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社畜令嬢は有給休暇をご所望です!  作者: 九葉(くずは)
第2章

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第11話 表札

第2章スタートです!!!

 新しい執務室は、まだインクの匂いがしなかった。


 扉を開けた瞬間に気づいたのは、それだった。書記局にいた十年間、あの狭い執務室にはいつだってインクと古い羊皮紙の匂いが染みついていた。朝一番に扉を開けると、昨日の残りの匂いが肺に入ってくる。それが私の「仕事の始まり」だった。


 ここには、まだ何もない。


 白い壁。窓が一つ。書棚が四つ。机が二つ。前世のオフィスで言えば、スタートアップの初日みたいなものだ。何もないけど、何でもできる──と前向きに捉えるか、何もないから途方に暮れるか。


 扉の横に、小さな木の表札が掛かっていた。


 『文書管理室 室長 エステル・フォン・リヒター』


 足が止まった。


 指先で触れる。木の感触。彫られた文字のへこみが、指の腹に伝わる。インクはまだ新しい。


 十年間、書記局で私の名前が書類に載ることはなかった。処理した帳簿にも、整理した外交書簡にも、構築した文書管理体系にも。全部「ヘルツ次長の指導の下で」。全部、あの人の名前。


 (……私の名前が、ここにある)


 呼吸が浅くなった。嬉しいのか怖いのか、自分でもわからない。たぶん、両方。


 嬉しい。やっと、自分の名前で仕事ができる。


 怖い。また誰かに奪われるんじゃないかって、身体が覚えている。


 ──でも。


 指先を表札から離した。深く、息を吸う。新しい部屋の、何もない空気が肺に入ってくる。


 今度は、大丈夫。



 「室長! おはようございます!」


 テオ・バルツが書類の束を両腕に抱えて駆け込んできたのは、それから十分後のことだった。二十歳。私の元後輩で、今日からは部下。


 束ねた栗色の髪が走った勢いでぼさぼさになっている。鼻の頭に汗。目は──赤い。また赤い。


 「テオ、泣いてたの?」


 「泣いてません! 汗です! 目から出る汗です!」


 「目から汗は生理学的に出ないわよ」


 「この王国では出るんです!」


 前世の知識でツッコんでも全力で返してくるこの子の元気さだけは、書記局時代から変わっていない。三年前、配属されたばかりのテオが「教えてください」と頭を下げた日のことを思い出す。あの時、他の誰も私の仕事のやり方を聞いてこなかった。この子だけが聞いてきた。


 「これ、書記局から引き継がれた未処理文書です。えっと……」


 テオが机の上に書類の束を置く。どさり。重い音。


 「……どれくらいあるの?」


 「三週間分です」


 三週間。私が休暇に入ってから監査報告会議の間までに溜まった分。書記局が処理できなかった書類が、新設の文書管理室に回されてきた。


 束の上から一枚めくる。外交書簡の受領確認。日付は──二週間前。未処理。次の一枚。帳簿の照合依頼。これも未処理。次。次。次。


 (……全部、私がいた頃なら当日中に片付けていたものばかりだ)


 ため息は飲み込んだ。代わりに、テオを見上げる。


 「テオ。今日中に全部の仕分けを終わらせるわよ」


 「はい!」


 元気がいい。それだけで、少しだけ心強い。



 午前中いっぱいかけて、未処理文書の仕分けに取りかかった。種別ごとに分類し、優先度をつけ、処理手順を組み立てる。前世の経理部時代にも、期末の繁忙期には似たようなことをやっていた。


 (あの頃は「残業三百時間で片付けた」って笑ってたけど、二度目の人生では効率重視でいきたい)


 テオは覚えが早い。三年前に私が教えた分類法則がちゃんと身についていて、指示を出せばすぐに動ける。二人だけの部署でも、この子がいるのといないのでは天と地の差だ。


 昼過ぎ、扉を叩く音がした。


 「失礼します。リヒター室長にご挨拶を──」


 入ってきたのは、書記局の元同僚だった。エーリヒ。私と同じ等級の書記官で、隣の机に座っていた男。おとなしい性格で、業務外の会話はほとんどしたことがない。


 「おめでとうございます。室長就任」


 「ありがとう、エーリヒ」


 微笑んで頭を下げた。──けれど、エーリヒの目が一瞬だけ泳いだのを、見逃さなかった。


 視線が私の顔から横にずれて、テオの方をちらりと見て、また戻る。手が上着の裾を握っている。


 「あの……書記局の皆も、その、よろしくと」


 「ええ。ありがとう」


 それだけ言って、エーリヒは足早に出ていった。


 (……なんだろう。緊張していた? 新しい部署だからかな)


 テオが不満げに鼻を鳴らした。


 「室長」


 「なに?」


 「エーリヒ先輩、目を合わせませんでしたね」


 「新部署だから気を遣ってくれたんでしょう」


 テオは何か言いかけて、口を閉じた。不満げな顔のまま、書類に視線を戻す。


 (まあ、気にしても仕方ない。仕事をしよう)


 手元の帳簿に目を落とす。数字の羅列。前世でも今世でも、数字だけは裏切らない。



 夕方。


 仕分けの目処がついた頃、最後の書類がテオの手から私の机に渡された。


 決裁書類。


 文書管理室の設立に伴う、最初の公式文書。宰相府への業務開始届。


 決裁欄に、空白がある。室長のサイン。


 ペンを取る。


 ──震えた。


 ペン先が紙の上で小さく揺れている。指に力を入れているのに、止まらない。


 (何やってるの、私。ただのサインでしょ。前世で何百枚も書いたじゃない)


 違う。


 前世のサインは、経理部の末端社員のサインだった。上司の決裁の下に小さく添えるだけの、誰も見ない署名。


 今は違う。ここに書く名前は、この部署の最高決裁権限を持つ人間の名前。


 『文書管理室室長 エステル・フォン・リヒター』


 ──前世でも今世でも、自分の名前が公文書の一番上に来るのは、初めてだった。


 ゆっくりと、一文字ずつ書く。


 エ、ス、テ、ル。


 ペン先が紙に触れる感触。インクが文字の形に染みていく。しわだらけの恩暇申請書を握りしめてヘルツ次長の前に立った朝を思い出す。あの時は「誰かに認めてもらう」ための書類だった。


 今は違う。


 これは、私が私の仕事を始めるための書類。


 最後の一画を書き終えて、ペンを置いた。


 インクが乾くのを、じっと見つめる。


 (……今度は、誰にも奪われない)


 テオがいつの間にか横に立っていて、サインの乾いた書類を覗き込んでいた。


 鼻をすすっている。


 「泣かないの」


 「泣いてないです。汗です」


 「はいはい」



 王都の安宿。日が落ちた窓の外には、街灯の淡い光が並んでいる。


 レオンハルトは机に向かっていた。


 目の前に、一枚の便箋。万年筆のインクが、まだ乾ききっていない。


 宛先は、辺境リンデンバートの菓子店。あの温泉街の市場で、蜂蜜とナッツの焼き菓子を売っていた屋台。常設の店舗もあると、宿の女将が言っていた。


 『王都までの取り寄せ便を依頼したい。蜂蜜とナッツの焼き菓子を、定期的に──』


 ペンが止まった。


 定期的に。何のために。


 (……届け先を書かなければ意味がない)


 届け先は、宰相府直轄・文書管理室。宛名を書けば、誰が送ったかは容易に推測される。監査局長が被監査部署の室長に菓子を送る。利益相反どころの話ではない。


 だが、届け先を書かなければ届かない。


 差出人を無記名にする。届け先だけ書く。誰が送ったかわからなければ──いや、あの女は聡い。リンデンバートの菓子が届けば、候補は限られる。


 (……構わない)


 差出人の欄を空欄にして、宛先だけを書いた。


 万年筆を置く。指先にインクの染みが残っている。温泉地で隣に座っていた女の手にも、いつもインクの染みがあった。十年分の染みが、温泉で少しずつ薄くなっていくのを──見ていた。


 便箋を折り、封筒に入れ、封蝋を落とす。


 明日の朝、使いに出す。届くのは五日後。あの菓子屋が受けてくれれば、さらに数日。


 (……辺境の温泉街まで取り寄せ便を頼む客は、珍しいだろうが)


 窓の外に目をやった。王都の夜空。星は見えない。リンデンバートの星空とは、違う。



 文書管理室。


 帰り支度をしていたら、テオが妙に真剣な顔で立っていた。


 「室長」


 「なに?」


 「あの……今日じゃなくてもいいんですけど」


 帳面を鞄にしまう手が止まった。テオの声のトーンが、いつもと違う。元気のいい張りがなくて、言葉を選んでいるような慎重さ。


 「書記局で……妙な噂が広まっているんです」


 「噂?」


 「はい。室長のことを──」


 テオが口ごもった。


 扉の外で、廊下を歩く足音が遠ざかっていく。窓から差し込む夕日が、二つの机と四つの書棚を橙色に染めている。


 新しい部屋。まだインクの匂いのしない、白い壁の部屋。


 その中に、たった今署名したばかりの公文書がある。乾いたインク。私の名前。


 ──何を言われているのかは、まだ知らない。


 でも、知ったところで、やることは変わらない。

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