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二 新しい人生への第一歩

 アレクシアは、親の世代が起こした婚約破棄騒動に巻きこまれ、不意に侯爵家の養子になりそうだ。


 ことわる道はないようだった。


 ステイントン侯爵家は、ずっとアレクシアの母のゆくえを追いつづけていた。すでに姉が亡くなったことを調べ上げた侯爵夫人は、せめて娘であるアレクシアの人生をささえたいと、ずっと声をかける機会をうかがっていたという。


 侯爵夫人は、アレクシアを迎えに来る日取りを一方的に決め、帰っていった。


 雇い主であるテーラーの主は、ぜひ行きなさいと言う。思わぬところから上流の貴族との接点を得られそうなのだから、当然だろう。


 アレクシアには、他に相談にのってくれる年上の保護者のような存在はいない。父母をうしなったとき、もう少し幼ければ救貧院に行かねばらなかった。それだけ彼女には身寄りがない。


「でも! よく考えたらやってられない。だってみんなひどいじゃない」


 アレクシアは、あとから湧き上がる疑問と怒りにまかせて感情をたかぶらせる。なぜ、この話をもちかけられたときすぐにそれを表に出せなかったのか。


「勝手に人の人生のさきを決めちゃって」


「アレクシア」


 店のまえのタイルを無心でみがくアレクシアの背中に、声がかかる。


「くらい顔してどうした。鼻が豚みたいに赤いぜ」


 ヴァージル・オブライエン。軍に所属し、中尉の階級をもち、そしてナイトの称号を得ている。アレクシアの働く仕立て屋の客のなかでは、上客に入る。なじみの客で、なにかの拍子に店表に出てきたアレクシアを見つけて、それ以来声をかけてくれるようになった。


「ヴァージルさま」


 立ち上がって、彼に今日のできごとを話したいと思ったが、うまく言葉にはできなかった。


 アレクシアは、自分では決められない人生の潮流を感じて、どうしようもなくなっている。持っていたものも、この先にあるものも、すべて置いていって、あたらしい自分をはじめなくてはいけない。


「かわいそうに。つらいことでもあったの? よければ俺に話してみない? パブでも行ってさ」


 慣れた様子で流れるように遊びにさそうヴァージルを、下からにらみつけるように見つめる。


「おことわりします。わたし、今とっても虫のいどころが悪いんです」


 ヴァージルは怒る様子もなく、楽しそうに笑っている。


「なぜ笑うんです」


「いや。俺のさそいを、虫のいどころが悪いとかいう理由でことわる子は他にいないからさ。でもさ、ほんとうに何かあったなら、きくよ?」


 アレクシアはくやしかったが、身寄りのない彼女には、ほかに頼るものがいなかった。それに軍の尉官以上の将官は、貴族が主催する舞踏会への出入りも少なくない。上流と関わることを認められている階級である。ヴァージルなら、ある程度その周辺にくわしいかもしれない。


 ヴァージルは、アレクシアを、首都を横ぎり海にぬける川の岸に連れて行ってくれた。アレクシアはそこで、いまの自分の状況のいっさいを、彼に話す。


「だから言ったのにな。さっさと俺のところに来ればよかったのに」


「また、そんな冗談を」


 ヴァージルは顔をあわせるたび、たわむれでアレクシアに「妻にしてやる」というような男である。


 それもヴァージル自身の容姿の良さ、自力でナイトの称号を手に入れたこと、いかに自分が軍のなかで将来性があるか、などをひけらかすように自慢したあとに言ってくるので、鼻持ちならない。


 どうせよその(ひと)にも似たようなことを言っているにちがいない。


「で、なぜそんなに怒ってるのさ」


 ヴァージルは、アレクシアの気持ちがわからないらしい。


「だって、みんなあまりにも勝手すぎるんだもの。人の人生をなんだと思っているの?」


「なるほど? そうまで言うからには、君には君なりの、人生の展望があったわけだ。そうだろう?」


「て、展望というほどのものではないですが。目標なら……」


「たとえば、どんな?」


「もっと経験をつんで、中流階級のなかでもたくさんメイドを雇えるようなお家に入って、それからさらに、もっと上流のお家で、いつかはレディースメイドや奥様の専属になれるようなメイドになりたい」


 メイドにも格がある。誰にでもできるような雑事を行うハウスメイドやキッチンメイドは、やはり給金もそれなりだし、だれもやりたがらない重労働がまわってくる。


 対して、社交についてのマナーや衣装などの専門知識を備えた上級のメイドは、貴婦人の専属のレディースメイドになれるし、お客様の前に出て貴人のお世話をすることもある。


「それは結局、アレクシアだって上流の家に憧れがあるからだろう?」


 少しちがうのだが、アレクシアはうまく言葉にできない。上流階級の家のメイドは給金が桁違いによいということもある。そしてやはり、上流の生活をちかくで見てみたいという心もきっとある。


 でも、自分がその当事者になりたいと思ったことは、ない。


「上流にあこがれるなら、自分がその階級の人間になってしまったほうが手っ取り早くないか?」


 手っ取り早くはない。どう考えても先々のめんどうの方が多そうだ。


「さらに冷静に考えてみろよ。労働者階級の人間なんて、若い時がいちばん金持ちなんだよ。わかるか? みんな歳をとったら働けなくなるからな。貴族や財産をもっている連中なら、証券から得られる金利や、土地の経営で死ぬまで何もしなくても食べていける」


 働かなくもいいんだぜ? と、ヴァージルは貴族のよさをこれでもかと熱弁する。


「アレクシア、これは人生のチャンスだよ」


 ヴァージルはいつのまにか真剣な目をしている。


「君の人生を、いい方向に変える大きなチャンスだ。だが、侯爵令嬢になるだけじゃ、いい人生のゴールにはまだ早い。ただ令嬢になるだけじゃなくて、よい結婚をしなくちゃいけない」


「よい、結婚?」


 思いがけない単語がでてきて、アレクシアは目を丸くする。


「そう。爵位を受けつぐ予定のある長男か? 遺産や土地をもらうあてはあるか? どこかに大きな屋敷や土地をもっているか? もしくは軍で大きく出世しそうな有望株が……」


 ヴァージルは指をおって、よい結婚の相手とされる条件をあげていく。


「だれと結婚するかで、君の人生は大きく変わる。こうしているあいだにも、社交界では夜な夜な、よき結婚相手さがしに必死な令嬢たちが、熾烈な戦いをくりひろげているのさ」


「た、戦い……」


「他人に自分の人生をどうこうされるのが嫌なら、せめて結婚相手くらいは自力で見つけてみたらどうだ? 君の人生は、きっと変わるよ」


 アレクシアのような労働者階級では、結婚を考え始めるのはまだ数年先だ。だが、上流階級では女子は十七歳から二十歳のあいだに、その多くが結婚してしまう。その期間に、よい結婚を実現できる相手を見つけなければいけない。


「よい結婚相手探しのコツを教えよう。まずは、よいお目付け役(シャペロン)をつけること」


「シャペロン?」


「そう。ようは、令嬢たちがハメを外しすぎないように、また条件のわるい男にだまされないように、近くで見守るお目付け役だ。こうした仲介人を立てずに男とふたりであったりすれば、それだけで社交界では死んだも同然。とても重要な存在だ。有能なシャペロンは将来性のありそうな紳士をじょうずにピックアップし、さらに君のいいところを、さりげなくまわりに推してくれる。そんなシャペロンがつけば最高だよ。シャペロンは舞踏会にも一緒に出席して、君の結婚相手さがしを手伝ってくれる」


 たいていは、母親や親せきの年上の女性がついてくれることが多いという。アレクシアを引き取りたいと言った侯爵夫人は、こうした役目も引き受けてくれるだろうか。


「どう? まだ不安?」


 ヴァージルの流れるような演説に忘れそうになるが、そもそもこの養子の話には、最初からアレクシアの意思が入る余地がなかった。


「いやですよ。なりたくない。いままでの生活をすてて、ぜんぜん違う自分になれと言われているんですよ。こわくありませんか」


「考え方を変えてみろよ。君が一年で稼ぐような金額を、たった数日で消費してしまう連中が貴族だ。貴族になるんだ。人生を変えていく最高の機会じゃないか」


 最下級のメイドの年間の給金は、40イーガル。銀行員の年収が200イーガル。300をこえれば中流階級と言える。対して、貴族の年収はピンからキリまであるが、三万イーガルをこえる家もめずらしくない。


「でも……」


 貴族には、貴族なりに負わなければならない責任があるはずだ。

 アレクシアは、自分の手に入れる幸せは、もっと身近で平穏なものでいいと思っていた。愛する人を見つけ、その人と一生をともに暮らしながら、つつましやかに家族で暮らすのだ。


「気負うなよ。ただ楽しく生きているだけの人間もたくさんいるぜ」


「結婚相手なんて、見つかりっこないです。こんななりたての侯爵令嬢を、いったいだれが相手をするんですか」


「じゃ、二十歳まで売れのこったら、俺がもらってやろう。ナイトでは格が落ちるが、まだマシだろう?」


 冗談なのか、本気なのかわからない。いつもこうして、少し期待させるようなことを言って、アレクシアをふりまわすのがヴァージルという人だった。なめらかにこんなセリフが口から滑り出てくるなんて、言いなれている。


——きっとほかのたくさんの女性にも、こんなことを言っているんだろうな。


 これが、傷心の人間をはげますウソでなければいいのに。


「まあでも。きっと無理だろう。俺たちは今度は、逆に身分違いさ」

 

 あきらめたように言うヴァージルの声が、耳にのこっている。


 その日の別れぎわに、アレクシアは今後のことを確認してみる。


「わたしが本当に侯爵様の養女になったら、ヴァージルさまとはもう会えない……?」


 ヴァージルは、それには答えない。


「どこかの舞踏会では、会えるかしら」


 かさねた質問に、彼はようやく反応する。


「さあ、どうかな。でも、俺は、近いうちに会えると思っているよ」


 確信をもった笑顔で、ヴァージルはアレクシアのもとを去った。


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