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社畜令嬢は有給休暇をご所望です!  作者: 九葉(くずは)
第2章

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14/30

第14話 名前

 「『書記局時代の三倍』——閣下がそう仰ったんです、室長!」


 テオが報告会の間から飛び出してくるなり、廊下で叫んだ。目が潤んでいる。鼻の先が赤い。いつもの。


 「聞いてました、テオ。同じ部屋にいたでしょ」


 「でも! 三倍ですよ三倍! 閣下が! 直接!」


 宰相府の報告会の間。文書管理室としての、初めての月次業績報告だった。


 着任から三週間。報告の形式は簡素にした。処理件数、未処理残数、対応日数の平均。数字だけを並べた一枚の報告書。飾りはいらない。数字が語る。


 宰相ルドルフ・フォン・ヴァルトシュタイン閣下は、報告書に目を通して、一つ頷いた。


 「文書管理室の処理効率は、書記局が同業務を担当していた時期の三倍を超えている。——見事だ、リヒター室長」


 三倍。


 たった二人の部署で、書記局が大勢で回していた業務の三倍。


 (……いや、書記局が「大勢で回していた」わけじゃない。私が一人で回していたのを、大勢で回しているふりをしていただけ)


 報告会の間には各局の局長級が並んでいた。外務局長、法務局長、財務局長。そして——帝国監査局長。


 レオンハルトさんは、列の端に座っていた。暗い紺の正装。背筋がまっすぐ。表情はない。温泉地のベンチにいた人と同じ顔で、全く違う空気をまとっている。


 宰相の「見事だ」の後、各局長が軽く頷いた。社交辞令か本心かはわからない。でも、数字が出た以上、否定はできない。


 三倍。エステル・フォン・リヒターが一人で構築した文書管理体系を、エステル・フォン・リヒターが二人の部署で回した結果。


 ヘルツ殿が宰相府に提出していた功績報告書には、「書記局次長の指導の下で業務効率化を達成」と書かれていた。次長がいなくなって、次長が「指導」していたはずの書記官が別部署に移って、処理効率が三倍になった。


 何の指導だったんですか、と聞きたい人はきっと多いだろう。


 私は聞かない。数字が聞いてくれるから。



 報告会が終わり、局長級が順に退室していく。


 廊下に出た時だった。


 前を歩いていた人影とすれ違う形になった。暗い紺の正装。長い歩幅。


 「——レオンハルトさん」


 呼んでいた。


 口が先に動いた。頭が追いつく前に、温泉地で何度も呼んだ名前が、そのまま出た。


 あ、と思った時にはもう遅い。


 (いま、公の場で、監査局長を名前で呼んだ……?)


 レオンハルトさんの足が止まった。半歩分だけ。暗い瞳がこちらを見て——一拍。


 「……リヒター室長」


 公的な呼称が返ってきた。声のトーンは平坦。表情も変わらない。そのまま歩き去る。


 背後で、テオが固まっていた。


 「室長」


 「……なに」


 「今、局長を——名前で——」


 「聞かなかったことにして」


 「聞こえました。ばっちり聞こえました。廊下に響いてました」


 (やめて)


 テオの目がきらきらしている。涙目じゃなくて、何か別の光。好奇心か、からかいか、あるいはその両方。


 「テオ」


 「はい」


 「帳簿」


 「……はい」


 仕事の話に切り替えれば黙る。この子の操縦法は三年で覚えた。


 (失態だ。気をつけないと。ここは温泉地じゃない。あの人は監査局長で、私は被監査部署の室長。名前で呼ぶ間柄じゃない——少なくとも、公の場では)


 足早に廊下を歩く。耳が熱い。秋の廊下は冷えているはずなのに、耳の先だけが妙に熱い。


 (何やってるの私。二十五歳の官僚が、名前を呼んだくらいで動揺するなんて。前世なら部長を「さん」付けで呼んで気まずくなった新入社員レベルよ)


 角を曲がる。


 もう一つ角を曲がったところで、足が止まった。


 廊下の先に、レオンハルトさんがいた。


 こちらに背を向けて立っている。右手に報告書の束を持ったまま、歩いていない。何かを待っているのか、立ち止まっているだけなのか。


 (……あれ。さっき先に行ったはずなのに、なんでここに)


 声をかけようとした時——人の気配が廊下から消えた。報告会終わりの局長級は全員退出したらしい。


 廊下に、二人だけ。


 レオンハルトさんが振り返った。


 暗い瞳。ランプの灯りは消えていて、窓からの昼の光だけが差し込んでいる。あの夜の廊下とは違う。白い光。影がくっきりしている。


 口が動いた。


 「——エステル」


 低い声。


 公の場で返してきた「リヒター室長」とは全く違う声。温泉地で、星空の下で、名前を交わした夜と同じ——いや、あの夜よりもっと柔らかい。


 呼んだ直後、レオンハルトさんの唇がきゅっと閉じた。自分の声に自分で驚いたような顔。視線が横にずれて、戻って、それからまた報告書に落ちた。


 何も言わなかった。


 私は——聞いていなかった。


 いや、正確に言えば、聞こえていなかった。その瞬間、手元の報告書の控えに目を落としていた。処理件数の端数が一つ合っていない気がして、気になって。経理部の癖だ。数字が目に入ると反射的に検算してしまう。


 顔を上げた時には、レオンハルトさんはもう歩き出していた。長い歩幅が遠ざかっていく。紺の背中が、廊下の角を曲がって消えた。


 (……あれ。何か言った?)


 気のせいかもしれない。廊下で立ち止まっていたのは、報告書の確認をしていただけかもしれない。監査局長は忙しい。


 報告書の控えに目を戻す。端数は——合っていた。検算の必要はなかった。


 (なんだ。合ってるじゃない)


 足を動かす。文書管理室に戻ろう。仕事がある。



 夕方。


 窓からの光が橙色に傾いた頃、テオが封書を持って駆け込んできた。


 「室長、お手紙です。正式な書簡で——」


 差し出された封書。厚い羊皮紙。封蝋にオルテア家の紋章が押してある。


 開ける。


 『リヒター室長殿


  予算審議会を前に、貴室の業務について事実関係を確認したく、

  面会を要請いたします。日時はご都合を伺いたい。


    ゲオルク・フォン・オルテア』


 オルテア伯爵。メリッサの父親。予算審議会の有力委員。


 ヘルツ殿と何度も茶会を重ねていると、テオが言っていた人物。


 (「事実関係を確認したい」……)


 書簡の文面は丁寧だった。無礼ではない。伯爵家の格式に見合った、形式を踏んだ文面。


 でも、行間が読めた。前世の会社で言えば、「ちょっとお話があるんだけど」と上司に呼ばれるのと同じだ。穏やかな口調の裏に、何かがある。


 テオが心配そうにこちらを見ている。


 「室長……大丈夫ですか」


 「大丈夫よ」


 封書を机に置いた。


 大丈夫。数字はもう出した。三倍の処理効率。宰相閣下の評価。これは事実であって、噂では覆せない。


 (でも——伯爵が予算審議会の委員である以上、業績だけでは足りないかもしれない。あの人が「予算を凍結すべき」と発言すれば、数字がいくら良くても通らない可能性がある)


 帳面に手を伸ばした。十年分の業務記録。あの暗い引き出しの奥から始まった、しわだらけの紙束から続いてきた記録。


 (面会には、これを持っていく。数字で語る。それしかできないけど、それが一番強い)


 窓の外で、鐘が鳴った。夕暮れの鐘。王都の空が橙色から紫に変わっていく。


 テオが帰り支度を始めた。鞄に帳簿を詰め込みながら、ぽつりと言った。


 「室長」


 「なに?」


 「今日の報告会、すごかったです。閣下が『見事だ』って。……俺、あの言葉、ずっと待ってたんです。先輩の仕事が認められるの」


 「テオ……」


 「先輩がいなくなった時、書記局は全部止まりました。俺、あの時思ったんです。リヒター先輩がやっていたことの大きさを、誰も知らなかったんだって。——今日、やっと数字で見えた。それが、すごく」


 テオの鼻が赤い。また目から汗が出そうな顔をしている。


 「……ありがとう。テオ」


 それだけ言った。それ以上は言葉にならなかった。


 テオが「おやすみなさい」と頭を下げて出ていった後、一人になった執務室で、しばらく座っていた。


 三倍。宰相の「見事だ」。テオの言葉。


 十年間、誰にも見えなかった仕事が、やっと数字になった。


 嬉しいはずなのに、胸の奥にある感情は、嬉しさだけじゃなかった。安堵。それから──ほんの少しだけ、寂しさに似た何か。


 (十年、か。十年あれば、もっと早く気づいてくれる人がいてもよかったのに)


 ——いた、かもしれない。


 あの温泉地のベンチで、隣に座って、私の仕事の話を黙って聞いていた人。「もう少し早く聞くべきだった」と、低い声で呟いた人。


 今日の報告会で、列の端から数字を見ていた人。


 名前を呼んだら、半歩だけ足を止めてくれた人。


 (……やめよう。考えても仕方ない)


 封書に手を伸ばす。オルテア伯爵の紋章。重い封蝋。


 面会は受ける。逃げる理由がない。数字がある。記録がある。それだけ持って、伯爵の前に立つ。


 帳面を鞄にしまった。


 執務室を出る時、廊下を一瞬だけ見た。


 灯りは、なかった。

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