐだった。
「リヒター室長。——あの時は、知らなくて」
声が震えている。手が上着の裾を握っているのは前と同じだけれど、今度は緊張じゃない。
「バルツ書記官から話を聞きました。リヒター先輩が一人で、あれだけの量を——ヘルツ次長の報告書に、先輩の名前が一度も出ていなかったなんて、知らなかったんです。すまなかった」
(……ああ)
テオが話したのだ。書記局の中で。
エーリヒの後ろに、もう一人。若い女性の書記官——名前は確か、リーゼ。私より二年後に入局した子だ。
「あの、私も……あの噂、信じかけていて。でも昨日バルツさんの話を聞いて——本当に申し訳ありませんでした」
二人とも頭を下げた。
何を言えばいいかわからなかった。「気にしないで」と言うのは嘘になる。気にしていなかったと言えば嘘になる。十年間、隣の机にいた人たちが、私の仕事を知らなかった。それは事実で、事実は変わらない。
でも——今、知ってくれた。
「ありがとう。わざわざ来てくれて」
微笑んだ。たぶん、ちゃんと笑えていたと思う。
二人が帰った後、テオが何も言わずに帳簿を開いた。鼻をすすっていた。私も何も言わなかった。
◇
午後。
扉を叩く音。今日はやけに来客が多い——と思いながら「どうぞ」と声をかけた。
開いた扉の向こうに、暗い紺の正装。
レオンハルトさんだった。
胸元の局章。背筋がまっすぐ。いつもの。——いつもと違うのは、右手に小さな紙包みを持っていること。
テオが椅子から立ち上がりかけて、レオンハルトさんの視線を受けて、そっと座り直した。何かを察したのか、帳簿に目を落とす。耳は真っ赤だったけれど。
「リヒター室長。少しいいか」
公的な呼称。公的な声。
「はい」
レオンハルトさんが二歩、机に近づいた。右手の紙包みを、私の机の上に置いた。
——いや。
置いたのではない。
差し出した。
手から、手へ。
紙包みが私の手のひらに載った。茶色い紙。紐で結ばれている。軽い。温かくはない。でも——見覚えがある。
あの朝、机の上に置かれていた包みと、同じ紙。同じ紐。
「これは、俺が送っていた」
低い声だった。
短い。いつも通り短い。でも——「仕事だ」とも「監査の一環だ」とも言わなかった。
送っていた。俺が。
紙包みを見つめた。紐の結び目。茶色い紙のしわ。あの朝の焼き菓子と同じ匂いが、かすかにする。蜂蜜とナッツ。リンデンバートの、あの屋台の。
(……ああ)
マルタさんじゃなかった。
掃除係でもなかった。
辺境の温泉街から焼き菓子を取り寄せて、手紙も添えずに机の上に置いていった人は——目の前にいる。
あの無愛想な顔で。あの短い言葉しか使わない口で。「送っていた」と。
(知ってた、なんて言えない。全然知らなかった。マルタさんかもって思ってた。掃除係かもって思ってた。まさかこの人だなんて——)
口を開いた。
「……知ってました」
嘘だ。
知らなかった。全然知らなかった。でも——「知らなかった」と言ったら、何かが壊れそうだった。この人が手紙も添えずに黙って送り続けていた、その沈黙の形を、壊してしまう気がした。
だから嘘をついた。
レオンハルトさんの暗い瞳が、一瞬だけ——ほんの一瞬だけ——揺れた。
信じたのか、見抜いたのか。わからない。何も言わなかった。
紐をほどいた。紙を開く。蜂蜜とナッツの焼き菓子。三つ。あの日と同じ。
一つ手に取って、かじった。
甘い。
あの温泉地の市場で、初めて自分のために買った味と同じ。三つ目を「余分に買ってしまったので」と差し出した時の味と同じ。あの人が無表情のまま受け取って、「悪くなかった」と言った時の——
目の奥が、じわりと熱くなった。
泣いてはいない。泣いていないけど——焼き菓子の甘さが、喉の奥を通る時、少しだけ、詰まった。
「……おいしいです」
声がかすれた。焼き菓子のせいだ。口の中がぱさついたから。
レオンハルトさんは何も言わなかった。一つ頷いて、踵を返した。
扉が閉まる。足音が遠ざかる。
テオが帳簿の上から顔を上げた。何か言いたそうな顔。口を開いて——閉じて——もう一度開いて。
「……何も見てません」
「ありがとう」
焼き菓子の残り二つを紙包みに戻した。一つはテオの分。もう一つは——明日の朝の分。
手のひらに、紙包みの感触が残っている。手から手へ渡された時の、一瞬の重さ。
(知ってました、なんて。大嘘。全然知らなかった)
でも、今は知っている。
それだけで、この焼き菓子は——あの朝よりもずっと、甘い。
◇
夜。
王都の東区画。オルテア伯爵邸の二階。メリッサの私室。
蝋燭の灯りの下で、羊皮紙の上にペンが走っている。
文字は震えていた。
『宰相府法務局御中
帝国監査局長レオンハルト・グレイと文書管理室室長エステル・フォン・リヒターの間に
不適切な関係が存在する疑いについて、調査を要請いたします——』
匿名。差出人の欄は空白にする。筆跡でわからないよう、左手で書いている。だから震えている——と、メリッサは自分に言い聞かせた。
お父様は、あの面会の後から何も言わなくなった。食事の席で話しかけても、帳面の話をしても、「あの女は嘘をついている」と訴えても——黙って、食事を続けるだけ。
あの没落令嬢が、何を見せたのか知らない。でもお父様の態度が変わったのは事実で、態度が変わった理由がリヒター室長にあるなら、リヒター室長を潰すしかない。
(あの女が監査局長と繋がっているのは誰だって知っている。報告会で名前を呼んでいたと、書記局の連中が言っていた)
ペンが止まった。
インクの染みが、羊皮紙に小さな丸を作った。
蝋燭の炎が揺れている。風はないのに。
——書き上げた。
封をする。封蝋は使わない。蝋の紋様で家が特定される。糊で封をして、宛先だけを書いた。
明日の朝、使いに出す。使いは屋敷の者ではなく、市場で雇った足の速い少年。追跡は困難。
蝋燭を吹き消した。暗い部屋で、封書の白さだけが浮かんでいる。
「……私は間違っていない」
誰に向けたのでもない声が、闇に溶けた。




