四 コルセットとダンスの苦悩
「五十五センチ!?」
「そうだよ。五十五センチ」
「細すぎやしませんか!?」
「そうかな? 標準だよ。ねえミセス」
ヴァージルがついたてごしに話しかけたレディースメイドは、「少々細すぎるかもしれませんね」と笑ってごまかす。
侯爵家に住まいを移してから、アレクシアの身に、おそれていたことは何も起きなかった。
それはたとえば、お屋敷中のメイドたちに無視される。ひとりだけ食事が粗末で、ドレスもみすぼらしいものしか用意されない。そんなことだ。
ステイントン侯爵家はメイドの待遇がよいらしく、転職で外に出ていく者が非常に少ない。そこで、現ステイントン侯爵が婚約破棄をし、花嫁をすげかえる騒動を起こしたときから残っているメイドや使用人が多い。
彼らは、もうすっかりアレクシアの母親が、侯爵家の三男の新妻になると信じていた。にもかかわらず、直前で花嫁が変わったのだ。仕える家の決定だから従ったけれど、アレクシアの母親に同情的な心をむけるものも当然いた。
成長したアレクシアを引き取ることになって、むしろ不幸にも上流階級から追われたお嬢様がお戻りになったと、好意的に受け止めてくれるものばかりだった。ありがたいことだが、服の着方ひとつとっても上流の作法が身についていないアレクシアには、日常の衣服の着替えも苦痛を伴う。
コルセットがその最たるものだ。
「ウエストが五十五センチって、中身はどこに移動するの」
「さあ。俺はよく知らない」
そうでしょうね! と悪態をついて、ついたての向こうでのんきに待つヴァージルにうらみを込める。
ヴァージルは軍人としてのつとめや鍛錬もあるが、空いた時間にはよくアレクシアをたずね、その淑女教育の進捗を確認した。
「勉強は語学と歴史、計算、裁縫くらいでいい」
「算術とお裁縫は、学校でも習いましたし、縫物はメイドになってからずっとやっていましたよ」
「ならそれは問題なさそうだな。ダンスのほうはどう?」
「……努力しております」
「がんばれよ。うつくしいダンスは真の上流階級をいとめる突破口になるかもしれない」
「と、言うと?」
「近ごろは、爵位持ちではない実業家や銀行家、投資家なども、貴族が主催する舞踏会に出入りが増えている。でも彼らは、子どものころからダンスを習っていたわけではないから、踊りを覚えるのは大人になってからだよ。あるいは、今さらダンスなんてと開き直って、踊れない連中もいるかもね」
ばかにした響きはない。それが事実なのだろう。
「でも本当の貴族階級は、そんなもの息をするように習得してきている。だれかをダンスにさそうことも、さそわれることも、気負わなくできるはずなんだ」
「……ヴァージルさまも?」
「ヴァージルでいい。君と俺は、はとこ同士だろう? どう? 一曲踊ってみる?」
「……遠慮いたします」
「おいおい、この流れで普通ことわる?」
アレクシアは、気軽によその令嬢をさそうヴァージルを想像しそうで、いやだった。彼女はまだ、だれかとダンスをするということに、特別な意味を持たせたいと思っている。
侯爵家に入って教育を受け二カ月、ある時、ついにヴァージルが言った。
「そろそろ頃合いかもしれない」
「頃合い?」
「本格的な社交シーズンに入る前に、ひとつ小さな舞踏会に参加してみようか」
上流階級の社交界シーズンは、議会の開催にあわせてはじまる。貴族院に議席のある貴族たちが、いっせいに地方の領地から首都に出てきて、タウンハウスに滞在するのだ。そのあいだ、首都のあらゆるお屋敷で、毎夜のように舞踏会や正餐会が開かれる。
「その前にひとつおさらいしよう。君が舞踏会で、結婚相手候補の紳士相手にやらなければいけないことを。いいかい。舞踏会は狩り場だ」
「か、狩り場」
「出会った瞬間判断するんだ。あいての容姿は自分の好みか? 一生一緒に暮らして、不快にならない外見か? 収入、現在の地位、将来の成長性、君をしあわせにできる男か? もしそれがクリアなら、君はあとは純真無垢な淑女として、何も知らないようにふるまいながら、時々思わせぶりなことを言って相手を翻弄し、彼のなかに自分を印象づけ、できるなら君も恋をして、相思相愛にみちびき、相手からプロポーズを引き出す……」
「やることが多い! 難易度が高すぎる!」
アレクシアは、さけびながら崩れ落ちた。