第13話 灯り
数字は嘘をつかない。
──前世で最初に教わったことが、二度目の人生でも正しかった。
文書管理室の着任から八日目。三週間分の未処理文書は、あと四分の一まで減っていた。
テオとの連携が噛み合い始めたのが大きい。私が分類法則を指示して、テオが仕分ける。仕分けたものを私が内容精査して、処理する。テオの手が空いたら次の束を渡す。前世の経理部で繁忙期にやっていた二人体制のミニマム版。
「室長、外務局からの照会書簡、三通目の照合が終わりました」
「ありがとう。次はこっちの帳簿をお願い。付箋のところから」
「はい!」
テオが帳簿を受け取って自分の机に戻る。栗色の頭がすぐに帳簿に沈む。この子は集中力がある。指示さえ正確に出せば、ちゃんと回る。
(一人で全部抱え込んでた十年間が嘘みたいだ)
いや、嘘じゃない。あの十年間は確かにあった。ただ──誰かに仕事を渡す、という選択肢を、私は持っていなかっただけ。渡す相手がいなかったから。渡し方を教わったこともなかったから。
前世でも同じだった。過労死するまで一人で全部抱えて、倒れて初めて「五人分の業務量」だと気づかれた。
今は違う。テオがいる。二人しかいないけど、二人いる。
◇
午後。テオが帰った後、一人で残った。
外交関連の帳簿の整理。これは書記局時代に私が管理していたものの副本で、文書管理室の管轄として引き継がれた。中身は私が構築した分類体系に沿って並んでいるから、読み解くのに困ることはない。
困ることはない──はずだった。
手が止まったのは、外交接待費の勘定を追っている時だった。
三年前の第三四半期。接待費の総額。
(……ん?)
数字を二度見た。ペンで書き写して、前の四半期と比べる。
増えている。前四半期比で一割増。
(まあ、接待費が増えること自体はおかしくない。外交案件が増えれば自然に増える)
次の四半期を見る。また一割増。次も。次も。
四半期ごとに、ほぼ一定の額が上乗せされている。
(……一定額?)
ペンが走る。四半期ごとの差額を書き出す。数字が並ぶ。
120。125。120。130。118。122。
端数がきれい過ぎる。
前世の経理部で叩き込まれたことがある。実費精算の数字は汚い。取引先ごとに金額が違い、人数が違い、場所が違うから、端数がばらつく。それが自然だ。
四半期ごとに「だいたい120前後」の上乗せが続くのは、自然じゃない。
(この仕訳パターン——)
前世の記憶が、鮮明に蘇った。入社三年目の監査対応。外部の会計士が帳簿をめくりながら言った。
『一定額の上乗せが規則的に続く場合、架空経費の計上を疑ってください。実費精算でこんなにきれいな数字にはなりません』
架空経費。
存在しない接待を帳簿に載せて、その分の金を抜く。前世で言う横領。
(いや——まだ断定はできない。本当に接待が増えただけかもしれない)
帳簿をめくる手に力がこもった。三年前。二年前。一年前。去年。今年の上半期。
全部、同じパターン。四半期ごとに一定額の上乗せ。
(五年分……いや、もっとだ)
さらに遡る。帳簿の束を引っ張り出す。文書管理室に引き継がれた副本は、書記局の過去十年分をカバーしている。
七年前。六年前。
上乗せが始まったのは——九年前の第二四半期。
ペンが止まった。
九年前。
私が書記局に入局して一年目。そして、ヴィクトル・フォン・ヘルツが書記局次長に就任した年。
(……一致する)
偶然かもしれない。次長の就任時期と接待費の増加開始が重なっただけかもしれない。
でも、数字は嘘をつかない。
帳簿を閉じて、両手で顔を覆った。指先が冷たい。秋の夜の執務室は、蝋燭の灯りだけでは温まらない。
(ヘルツ次長が——あの人が、接待費を——)
功績の横領だけじゃなかった。あの人は、お金も抜いていた。九年間。私が朝から晩まで働いて、借金を返して、昇給を止められて、甘いものひとつ買えなかった、その同じ年月の間に。
喉の奥が焼ける。怒りなのか悔しさなのか、区別がつかない。
(──落ち着け。まだ「疑い」の段階。確定させるには、接待の実績記録との照合が必要。接待の相手、日時、場所。帳簿上の記載と実際の接待が一致しなければ、架空経費の証拠になる)
前世の知識が、頭の中で手順を組み立てていく。
接待実績の記録は、外務局にある。書記局の帳簿だけでは片方しか見えない。でも──副本台帳との三重照合なら、不整合の箇所を特定できる。私が構築した三重保管体系。原本・副本・台帳を別々の場所に保管する仕組み。改ざんするなら三か所全部を同時に書き換えなければならない。
(……全部書き換えるのは、まず不可能だ。少なくとも副本台帳には痕跡が残っているはず)
帳面を開いた。十年分の業務記録。自分の帳面に、今日見つけた数字を書き写す。
手は、もう震えていない。
◇
執務室を出たのは、鐘が十を打った後だった。
廊下は暗い。窓から差し込む月明かりが、石の床に四角い模様を落としている。蝋燭は消えていて、宰相府の棟はすっかり静まり返っていた。
──灯り。
廊下の奥に、一つだけランプが灯っていた。
壁に寄りかかるようにして、一人の男が立っている。暗い紺の上衣。長い脚を組むように片足を壁につけて、手元のランプの灯りで──書類を読んでいる。
レオンハルトさんだった。
足音で気づいたのか、顔を上げた。暗い瞳にランプの光が映り込んで、一瞬だけ温かい色に見えた。
「……何をしているんですか」
声をかけたのは、私の方だった。
「仕事だ」
短い。いつもの一音に近い答え。温泉地で聞いた「ああ」と同じトーン。
(廊下で仕事……? 執務室、あるでしょうに)
監査局の部屋は別棟にあるはずだ。宰相府の棟に用があるとしても、こんな時間に廊下で書類を読む理由は思いつかない。
でも、詮索するのはやめた。この人に理由を聞いても、返ってくるのは短い答えだけだと知っている。
「遅くなったわね。お先に失礼します」
すれ違おうとした時、低い声が背中にかかった。
「遅くなるなら、護衛をつけた方がいい」
足が止まった。振り返る。
レオンハルトさんは書類に目を戻していた。ランプの灯りが、横顔の輪郭を淡く照らしている。眉間の皺は——温泉地にいた頃より、少しだけ深い。
「室長級に護衛はつきません。規定で」
「規定は変えられる」
「変える理由がありません」
一拍。レオンハルトさんの指が書類の端を弾いた。長い指。ペンだこのある、書き物をする人の手。
何か言いかけたように唇が動いて——止まった。
「……気をつけて帰れ」
それだけ。
視線は書類に戻った。廊下のランプの灯りが、石の床に丸い輪を落としている。
(……不思議な人。前からそうだけど)
温泉地でベンチに座っていた頃と同じだ。何も言わない。理由も説明しない。ただ、そこにいる。
「おやすみなさい」
小さく言って、廊下を歩き始めた。自分の足音だけが、石の壁に反響する。
振り返らなかった。振り返ったら、あのランプの灯りが見えてしまうから。
(あの人は、なんでこんな時間に廊下にいたんだろう。監査の仕事なら執務室でやればいいのに)
官舎に帰る道すがら、ずっと考えていた。答えは出なかった。
代わりに、別のことが頭を占めた。
帳簿の数字。九年間の上乗せ。ヘルツ次長の就任時期との一致。
(穴を見つけた。穴があるなら——追う)
数字は嘘をつかない。帳簿は嘘をつかない。
あの人が何年かけて積み上げた嘘でも、数字の前では同じだ。
官舎の自室に戻って、帳面を机に開いた。今日書き写した数字を、もう一度見る。
蝋燭の灯りが、数字の列を照らしている。
──これは、まだ「疑い」だ。確定させるには時間がかかる。
でも、見えてしまった。見えたものを見なかったことにはできない。
前世でも、そうだった。
帳面を閉じて、蝋燭を吹き消す。暗い部屋で、目を閉じた。
瞼の裏に、廊下のランプの灯りが残っている。石の壁に寄りかかって書類を読む横顔。「気をつけて帰れ」と言った、低い声。
(……あの灯りは、なんだったんだろう)
答えは出ないまま、眠りに落ちた。




