第10話 隣
新しい執務室の窓から差し込む朝の光は、リンデンバートのそれとは少し違う色をしていた。
白い。王都の秋の終わりの光は、温泉地の金色とは違って、きりっと冷たい白さがある。でも——悪くない。
文書管理室。宰相府直轄の新設部署。部屋は小さい。書記局の執務室の三分の一くらい。机が二つ、書棚が四つ、窓が一つ。壁は真っ白で、何の飾りもない。
でも、扉の横に掛かった小さな表札には、こう書いてある。
『文書管理室 室長 エステル・フォン・リヒター』
室長。
自分の名前が、自分の肩書きと並んで、扉に掛かっている。十年間、書記局の片隅で名前のない仕事をし続けた私の名前が。
(……前世でも今世でも、自分の名前が扉にあるのは初めてだ)
指先で表札に触れた。木の感触。インクの匂い。まだ新しい。
「室長!」
振り返ると、テオ・バルツが書類の束を抱えて駆け込んできた。二十歳。書記局の後輩。──いや、今日からは部下だ。
「おはようございます、先輩……いえ、室長!」
目が赤い。赤いどころか、潤んでいる。鼻の先も赤い。
「テオ、泣いてるの?」
「泣いてません! ……泣いてないです。ただ……やっと先輩が正当に評価されたんだなって思ったら、目から汗が」
「目から汗は出ないわよ」
「出るんです、今日は!」
(……この子は、変わらないな)
書類の束を受け取りながら、少しだけ笑った。テオは三年前、書記局に入ったばかりの頃、私に仕事を教わった。帳簿の付け方、文書の分類法、書簡の書式。他の誰も聞いてこなかったことを、この子だけが「教えてください」と言った。
あの時から、この子だけが知っていた。私がどれだけの仕事をしていたか。
「テオ」
「はい」
「これからが大変なんだから。泣いてる暇はないわよ」
「はい!」
元気よく返事をして、テオが自分の机に向かう。鼻をすすりながら。
窓の外で、鐘が鳴った。勤務開始の鐘。王宮のどこかで、書記官たちが机に着いている。
私も机に着く。新しい机。まだインクの染みがない。
引き出しを開ける。空っぽ。これから、ここに私の仕事が積もっていく。
今度は、誰にも奪われない。
◇
午前中は引き継ぎと業務の確認で潰れた。
宰相府から送られてきた設立文書に目を通し、管轄範囲を確認し、テオと二人で書棚の配置を決める。前世で言うところの「部署立ち上げ」。経理部にいた頃、子会社の新設に関わった記憶がうっすら蘇る。
決裁書類に初めてサインをした。
『文書管理室室長 エステル・フォン・リヒター』
ペンが震えた。嘘じゃない。私の名前が、私のサインが、公式な書類に載っている。ヘルツ次長の名前じゃなく。メリッサの名前じゃなく。
(……十年かかった)
でも、辿り着いた。
◇
昼過ぎ。
テオが妙に緊張した顔で執務室に入ってきた。
「し、室長。──帝国監査局長殿がお見えです。監査の後日確認とのことですが」
心臓が、一つ跳ねた。
(……来た)
手紙は受け取っていた。『監査の後日確認のため、近日中にお伺いします。グレイ』。公的な名目。当然の業務連絡。
──なのに手のひらが湿っている。
「通してください」
「はい。あの、室長、自分は席を外した方が……」
「テオ」
「はいっ」
「お茶を淹れてきて。それから、三十分くらい休憩を取っていいわよ」
テオが口を開けて、閉じて、何か察した顔になって、もう一度口を開けて、
「──三十分ですね。わかりました」
早足で出ていった。
(あの子、絶対わかってる)
扉が開いた。
暗い紺の正装。胸元の局章。背筋がまっすぐ。──リンデンバートのベンチの人と同じ顔。でも、あの時より少しだけ、眉間の皺が浅い。
「……失礼する」
低い声。ああ、この声だ。饅頭を受け取った時の「ありがとう」と同じ声。星空の夜に「エステル」と呼んだ声。
「どうぞ、おかけください」
机を挟んで向かい合って座る。テオの淹れかけのお茶はない。二人きり。窓から白い光が差し込んでいる。
沈黙。
レオンハルト──グレイ局長が、口を開いた。
「……報告書の件は、読んだか」
「ええ。──あの一文のことなら」
また沈黙。この人は沈黙が多い。温泉地の頃から変わらない。
「あの温泉地で」
声が、少し低くなった。いつもの短い言葉を選ぶ話し方ではなく、一語一語に力がこもっている。
「最初は、確かに調査の一環だった。お前が書記局の書記官だと気づいた時点で、接触を絶つべきだった」
わかっている。あの公園のベンチで、饅頭を分けた日から。
「だが──絶てなかった」
長い指が、膝の上で握られた。開かれた。
「お前が夕焼けを見て泣いていた日から、俺はもう、調査官としてあの場所にいなかった」
──え。
夕焼け。温泉地に着いた初日。公園のベンチで、声もなく泣いた夕暮れ。あの時、誰も見ていなかった。たぶん、と思っていた。
「……見て、いたんですか」
「ベンチの反対側にいた。お前が来る前から。泣いているのに──苦しそうじゃなかった。穏やかに泣いている人間を、初めて見た」
(あの日から──)
喉が詰まる。
「祭りの前日、ヘルツ次長の使者が宿に来た。お前を呼び戻すために」
知らなかった。使者が来たことも、追い返されたことも。
「宿の主人に頼んで、取り次ぎを断ってもらった。手紙も預かった。──渡さなかった」
レオンハルトの声が、かすれた。
「仕事の書簡を握りつぶした。お前の休暇を守りたかった。──それが正しかったかはわからない。だが、あれは調査のためじゃない」
使者を。追い返した。私の知らないところで。私の休暇を、守るために。
(あの祭りの日、私がのんきに射的をしている間に──この人は)
涙が出そうになった。出そうになって、ぐっとこらえた。今は聞く。全部聞く。
レオンハルトが、まっすぐ私を見た。
あの夕焼けのベンチで、初めて正面から見てくれた時と同じ目。暗い瞳に、窓からの白い光が映り込んでいる。
「エステル」
名前で呼ばれた。星空の夜と同じ──いや、違う。あの夜より、もっと柔らかい。饅頭を受け取った時と同じ、あの柔らかい声。
「──俺の隣で、休んでくれないか」
仕事の話じゃない。
監査の後日確認じゃない。
「俺の隣で」。それは──温泉地のベンチと同じ意味で。でも、もっと広い意味で。丘の上の「今は、そうだな」の「今は」が、ようやく答えを見つけた顔をしていた。
涙が一筋、頬を落ちた。拭えなかった。
でも──口元は、笑っていた。泣き笑い。前世で見た泣き笑いの絵文字みたいな、ぐちゃぐちゃの顔。
「……有給が出るなら、考えます」
レオンハルトが、一瞬固まった。
それから──口角が、動いた。
ほんの少し。ほんの少しだけ、上がった。笑顔とは呼べないくらいの、微かな変化。でも、暗い瞳がふわっと緩んで、眉間の皺が消えて。
初めて。
この人が笑ったのを、初めて見た。
(……ああ、笑うとこんな顔するんだ、この人)
その瞬間、扉がノックもなしに開いた。
「室長、書類を──」
テオが固まった。
私の泣き笑いの顔と、レオンハルトの微かな笑みと、二人きりの執務室の空気を、一瞬で読み取ったらしい。
「──何も見ていません!」
扉が閉まった。廊下を走る足音が遠ざかっていく。
沈黙。
「……有能な部下だ」
レオンハルトがぽつりと言った。
笑った。声を出して笑ったのは、いつぶりだろう。温泉地でも笑ったけれど、こんなふうに──おかしくて、嬉しくて、ぐちゃぐちゃな笑いは、二度目の人生で初めてだった。
◇
夕方。
王都の大通りを、二人で並んで歩いていた。
秋の終わりの夕焼けが、石畳を橙色に染めている。リンデンバートで見た夕焼けと、同じ色。あの時は一人で泣いた。今は──隣に、人がいる。
「次の休暇は、どこに行く?」
レオンハルトが聞いた。低い声。でも、温泉地にいた頃より、少しだけ言葉が多い。
「……リンデンバートがいい。あのベンチがある」
「ああ」
いつもの短い返事。でも、口角がほんの少しだけ──ほんの少しだけ上がっているのを、私は見逃さなかった。
夕焼けの中を歩く。肩が触れるか触れないかの距離。あの丘の上の東屋と同じ距離。
仕事しか知らなかった二人が、休み方を覚えた。
それは──たぶん、恋の始まりと同じ形をしていた。




