第12話 焼き菓子
「『監査局長に取り入った没落令嬢』——だそうですよ、室長」
テオの声は低かった。いつもの元気のいい張りがなくて、唇を噛むみたいに言葉を押し出している。
朝。文書管理室。着任から三日目の机の上には、昨日の続きの帳簿と、仕分け途中の文書の束が積まれている。窓から差し込む秋の光が、白い壁を冷たく照らしていた。
「書記局の連中が廊下で話してたんです。声を潜めてましたけど、聞こえました」
テオが握った拳を、膝の上で震わせている。
「『あの没落男爵令嬢、監査局長に取り入って室長の椅子を手に入れたらしい』って。あと——『色仕掛けだ』とか、『実力じゃない』とか」
色仕掛け。
(……はは。この地味な書記官服で色仕掛けができると思われてるなら、ある意味褒め言葉かも)
前世の会社でも似たようなことはあった。若い女性社員が昇進すると「上司のお気に入りだから」と言われる。経理部の私も言われたことがある。実際は上司のお気に入りどころか、手柄を全部持っていかれていたのだけれど。
テオが真っ赤な顔で私を見ている。怒りで赤いのか、悔しさで赤いのか。たぶん両方。
「室長、何か手を打たないと——」
「テオ」
「はい」
「この帳簿の照合、終わった?」
一拍の沈黙。
テオが目を丸くした。口が開いて、閉じて、もう一度開いて。
「……終わってないです」
「じゃあ、先にそっちをお願い」
テオは何か言いたげだった。口元がぐっと歪んで、言葉を呑み込む音が聞こえた気がした。
「……はい」
自分の机に戻っていくテオの背中を見ながら、帳簿に視線を落とす。
(前世でも今世でも、陰口に対する最善の対処法は同じ。仕事で結果を出す。それだけ)
数字の羅列。外交書簡の受付台帳。三週間分の未処理を、二日で半分まで片付けた。あと半分。今日中にもう三分の一は減らせる。
噂は噂。数字は数字。
仕事で黙らせるのが、一番早い。
◇
翌朝のことだった。
いつもより少しだけ早く出勤して、執務室の扉を開けた。テオはまだ来ていない。
机の上に、見覚えのない紙包みがあった。
小さい。手のひらに収まるくらいの、茶色い紙。紐で結ばれている。手紙やメモの類は添えられていない。
(……なに、これ)
紐をほどく。紙を開く。
焼き菓子だった。
蜂蜜色の、ナッツが載った、小さな焼き菓子。三つ。
匂いが、鼻に届いた瞬間——喉の奥がきゅっと詰まった。
蜂蜜とナッツ。この甘さ。この生地の軽さ。
リンデンバートの焼き菓子だ。
あの温泉街の市場の、東端にあった屋台。蒸籠から湯気がもうもうと上がって、薄皮の中に餡が透けて見えた饅頭の屋台の——隣にあった、焼き菓子の店。
間違えようがない。前世の記憶が呼び起こされるほど鮮烈な、蜂蜜の香り。
(王都でこれを売っている店は知らない。ということは、リンデンバートから取り寄せた?)
一つ手に取る。かじる。
甘い。
あの温泉地で、初めて自分のために買った贅沢品と同じ味。市場で二つ買って、三つ目を青年に——いや、レオンハルトさんに差し出した時の味。
(……誰が送ってくれたんだろう)
リンデンバートに知り合いは多くない。宿のマルタさんか。あの人なら送ってくれそうだ。温泉街の女将らしい、気っ風のいい人だった。
でも、マルタさんなら手紙を添えるだろう。「頑張りな、お嬢さん」とか、そういう一言を。
この包みには、何も添えられていない。
紙と、紐と、焼き菓子だけ。
(……まあ、いいか。ありがたくいただこう)
二つ目をかじった。蜂蜜が舌の上でとろりと広がる。
書記局にいた十年間、甘いものを買う余裕はなかった。お金は全部借金の返済。朝は固いパンをかじって走って出勤して、夜は帳簿を閉じて倒れるように眠って。自分のための買い物なんて一度もしなかった。
リンデンバートで初めて焼き菓子を買った日。二つのつもりが口が勝手に三つと言ったあの日。あの時の甘さと、今の甘さが、重なる。
ちゃんと甘い。
ここにいても、ちゃんと甘い。
三つ目は——テオの分に取っておこう。紙包みに戻して、机の端に置いた。
◇
テオが出勤してきて、焼き菓子を見つけた。
「室長、これ何ですか?」
「朝来たら机に置いてあったの。誰が置いたかわからなくて」
「え? 掃除係ですかね。聞いてきます」
走り出すテオの背中に「走らないの」と声をかけたが、廊下の角を曲がる音しか聞こえなかった。
五分後、テオが戻ってきた。
「掃除係に聞いたんですけど、知らないそうです。今朝の当番は南棟だけだったから、この棟には入っていないって」
「そう」
「あと、宿直にも聞いたんですけど、夜中に誰かが来た記録はないです。朝、開錠した時には何もなかったはずだって」
(じゃあ、今朝の開錠後から私が来るまでの間に、誰かが置いた……?)
差出人のいない焼き菓子。リンデンバートの味。手紙もメモもなし。
テオが訝しげな顔で紙包みを眺めている。
「……毒とかじゃないですよね?」
「もう二つ食べたわよ」
「食べたんですか!? 先に確認してください!」
「おいしかったわよ。あなたの分、残してあるから」
テオは渋い顔で焼き菓子を手に取り、一口かじり、表情がふにゃっと崩れた。
「……おいしいです」
「でしょう」
差出人は、わからないまま。
でも、誰かがわざわざ辺境の温泉地から焼き菓子を取り寄せて、手紙も添えずに机に置いていった。それだけは確かだった。
(マルタさんかな。……マルタさんなら手紙を書くと思うけど)
考えかけて、やめた。贈り主が誰であれ、甘かった。それで十分。
◇
夕方。
日が傾いて、窓からの光が橙色に変わった頃。仕分けの山がまた少し減った。
テオが廊下から戻ってきた。手に書類はない。代わりに、微妙な顔をしている。
「室長」
「なに?」
「書記局の友人から聞いたんですけど」
テオが扉を閉めた。声をひそめる。
「ヘルツ殿が——元次長が、オルテア伯爵と何度も茶会をしているそうです」
オルテア伯爵。メリッサの父親。
(オルテア伯爵……確か、宰相府の予算審議会の委員だったはず)
予算審議会。各局の年度予算を審議し、承認する場。新設されたばかりの文書管理室の予算も、いずれそこで審議される。
ヘルツ殿が伯爵と茶会を重ねている。解任された元次長が、予算審議会の有力委員と。
「……テオ」
「はい」
「その話、他に知っている人は?」
「友人が茶会の給仕から聞いたそうなので、まだ広くは……でも、そのうち広まると思います」
窓の外で、鐘が鳴った。勤務終了の鐘。王宮のどこかで椅子を引く音が聞こえる。
帳簿を閉じた。
噂が広まっている。ヘルツ殿は動いている。予算審議会の委員を味方につけようとしている。
(……ただの逆恨みじゃない。あの人は有能だ。根回しの速さだけは、十年間見てきた)
恩暇の申請を鼻で笑ったあの朝。笑った直後に法務官を呼びつけた判断の速さ。使い方を間違えているだけで、あの頭の回転は本物だ。
鞄に帳面をしまう。十年分の業務記録。毎日書き続けた、前世の習慣。
(数字は嘘をつかない。噂は噂。でも——数字を握っている人間が一番強い)
表札を振り返った。
『文書管理室 室長 エステル・フォン・リヒター』
三日前にサインしたばかりのインクは、もう乾いている。
──大丈夫。仕事をしよう。仕事で黙らせる。前世でも今世でも、それが一番早い。
机の端に、空になった茶色い紙包みが残っていた。焼き菓子の、甘い匂いだけが、まだかすかに漂っている。




