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社畜令嬢は有給休暇をご所望です!  作者: 九葉(くずは)


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第1話 規則は規則です

──二度目の人生も、結局ブラックだった。


官舎の狭い部屋で目を開ける。窓の外はまだ暗い。鐘が四つ鳴ったから、夜明けまではもう少しある。


身体を起こして、薄い毛布をたたむ。十年間、毎朝繰り返してきた動作だ。前世を含めれば、もっと長い。


前世。


日本のブラック企業の経理部。朝は始発、帰りは終電。帳簿を閉じて、伝票を整理して、上司の機嫌を取って。二十八年間、ひたすら数字と向き合って──そのまま倒れた。


過労死。


それが私の一度目の人生の、最後のページだった。


(……で、生まれ変わった先がこれですか)


没落男爵家の一人娘、エステル・フォン・リヒター。父の残した借金。家名だけは辛うじて残った爵位。十五歳で王宮書記局に入り、それから十年。朝は誰より早く、夜は誰より遅く。外交書簡の処理、帳簿の整理、文書体系の構築。何でもやった。


手柄は全部、上司に持っていかれた。


昇給は三年間止められた。


休日なんて、一度もなかった。


──でも。


机の引き出しを開ける。奥の奥、帳簿の下に隠してあった一枚の紙を取り出す。


七年前に書き写した、功労恩暇の条文。


『王宮に十年以上無欠勤で勤続し、顕著な功労が認められる者は、六十日間の恩暇を請求する権利を有する。当該期間中の俸給は全額支給とする』


前世の私なら、こう呼ぶだろう。


有給休暇。


かつて戦争英雄にだけ適用された古い制度。誰も覚えていない。廃止もされていない。七年前に宮廷規則集を端から端まで読んで見つけた時、思わず笑ってしまった。


──前世で「労働基準法」の概念を知っていなければ、探そうとも思わなかった条文だ。


あれから七年。一日も休まず、条件を満たすためだけに歯を食いしばった日もあった。


そして昨日、最後の借金を返し終えた。


(もう、誰のためでもない。今日からは──私は、私のために動く)


紙を胸に押し当てる。しわだらけの、七年分の祈りが染みた紙。


仕度を整えて、官舎を出る。まだ暗い石畳を、書記局に向かって歩き始めた。



書記局の執務室に入ると、いつものように誰もいない。


当たり前だ。夜明け前に出仕する人間なんて、この局には私しかいない。


蝋燭に火を灯す。机の上に積まれた書類の山。昨日の残り。一昨日の残り。三日前の残り。全部私の担当だ。


──いつもなら、これを片付けるところから一日が始まる。


今日は違う。


書類の山には手をつけず、まっさらな羊皮紙を一枚取り出す。万年筆のインクを確かめてから、一字一字、丁寧に書き始めた。


功労恩暇申請書。


宛先はヘルツ次長──書記局の実質的な長。申請者はエステル・フォン・リヒター。根拠条文、勤続年数、無欠勤の記録。全て正確に記載する。


(前世で何百枚も書いた稟議書に比べれば、こんなもの)


ペンを置いた時、執務室の扉が開いた。


「おはよう、リヒター嬢。今日も早いね」


ヴィクトル・フォン・ヘルツ。書記局次長。子爵家の嫡男。柔和な笑みを浮かべた、三十二歳の「公正な上司」。


──私の十年分の手柄を、全部自分の名前で宰相府に報告してきた男。


「おはようございます、ヘルツ次長」


私は立ち上がり、書き上げたばかりの申請書を差し出した。


「本日より、功労恩暇を申請いたします」


一瞬の沈黙。


ヴィクトルは申請書を受け取り、目を通し──鼻で笑った。


「功労恩暇? 何だねそれは。聞いたこともない」


「宮廷規則集第七巻、第三百十二条です」


「古い条文を引っ張り出して……リヒター嬢、そんなものが今も有効だとでも?」


口調は穏やかだ。目は笑っていない。


その時、執務室に他の書記官たちが出仕してきた。メリッサ・フォン・オルテアが華やかな微笑みで入ってくる。その後ろから、テオ・バルツが小走りで続いた。


「あら、朝から何の話?」


メリッサが首を傾げた。伯爵家の次女。私と同期。社交界の華。──私が夜遅くまで書いた外交書簡の下書きを「自分が手直しした」と報告している女。


「リヒター嬢が、何やら古い規則を持ち出してきたんだ」


ヴィクトルが肩をすくめてみせる。周囲の書記官たちに向けた、「困った部下だ」という演技。


テオだけが、心配そうな顔で私を見ていた。


「ヘルツ次長」


私は声を落とさなかった。落とす理由がない。


「条文の有効性にご疑義があるのでしたら、宰相府の法務官にご確認いただけますか」


笑みが消えた。


ヴィクトルの判断は速かった。即座に使いを走らせ、法務官ヨハン・ブレヒトを書記局に呼んだ。この初動の速さだけは、認めるしかない。


(却下の根拠を見つけてもらうつもりね。──残念ながら、見つからないけど)



法務官ヨハン・ブレヒトは四十五歳の痩身の男で、分厚い眼鏡の奥の目には一切の私情がなかった。


書記局の小部屋に、三人だけ。ヴィクトルと、私と、ヨハン。


ヨハンは申請書と宮廷規則集を並べ、条文を精査し始めた。


「ヘルツ次長、この条文は確かに古い。しかし──」


ページをめくる音だけが響く。


「──廃止手続きが取られた記録がありません。改正もされていない。従って、現行法として有効です」


ヴィクトルの顔が強張った。


「しかし、前例がない。宮廷史上、この条文に基づく申請は一度も──」


「前例がないことは、無効の根拠になりません」


ヨハンの声は淡々としていた。法の番人。それ以上でもそれ以下でもない。


「申請者の勤務記録を確認します。──リヒター書記官。十年間の無欠勤は事実ですか」


「はい」


「勤務記録簿と照合します」


ヨハンが帳簿を開く。十年分の出勤記録。一日の空白もない。土日も。祝日も。


(それが異常だなんて、この人たちは思わないんだろうな)


「条件を満たしています。──本申請は、法的に受理されるべきものと判断します」


ヨハンが申請書に法務官の確認印を押した。乾いた音が、小部屋に響いた。


ヴィクトルが口を開きかけた。何か言おうとして──言葉を探して──見つからなかった。


私は立ち上がり、申請書を受け取った。


「ありがとうございます、法務官殿」


そしてヴィクトルに向き直る。


十年間。この人の前で、一度も逆らったことはなかった。規則に従い、命令に従い、雑務を押しつけられても黙って処理した。


「規則は規則です、ヘルツ次長」


静かに言って、頭を下げた。


ヴィクトルの返す言葉は、なかった。



官舎に戻り、荷物をまとめた。小さな旅行鞄ひとつ。着替えと、少しの路銀と──机の奥から取り出した、使い込まれた帳面。


十年分の業務記録。毎日の処理内容、書類番号、作成した文書の控え。前世の経理部時代の癖で、ずっとつけ続けてきた。


(自分の仕事は自分で記録する。──それだけのことだけど、いつか役に立つかもしれないし)


帳面を鞄の底にしまい、官舎を出る。


王都の大通りを、辺境行きの乗合馬車の停留所へ向かって歩く。空は高く、秋の風が頬を撫でた。


切符を買う。行き先は、リンデンバート。辺境の温泉地。王都から馬車で五日。


乗合馬車に乗り込み、硬い座席に腰を下ろす。馬車が動き出す。


窓の外を、王宮の白い壁が流れていく。十年間、毎朝見上げた壁。


(……ああ、遠ざかっていく)


後悔は、ない。


ただ──少しだけ、不思議な気持ちがある。


私がいなくなって、書記局は困るだろうか。いや、困らないかもしれない。みんな私を雑用係程度にしか思っていなかったし。引き継ぎ書だって、作れと言われたことは一度もなかった。


(まあ、知ったことじゃないか)


窓の外に目を戻す。王都の街並みが遠ざかり、街道沿いの畑が広がり始める。


前世でも、今世でも。


私は一度も、休んだことがない。


「何もしない一日」って──どうやって過ごせばいいんだろう。


馬車が揺れる。秋の陽が、窓から膝に落ちて、温かかった。

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