第15話 仕事じゃない
面会室の扉は、思ったより重かった。
宰相府の西棟、三階。来賓用の面会室は普段は使われておらず、扉の取っ手にうっすら埃が積もっていた。
約束の時刻まで、あと少し。
帳面を鞄から出して、もう一度中身を確認する。十年分の業務記録。処理件数、文書番号、作成日時。そして先日の月次報告書の控え。数字は全部頭に入っている。入っているけれど、もう一度見る。
(大丈夫。数字がある。数字で語る。それだけ)
前世の就活を思い出した。最終面接の前の廊下で、履歴書を何度もめくった。書いてあることは変わらないのに、確認しないと不安だった。あの時と同じ。手が少しだけ冷たい。
伯爵。
オルテア伯爵。予算審議会の有力委員。ヘルツ殿と茶会を重ねている人物。メリッサの父親。
(没落男爵家の娘が、伯爵の前に一人で座る。——いや、身分で怯んでどうする。向こうが「事実を確認したい」と言ってきたんだから、事実を見せればいい)
帳面を鞄に戻した。背筋を伸ばす。
扉に手をかけようとした時——廊下の奥から、足音が近づいてきた。
長い歩幅。聞き覚えのある靴音。
振り返ると、レオンハルトさんが歩いてくるところだった。
暗い紺の正装。胸元に監査局の局章。手には何も持っていない。表情は——いつも通り、ない。
「……レオンハルトさん」
今度は公の場じゃない。廊下に二人きり。名前で呼んでも、テオに聞かれる心配はない。
「グレイ局長」と呼び直そうか迷って、やめた。一度間違えた呼び方は、二度目からは間違いじゃなくなる。……いや、それは都合のいい解釈か。
レオンハルトさんが私の前で足を止めた。
「監査局として同席する」
短い。いつもの。
「問題は」
「……ありません」
問題はない。監査局長が関連人物との面会に同席するのは、監査の後日確認の一環として権限の範囲内だ。公的な名目は成立する。
(でも、事前に連絡はなかったし、宰相府からの指示でもなさそう。この人が自分で来た?)
考える暇はなかった。廊下の奥から別の足音が近づいている。
扉を開けた。
◇
面会室は、窮屈だった。
窮屈というのは広さの話じゃない。天井は高く、窓も大きい。椅子は上等で、机には白い布がかかっている。
窮屈なのは、空気だ。
オルテア伯爵は、正面の椅子に座っていた。
白髪交じりの壮年。背筋は定規で引いたように真っ直ぐで、顎が少しだけ上がっている。目は——鋭い。品はあるが、温かくはない。この人が「公正」と呼ばれているのは、公正であることに一切の妥協がないからだろう。つまり、甘さがない。
私とレオンハルトさんが入室した時、伯爵の目がレオンハルトさんの方を一瞬だけ見た。局章を確認するような視線。それからすぐに私に戻った。
「リヒター室長」
低い声。威圧があるのに、怒鳴っているわけではない。声量を上げなくても相手を圧せる種類の人間だ。前世でいえば──大企業の取締役。役員面接の、あの空気。
「お時間をいただき、ありがとうございます。オルテア伯爵」
椅子に座る。レオンハルトさんは私の隣の椅子に、黙って腰を下ろした。
距離は——椅子一つ分。近くも遠くもない。でも、隣に人がいるというだけで、背中が少しだけ温かい。
「単刀直入に聞く」
伯爵が口を開いた。
「文書管理室の新設は、通常の手続きを経ていない。宰相閣下の直轄とはいえ、予算審議会の承認前に人事が動いている。これは異例だ」
(……来た)
予想通りの切り口。手続きの不備を突く。伯爵が「公正」であるなら、まずここから入るだろう。
「仰る通りです。人事の決裁は宰相閣下の権限で行われましたが、予算については審議会の承認を得ておりません。現在の運営費は宰相府の予備費から充当されています」
「承知している。——私が聞きたいのは、なぜ君なのか、ということだ」
伯爵の目が、まっすぐ私を射る。
「没落男爵家の一書記官が、宰相直轄の室長に抜擢された。能力があるというなら、その根拠を示してほしい」
声が冷たいわけではなかった。ただ、容赦がない。
(この人は敵じゃない。でも味方でもない。事実を見せなければ、何も始まらない)
帳面を机の上に置いた。
「十年間の業務記録です。書記局在籍中に私が処理した全件の記録を、日付・文書番号・処理内容とともに記載しています」
伯爵が帳面に手を伸ばした。分厚い。十年分の記録は、かなりの厚さになっている。
ページをめくる指が止まった。最初の年の記録を見て、次の年に飛ばして、さらに三年目。
「……毎日、これを」
「はい」
「引き継ぎ書はないと聞いた。この記録があるなら——」
「引き継ぎ書の作成を指示されたことはありません。ですが、自分の仕事は自分で記録する癖がありまして」
伯爵のページをめくる手が速くなった。数字を追っている。処理件数の推移。年々増えていく業務量。一人で。
「先日の月次報告では、文書管理室の処理効率は書記局時代の三倍と報告されています。この帳面をご覧いただければ、書記局時代の処理の大半が一人の書記官——私に集中していたことがわかるかと思います」
沈黙が落ちた。
伯爵がページをめくる音だけが、面会室に響いている。
レオンハルトさんは、私の隣で一言も発していなかった。書類も出していない。ただ、座っている。
(監査の同席なのに、何もしない?)
ちらりと横を見た。暗い瞳は正面を向いている。表情はない。でも——背筋がいつもよりほんの少しだけ前に傾いている。私と伯爵の間に、身体を割り込ませるように。
気のせいかもしれない。
伯爵が帳面を閉じた。
「……これを、一人で?」
声が変わっていた。面会の冒頭にあった刃物のような鋭さが、少しだけ鈍っている。
「十年間、一人で?」
「はい」
「昇給は」
「三年間、止められていました」
伯爵の指が、閉じた帳面の表紙の上で一度だけ動いた。タップするように。何かを計算しているのか、何かを呑み込んでいるのか。
それ以上は聞かれなかった。
「……わかった。記録は確認した。予算審議会までに、もう一度精査させてもらう」
立ち上がる伯爵の表情は、入室時と同じく読めなかった。でも——声のトーンは、確かに変わっていた。
◇
面会室を出た。
廊下。午後の光が窓から差し込んで、石の床に四角い模様を描いている。
レオンハルトさんが、二歩後ろを歩いていた。
「ありがとうございました。同席していただいて」
振り返って言うと、暗い瞳がこちらを見下ろした。
「……一人で行くな」
低い声だった。
「え?」
「次も——こういう場に一人で行くな」
足が止まった。振り返ったまま、レオンハルトさんを見上げる。
窓からの光が、この人の横顔を半分だけ照らしている。眉間の皺。顎の線。あの温泉地のベンチにいた時と同じ顔で、全く違うことを言っている。
「仕事ですか?」
聞いた。聞かなければよかったかもしれない。でも、聞かずにはいられなかった。
あの夜の廊下のランプ。「仕事だ」と答えた声。監査局長として同席する、と言った公的な名目。全部「仕事」で説明がつく。この人が私の隣にいる理由は、いつだって「仕事」で。
レオンハルトさんの唇が閉じた。一拍。
長い沈黙。
廊下の向こうから、足音が聞こえ始めている。誰かが近づいてくる。
「……仕事じゃない」
五文字。
低い声が、午後の廊下に落ちた。石の壁には反響しなかった。私の耳にだけ届くような、小さな声だった。
心臓が一つ跳ねた。
口を開こうとした。何を言おうとしたのか、自分でもわからない。
足音が近づいてくる。角を曲がって、宰相府の書記官が二人、書類を抱えて歩いてきた。
レオンハルトさんが一歩下がった。距離が開く。椅子一つ分から、三つ分に。
「——では、リヒター室長。失礼する」
公的な声。公的な呼称。紺の背中が、書記官たちの間をすり抜けて、廊下の向こうに消えた。
私は、立ち尽くしていた。
(仕事じゃない)
あの五文字が、胸の中でぐるぐる回っている。
仕事じゃない。監査の一環じゃない。じゃあ——何。
(……聞きたかった。もう少しだけ、聞きたかった)
足音のせいだ。あと十秒遅かったら、もう一言くらい——いや、この人が一言以上喋ることは稀だ。五文字でも多い方だ。あの無愛想の基準では。
息を吐いた。廊下の窓から、秋の風が入ってくる。冷たい。でも、耳の先がまだ熱い。
帰ろう。仕事がある。帳簿がある。数字がある。
文書管理室に向かって歩き始めた時、背後の廊下の奥から——声が聞こえた。
女の声。甲高い。壁に反響して、言葉の端だけが届く。
「——お父様、あの女は——」
足が止まった。
「——嘘を——」
声は、すぐに遠ざかった。扉が閉まる音。それきり、何も聞こえなくなった。
メリッサの声だった。声の質で、わかった。書記局で十年間、隣の机の向こうから聞いていた声。
(……伯爵に、何かを訴えている)
振り返っても、廊下にはもう誰もいない。
「あの女は嘘をついている」。
そう言ったのだろうか。断片だけでは確定できない。でも——メリッサがこのタイミングで伯爵に何かを訴える理由は、一つしか思いつかない。
帳面を握り直した。鞄の中で、十年分の記録が重い。
(嘘をついているのは、どちらかしら)
答えは、数字が知っている。




