表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
社畜令嬢は有給休暇をご所望です!  作者: 九葉(くずは)
第2章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

15/30

第15話 仕事じゃない

 面会室の扉は、思ったより重かった。


 宰相府の西棟、三階。来賓用の面会室は普段は使われておらず、扉の取っ手にうっすら埃が積もっていた。


 約束の時刻まで、あと少し。


 帳面を鞄から出して、もう一度中身を確認する。十年分の業務記録。処理件数、文書番号、作成日時。そして先日の月次報告書の控え。数字は全部頭に入っている。入っているけれど、もう一度見る。


 (大丈夫。数字がある。数字で語る。それだけ)


 前世の就活を思い出した。最終面接の前の廊下で、履歴書を何度もめくった。書いてあることは変わらないのに、確認しないと不安だった。あの時と同じ。手が少しだけ冷たい。


 伯爵。


 オルテア伯爵。予算審議会の有力委員。ヘルツ殿と茶会を重ねている人物。メリッサの父親。


 (没落男爵家の娘が、伯爵の前に一人で座る。——いや、身分で怯んでどうする。向こうが「事実を確認したい」と言ってきたんだから、事実を見せればいい)


 帳面を鞄に戻した。背筋を伸ばす。


 扉に手をかけようとした時——廊下の奥から、足音が近づいてきた。


 長い歩幅。聞き覚えのある靴音。


 振り返ると、レオンハルトさんが歩いてくるところだった。


 暗い紺の正装。胸元に監査局の局章。手には何も持っていない。表情は——いつも通り、ない。


 「……レオンハルトさん」


 今度は公の場じゃない。廊下に二人きり。名前で呼んでも、テオに聞かれる心配はない。


 「グレイ局長」と呼び直そうか迷って、やめた。一度間違えた呼び方は、二度目からは間違いじゃなくなる。……いや、それは都合のいい解釈か。


 レオンハルトさんが私の前で足を止めた。


 「監査局として同席する」


 短い。いつもの。


 「問題は」


 「……ありません」


 問題はない。監査局長が関連人物との面会に同席するのは、監査の後日確認の一環として権限の範囲内だ。公的な名目は成立する。


 (でも、事前に連絡はなかったし、宰相府からの指示でもなさそう。この人が自分で来た?)


 考える暇はなかった。廊下の奥から別の足音が近づいている。


 扉を開けた。



 面会室は、窮屈だった。


 窮屈というのは広さの話じゃない。天井は高く、窓も大きい。椅子は上等で、机には白い布がかかっている。


 窮屈なのは、空気だ。


 オルテア伯爵は、正面の椅子に座っていた。


 白髪交じりの壮年。背筋は定規で引いたように真っ直ぐで、顎が少しだけ上がっている。目は——鋭い。品はあるが、温かくはない。この人が「公正」と呼ばれているのは、公正であることに一切の妥協がないからだろう。つまり、甘さがない。


 私とレオンハルトさんが入室した時、伯爵の目がレオンハルトさんの方を一瞬だけ見た。局章を確認するような視線。それからすぐに私に戻った。


 「リヒター室長」


 低い声。威圧があるのに、怒鳴っているわけではない。声量を上げなくても相手を圧せる種類の人間だ。前世でいえば──大企業の取締役。役員面接の、あの空気。


 「お時間をいただき、ありがとうございます。オルテア伯爵」


 椅子に座る。レオンハルトさんは私の隣の椅子に、黙って腰を下ろした。


 距離は——椅子一つ分。近くも遠くもない。でも、隣に人がいるというだけで、背中が少しだけ温かい。


 「単刀直入に聞く」


 伯爵が口を開いた。


 「文書管理室の新設は、通常の手続きを経ていない。宰相閣下の直轄とはいえ、予算審議会の承認前に人事が動いている。これは異例だ」


 (……来た)


 予想通りの切り口。手続きの不備を突く。伯爵が「公正」であるなら、まずここから入るだろう。


 「仰る通りです。人事の決裁は宰相閣下の権限で行われましたが、予算については審議会の承認を得ておりません。現在の運営費は宰相府の予備費から充当されています」


 「承知している。——私が聞きたいのは、なぜ君なのか、ということだ」


 伯爵の目が、まっすぐ私を射る。


 「没落男爵家の一書記官が、宰相直轄の室長に抜擢された。能力があるというなら、その根拠を示してほしい」


 声が冷たいわけではなかった。ただ、容赦がない。


 (この人は敵じゃない。でも味方でもない。事実を見せなければ、何も始まらない)


 帳面を机の上に置いた。


 「十年間の業務記録です。書記局在籍中に私が処理した全件の記録を、日付・文書番号・処理内容とともに記載しています」


 伯爵が帳面に手を伸ばした。分厚い。十年分の記録は、かなりの厚さになっている。


 ページをめくる指が止まった。最初の年の記録を見て、次の年に飛ばして、さらに三年目。


 「……毎日、これを」


 「はい」


 「引き継ぎ書はないと聞いた。この記録があるなら——」


 「引き継ぎ書の作成を指示されたことはありません。ですが、自分の仕事は自分で記録する癖がありまして」


 伯爵のページをめくる手が速くなった。数字を追っている。処理件数の推移。年々増えていく業務量。一人で。


 「先日の月次報告では、文書管理室の処理効率は書記局時代の三倍と報告されています。この帳面をご覧いただければ、書記局時代の処理の大半が一人の書記官——私に集中していたことがわかるかと思います」


 沈黙が落ちた。


 伯爵がページをめくる音だけが、面会室に響いている。


 レオンハルトさんは、私の隣で一言も発していなかった。書類も出していない。ただ、座っている。


 (監査の同席なのに、何もしない?)


 ちらりと横を見た。暗い瞳は正面を向いている。表情はない。でも——背筋がいつもよりほんの少しだけ前に傾いている。私と伯爵の間に、身体を割り込ませるように。


 気のせいかもしれない。


 伯爵が帳面を閉じた。


 「……これを、一人で?」


 声が変わっていた。面会の冒頭にあった刃物のような鋭さが、少しだけ鈍っている。


 「十年間、一人で?」


 「はい」


 「昇給は」


 「三年間、止められていました」


 伯爵の指が、閉じた帳面の表紙の上で一度だけ動いた。タップするように。何かを計算しているのか、何かを呑み込んでいるのか。


 それ以上は聞かれなかった。


 「……わかった。記録は確認した。予算審議会までに、もう一度精査させてもらう」


 立ち上がる伯爵の表情は、入室時と同じく読めなかった。でも——声のトーンは、確かに変わっていた。



 面会室を出た。


 廊下。午後の光が窓から差し込んで、石の床に四角い模様を描いている。


 レオンハルトさんが、二歩後ろを歩いていた。


 「ありがとうございました。同席していただいて」


 振り返って言うと、暗い瞳がこちらを見下ろした。


 「……一人で行くな」


 低い声だった。


 「え?」


 「次も——こういう場に一人で行くな」


 足が止まった。振り返ったまま、レオンハルトさんを見上げる。


 窓からの光が、この人の横顔を半分だけ照らしている。眉間の皺。顎の線。あの温泉地のベンチにいた時と同じ顔で、全く違うことを言っている。


 「仕事ですか?」


 聞いた。聞かなければよかったかもしれない。でも、聞かずにはいられなかった。


 あの夜の廊下のランプ。「仕事だ」と答えた声。監査局長として同席する、と言った公的な名目。全部「仕事」で説明がつく。この人が私の隣にいる理由は、いつだって「仕事」で。


 レオンハルトさんの唇が閉じた。一拍。


 長い沈黙。


 廊下の向こうから、足音が聞こえ始めている。誰かが近づいてくる。


 「……仕事じゃない」


 五文字。


 低い声が、午後の廊下に落ちた。石の壁には反響しなかった。私の耳にだけ届くような、小さな声だった。


 心臓が一つ跳ねた。


 口を開こうとした。何を言おうとしたのか、自分でもわからない。


 足音が近づいてくる。角を曲がって、宰相府の書記官が二人、書類を抱えて歩いてきた。


 レオンハルトさんが一歩下がった。距離が開く。椅子一つ分から、三つ分に。


 「——では、リヒター室長。失礼する」


 公的な声。公的な呼称。紺の背中が、書記官たちの間をすり抜けて、廊下の向こうに消えた。


 私は、立ち尽くしていた。


 (仕事じゃない)


 あの五文字が、胸の中でぐるぐる回っている。


 仕事じゃない。監査の一環じゃない。じゃあ——何。


 (……聞きたかった。もう少しだけ、聞きたかった)


 足音のせいだ。あと十秒遅かったら、もう一言くらい——いや、この人が一言以上喋ることは稀だ。五文字でも多い方だ。あの無愛想の基準では。


 息を吐いた。廊下の窓から、秋の風が入ってくる。冷たい。でも、耳の先がまだ熱い。


 帰ろう。仕事がある。帳簿がある。数字がある。


 文書管理室に向かって歩き始めた時、背後の廊下の奥から——声が聞こえた。


 女の声。甲高い。壁に反響して、言葉の端だけが届く。


 「——お父様、あの女は——」


 足が止まった。


 「——嘘を——」


 声は、すぐに遠ざかった。扉が閉まる音。それきり、何も聞こえなくなった。


 メリッサの声だった。声の質で、わかった。書記局で十年間、隣の机の向こうから聞いていた声。


 (……伯爵に、何かを訴えている)


 振り返っても、廊下にはもう誰もいない。


 「あの女は嘘をついている」。


 そう言ったのだろうか。断片だけでは確定できない。でも——メリッサがこのタイミングで伯爵に何かを訴える理由は、一つしか思いつかない。


 帳面を握り直した。鞄の中で、十年分の記録が重い。


 (嘘をついているのは、どちらかしら)


 答えは、数字が知っている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ