表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
社畜令嬢は有給休暇をご所望です!  作者: 九葉(くずは)
第2章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

13/30

第13話 灯り

 数字は嘘をつかない。


 ──前世で最初に教わったことが、二度目の人生でも正しかった。


 文書管理室の着任から八日目。三週間分の未処理文書は、あと四分の一まで減っていた。


 テオとの連携が噛み合い始めたのが大きい。私が分類法則を指示して、テオが仕分ける。仕分けたものを私が内容精査して、処理する。テオの手が空いたら次の束を渡す。前世の経理部で繁忙期にやっていた二人体制のミニマム版。


 「室長、外務局からの照会書簡、三通目の照合が終わりました」


 「ありがとう。次はこっちの帳簿をお願い。付箋のところから」


 「はい!」


 テオが帳簿を受け取って自分の机に戻る。栗色の頭がすぐに帳簿に沈む。この子は集中力がある。指示さえ正確に出せば、ちゃんと回る。


 (一人で全部抱え込んでた十年間が嘘みたいだ)


 いや、嘘じゃない。あの十年間は確かにあった。ただ──誰かに仕事を渡す、という選択肢を、私は持っていなかっただけ。渡す相手がいなかったから。渡し方を教わったこともなかったから。


 前世でも同じだった。過労死するまで一人で全部抱えて、倒れて初めて「五人分の業務量」だと気づかれた。


 今は違う。テオがいる。二人しかいないけど、二人いる。



 午後。テオが帰った後、一人で残った。


 外交関連の帳簿の整理。これは書記局時代に私が管理していたものの副本で、文書管理室の管轄として引き継がれた。中身は私が構築した分類体系に沿って並んでいるから、読み解くのに困ることはない。


 困ることはない──はずだった。


 手が止まったのは、外交接待費の勘定を追っている時だった。


 三年前の第三四半期。接待費の総額。


 (……ん?)


 数字を二度見た。ペンで書き写して、前の四半期と比べる。


 増えている。前四半期比で一割増。


 (まあ、接待費が増えること自体はおかしくない。外交案件が増えれば自然に増える)


 次の四半期を見る。また一割増。次も。次も。


 四半期ごとに、ほぼ一定の額が上乗せされている。


 (……一定額?)


 ペンが走る。四半期ごとの差額を書き出す。数字が並ぶ。


 120。125。120。130。118。122。


 端数がきれい過ぎる。


 前世の経理部で叩き込まれたことがある。実費精算の数字は汚い。取引先ごとに金額が違い、人数が違い、場所が違うから、端数がばらつく。それが自然だ。


 四半期ごとに「だいたい120前後」の上乗せが続くのは、自然じゃない。


 (この仕訳パターン——)


 前世の記憶が、鮮明に蘇った。入社三年目の監査対応。外部の会計士が帳簿をめくりながら言った。


 『一定額の上乗せが規則的に続く場合、架空経費の計上を疑ってください。実費精算でこんなにきれいな数字にはなりません』


 架空経費。


 存在しない接待を帳簿に載せて、その分の金を抜く。前世で言う横領。


 (いや——まだ断定はできない。本当に接待が増えただけかもしれない)


 帳簿をめくる手に力がこもった。三年前。二年前。一年前。去年。今年の上半期。


 全部、同じパターン。四半期ごとに一定額の上乗せ。


 (五年分……いや、もっとだ)


 さらに遡る。帳簿の束を引っ張り出す。文書管理室に引き継がれた副本は、書記局の過去十年分をカバーしている。


 七年前。六年前。


 上乗せが始まったのは——九年前の第二四半期。


 ペンが止まった。


 九年前。


 私が書記局に入局して一年目。そして、ヴィクトル・フォン・ヘルツが書記局次長に就任した年。


 (……一致する)


 偶然かもしれない。次長の就任時期と接待費の増加開始が重なっただけかもしれない。


 でも、数字は嘘をつかない。


 帳簿を閉じて、両手で顔を覆った。指先が冷たい。秋の夜の執務室は、蝋燭の灯りだけでは温まらない。


 (ヘルツ次長が——あの人が、接待費を——)


 功績の横領だけじゃなかった。あの人は、お金も抜いていた。九年間。私が朝から晩まで働いて、借金を返して、昇給を止められて、甘いものひとつ買えなかった、その同じ年月の間に。


 喉の奥が焼ける。怒りなのか悔しさなのか、区別がつかない。


 (──落ち着け。まだ「疑い」の段階。確定させるには、接待の実績記録との照合が必要。接待の相手、日時、場所。帳簿上の記載と実際の接待が一致しなければ、架空経費の証拠になる)


 前世の知識が、頭の中で手順を組み立てていく。


 接待実績の記録は、外務局にある。書記局の帳簿だけでは片方しか見えない。でも──副本台帳との三重照合なら、不整合の箇所を特定できる。私が構築した三重保管体系。原本・副本・台帳を別々の場所に保管する仕組み。改ざんするなら三か所全部を同時に書き換えなければならない。


 (……全部書き換えるのは、まず不可能だ。少なくとも副本台帳には痕跡が残っているはず)


 帳面を開いた。十年分の業務記録。自分の帳面に、今日見つけた数字を書き写す。


 手は、もう震えていない。



 執務室を出たのは、鐘が十を打った後だった。


 廊下は暗い。窓から差し込む月明かりが、石の床に四角い模様を落としている。蝋燭は消えていて、宰相府の棟はすっかり静まり返っていた。


 ──灯り。


 廊下の奥に、一つだけランプが灯っていた。


 壁に寄りかかるようにして、一人の男が立っている。暗い紺の上衣。長い脚を組むように片足を壁につけて、手元のランプの灯りで──書類を読んでいる。


 レオンハルトさんだった。


 足音で気づいたのか、顔を上げた。暗い瞳にランプの光が映り込んで、一瞬だけ温かい色に見えた。


 「……何をしているんですか」


 声をかけたのは、私の方だった。


 「仕事だ」


 短い。いつもの一音に近い答え。温泉地で聞いた「ああ」と同じトーン。


 (廊下で仕事……? 執務室、あるでしょうに)


 監査局の部屋は別棟にあるはずだ。宰相府の棟に用があるとしても、こんな時間に廊下で書類を読む理由は思いつかない。


 でも、詮索するのはやめた。この人に理由を聞いても、返ってくるのは短い答えだけだと知っている。


 「遅くなったわね。お先に失礼します」


 すれ違おうとした時、低い声が背中にかかった。


 「遅くなるなら、護衛をつけた方がいい」


 足が止まった。振り返る。


 レオンハルトさんは書類に目を戻していた。ランプの灯りが、横顔の輪郭を淡く照らしている。眉間の皺は——温泉地にいた頃より、少しだけ深い。


 「室長級に護衛はつきません。規定で」


 「規定は変えられる」


 「変える理由がありません」


 一拍。レオンハルトさんの指が書類の端を弾いた。長い指。ペンだこのある、書き物をする人の手。


 何か言いかけたように唇が動いて——止まった。


 「……気をつけて帰れ」


 それだけ。


 視線は書類に戻った。廊下のランプの灯りが、石の床に丸い輪を落としている。


 (……不思議な人。前からそうだけど)


 温泉地でベンチに座っていた頃と同じだ。何も言わない。理由も説明しない。ただ、そこにいる。


 「おやすみなさい」


 小さく言って、廊下を歩き始めた。自分の足音だけが、石の壁に反響する。


 振り返らなかった。振り返ったら、あのランプの灯りが見えてしまうから。


 (あの人は、なんでこんな時間に廊下にいたんだろう。監査の仕事なら執務室でやればいいのに)


 官舎に帰る道すがら、ずっと考えていた。答えは出なかった。


 代わりに、別のことが頭を占めた。


 帳簿の数字。九年間の上乗せ。ヘルツ次長の就任時期との一致。


 (穴を見つけた。穴があるなら——追う)


 数字は嘘をつかない。帳簿は嘘をつかない。


 あの人が何年かけて積み上げた嘘でも、数字の前では同じだ。


 官舎の自室に戻って、帳面を机に開いた。今日書き写した数字を、もう一度見る。


 蝋燭の灯りが、数字の列を照らしている。


 ──これは、まだ「疑い」だ。確定させるには時間がかかる。


 でも、見えてしまった。見えたものを見なかったことにはできない。


 前世でも、そうだった。


 帳面を閉じて、蝋燭を吹き消す。暗い部屋で、目を閉じた。


 瞼の裏に、廊下のランプの灯りが残っている。石の壁に寄りかかって書類を読む横顔。「気をつけて帰れ」と言った、低い声。


 (……あの灯りは、なんだったんだろう)


 答えは出ないまま、眠りに落ちた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ