第14話 名前
「『書記局時代の三倍』——閣下がそう仰ったんです、室長!」
テオが報告会の間から飛び出してくるなり、廊下で叫んだ。目が潤んでいる。鼻の先が赤い。いつもの。
「聞いてました、テオ。同じ部屋にいたでしょ」
「でも! 三倍ですよ三倍! 閣下が! 直接!」
宰相府の報告会の間。文書管理室としての、初めての月次業績報告だった。
着任から三週間。報告の形式は簡素にした。処理件数、未処理残数、対応日数の平均。数字だけを並べた一枚の報告書。飾りはいらない。数字が語る。
宰相ルドルフ・フォン・ヴァルトシュタイン閣下は、報告書に目を通して、一つ頷いた。
「文書管理室の処理効率は、書記局が同業務を担当していた時期の三倍を超えている。——見事だ、リヒター室長」
三倍。
たった二人の部署で、書記局が大勢で回していた業務の三倍。
(……いや、書記局が「大勢で回していた」わけじゃない。私が一人で回していたのを、大勢で回しているふりをしていただけ)
報告会の間には各局の局長級が並んでいた。外務局長、法務局長、財務局長。そして——帝国監査局長。
レオンハルトさんは、列の端に座っていた。暗い紺の正装。背筋がまっすぐ。表情はない。温泉地のベンチにいた人と同じ顔で、全く違う空気をまとっている。
宰相の「見事だ」の後、各局長が軽く頷いた。社交辞令か本心かはわからない。でも、数字が出た以上、否定はできない。
三倍。エステル・フォン・リヒターが一人で構築した文書管理体系を、エステル・フォン・リヒターが二人の部署で回した結果。
ヘルツ殿が宰相府に提出していた功績報告書には、「書記局次長の指導の下で業務効率化を達成」と書かれていた。次長がいなくなって、次長が「指導」していたはずの書記官が別部署に移って、処理効率が三倍になった。
何の指導だったんですか、と聞きたい人はきっと多いだろう。
私は聞かない。数字が聞いてくれるから。
◇
報告会が終わり、局長級が順に退室していく。
廊下に出た時だった。
前を歩いていた人影とすれ違う形になった。暗い紺の正装。長い歩幅。
「——レオンハルトさん」
呼んでいた。
口が先に動いた。頭が追いつく前に、温泉地で何度も呼んだ名前が、そのまま出た。
あ、と思った時にはもう遅い。
(いま、公の場で、監査局長を名前で呼んだ……?)
レオンハルトさんの足が止まった。半歩分だけ。暗い瞳がこちらを見て——一拍。
「……リヒター室長」
公的な呼称が返ってきた。声のトーンは平坦。表情も変わらない。そのまま歩き去る。
背後で、テオが固まっていた。
「室長」
「……なに」
「今、局長を——名前で——」
「聞かなかったことにして」
「聞こえました。ばっちり聞こえました。廊下に響いてました」
(やめて)
テオの目がきらきらしている。涙目じゃなくて、何か別の光。好奇心か、からかいか、あるいはその両方。
「テオ」
「はい」
「帳簿」
「……はい」
仕事の話に切り替えれば黙る。この子の操縦法は三年で覚えた。
(失態だ。気をつけないと。ここは温泉地じゃない。あの人は監査局長で、私は被監査部署の室長。名前で呼ぶ間柄じゃない——少なくとも、公の場では)
足早に廊下を歩く。耳が熱い。秋の廊下は冷えているはずなのに、耳の先だけが妙に熱い。
(何やってるの私。二十五歳の官僚が、名前を呼んだくらいで動揺するなんて。前世なら部長を「さん」付けで呼んで気まずくなった新入社員レベルよ)
角を曲がる。
もう一つ角を曲がったところで、足が止まった。
廊下の先に、レオンハルトさんがいた。
こちらに背を向けて立っている。右手に報告書の束を持ったまま、歩いていない。何かを待っているのか、立ち止まっているだけなのか。
(……あれ。さっき先に行ったはずなのに、なんでここに)
声をかけようとした時——人の気配が廊下から消えた。報告会終わりの局長級は全員退出したらしい。
廊下に、二人だけ。
レオンハルトさんが振り返った。
暗い瞳。ランプの灯りは消えていて、窓からの昼の光だけが差し込んでいる。あの夜の廊下とは違う。白い光。影がくっきりしている。
口が動いた。
「——エステル」
低い声。
公の場で返してきた「リヒター室長」とは全く違う声。温泉地で、星空の下で、名前を交わした夜と同じ——いや、あの夜よりもっと柔らかい。
呼んだ直後、レオンハルトさんの唇がきゅっと閉じた。自分の声に自分で驚いたような顔。視線が横にずれて、戻って、それからまた報告書に落ちた。
何も言わなかった。
私は——聞いていなかった。
いや、正確に言えば、聞こえていなかった。その瞬間、手元の報告書の控えに目を落としていた。処理件数の端数が一つ合っていない気がして、気になって。経理部の癖だ。数字が目に入ると反射的に検算してしまう。
顔を上げた時には、レオンハルトさんはもう歩き出していた。長い歩幅が遠ざかっていく。紺の背中が、廊下の角を曲がって消えた。
(……あれ。何か言った?)
気のせいかもしれない。廊下で立ち止まっていたのは、報告書の確認をしていただけかもしれない。監査局長は忙しい。
報告書の控えに目を戻す。端数は——合っていた。検算の必要はなかった。
(なんだ。合ってるじゃない)
足を動かす。文書管理室に戻ろう。仕事がある。
◇
夕方。
窓からの光が橙色に傾いた頃、テオが封書を持って駆け込んできた。
「室長、お手紙です。正式な書簡で——」
差し出された封書。厚い羊皮紙。封蝋にオルテア家の紋章が押してある。
開ける。
『リヒター室長殿
予算審議会を前に、貴室の業務について事実関係を確認したく、
面会を要請いたします。日時はご都合を伺いたい。
ゲオルク・フォン・オルテア』
オルテア伯爵。メリッサの父親。予算審議会の有力委員。
ヘルツ殿と何度も茶会を重ねていると、テオが言っていた人物。
(「事実関係を確認したい」……)
書簡の文面は丁寧だった。無礼ではない。伯爵家の格式に見合った、形式を踏んだ文面。
でも、行間が読めた。前世の会社で言えば、「ちょっとお話があるんだけど」と上司に呼ばれるのと同じだ。穏やかな口調の裏に、何かがある。
テオが心配そうにこちらを見ている。
「室長……大丈夫ですか」
「大丈夫よ」
封書を机に置いた。
大丈夫。数字はもう出した。三倍の処理効率。宰相閣下の評価。これは事実であって、噂では覆せない。
(でも——伯爵が予算審議会の委員である以上、業績だけでは足りないかもしれない。あの人が「予算を凍結すべき」と発言すれば、数字がいくら良くても通らない可能性がある)
帳面に手を伸ばした。十年分の業務記録。あの暗い引き出しの奥から始まった、しわだらけの紙束から続いてきた記録。
(面会には、これを持っていく。数字で語る。それしかできないけど、それが一番強い)
窓の外で、鐘が鳴った。夕暮れの鐘。王都の空が橙色から紫に変わっていく。
テオが帰り支度を始めた。鞄に帳簿を詰め込みながら、ぽつりと言った。
「室長」
「なに?」
「今日の報告会、すごかったです。閣下が『見事だ』って。……俺、あの言葉、ずっと待ってたんです。先輩の仕事が認められるの」
「テオ……」
「先輩がいなくなった時、書記局は全部止まりました。俺、あの時思ったんです。リヒター先輩がやっていたことの大きさを、誰も知らなかったんだって。——今日、やっと数字で見えた。それが、すごく」
テオの鼻が赤い。また目から汗が出そうな顔をしている。
「……ありがとう。テオ」
それだけ言った。それ以上は言葉にならなかった。
テオが「おやすみなさい」と頭を下げて出ていった後、一人になった執務室で、しばらく座っていた。
三倍。宰相の「見事だ」。テオの言葉。
十年間、誰にも見えなかった仕事が、やっと数字になった。
嬉しいはずなのに、胸の奥にある感情は、嬉しさだけじゃなかった。安堵。それから──ほんの少しだけ、寂しさに似た何か。
(十年、か。十年あれば、もっと早く気づいてくれる人がいてもよかったのに)
——いた、かもしれない。
あの温泉地のベンチで、隣に座って、私の仕事の話を黙って聞いていた人。「もう少し早く聞くべきだった」と、低い声で呟いた人。
今日の報告会で、列の端から数字を見ていた人。
名前を呼んだら、半歩だけ足を止めてくれた人。
(……やめよう。考えても仕方ない)
封書に手を伸ばす。オルテア伯爵の紋章。重い封蝋。
面会は受ける。逃げる理由がない。数字がある。記録がある。それだけ持って、伯爵の前に立つ。
帳面を鞄にしまった。
執務室を出る時、廊下を一瞬だけ見た。
灯りは、なかった。




