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二十 好きだった。それだけだった

 

 アンドルー・メセタの国の軍隊は、徴兵制を採用していない。いわゆる募兵制というやつで、ユトレイヤ半島の戦争が激化してくると、軍の募兵活動は活発になった。


 アンドルーは蒸留酒工場の親方のもとで、徒弟として修業中だったが、不慮の事故で親方が死んでから行き場所がなくなった。このままだと無宿人まっしぐらである。人生の転落を感じたころ、兵をつのる軍人に行きあった。


 募兵に応じれば、その場で入隊契約金が支払われる。それに少なくとも、軍にいる間は寝る場所や食い物に困らない。


 軍にアンドルーのような人間は多い。つまり、募兵に応じた人間を集めたからといって、軍としての士気が高いとは限らない。


 アンドルーのような一般兵卒と違い、部隊を率いる士官以上は、みな貴族である。高貴なものの義務として戦争に参加した彼らは、しかし一般兵卒との考え方や生活様式の差は顕著で、しばしば軋轢を生む。


 だが俺たちの小隊の隊長は、あれは話のわかるやつだ。アンドルーは思っていた。


 出自はたしかに貴族のお坊ちゃんだが、場末の盛り場で恫喝するような、素行の良くない兵の大声にもひるまない。わざと自分を大きく見せようとして乱暴にふるまう人間の小心なんかも、すぐに見抜いてあしらっている。


 字の読み書きがろくにできないアンドルーのような兵にも、軍の行動の予定がわかるように口頭で何度でも説明してくれた。


 路地裏で生きてきた、アンドルーよりもっと下層の人間たちが常識を持たないことを責めなかったし、馬鹿にすることもなかった。


「アンドルー、文字を覚えろよ」


 小隊長は、ある時そう言った。


「君は頭がいい。文字を覚えて帰れば、退役後も今までとは違う仕事につける」


 自分のような男に、頭が悪くないと言い、明るい未来について話してくれる者。そんなものは今までいなかった。ヴァージル・オブライエンという貴族の青年以外、誰もいなかった。




 それからアンドルーは、ヴァージルのことをよく見るようになった。

 ヴァージルは、二枚の写真をとても大事にしている。日に一度、ねむる前に少しだけそれを眺めている。その写真に何が写っているのか、アンドルーは知らない。


 ヴァージルは、アンドルーにとっては申し分ない上官だったが、そう思わない奴もいる。特にヴァージルが、ほかの貴族将校とちがって、下層出身の兵を他と区別なく扱うことが気に食わない連中がいる。


 そいつらは、商売が失敗したとか、さまざまな理由で中流から滑り落ちて戦場に来ているものたちだった。



 あるときそういう連中が集まって、マッチをこすっては何か紙切れをあぶっていた。


 アンドルーは、そいつらとあまり関わらないようにしていたから、宿営所でも近づくことはなかった。でも、そのときだけは何か気になって、なんとはなしに視線を向けていた。


 写真だ。そいつらは、写真をあぶっている。写真なんて、撮影に相当の金がかかるもの、持っている人間は限られている。


 それはきっとヴァージルのものに違いない。


 アンドルーは、抑えきれない怒りというものを感じた。


「おい!」


 ふだんは決して近寄らないその連中のなかに、割って入った。


「なんてことするんだよ!」


 アンドルーの人生は、諦めることでなりたっている。欲しいものも、行きたい場所も、会いたい人も、やりたいことすら、生きるより優先はできない。そうするうちに、なにかに強く怒りを感じるほどの執着も持てなくなる。


 そりゃあ、馬鹿にされたり殴られたりしたら怒るが、そんな怒りは長くは続かない。


 だが今アンドルーの心にある怒りは、燃える怒りだ。他人のために怒ることが、それほど強く人の心を燃やすとは、アンドルーはこれまで知らなかった。


 おおいに殴られたが、もともとアンドルーの目的はけんかに勝つことではない。彼は、男たちの手から、端がちぎれた写真を一枚取り戻した。


——だからこれは、俺の勝ちだ。


 アンドルーは腫れあがった顔で、上官であるヴァージルが座る椅子の前に立っている。

 あの連中も、それぞれの場所でいまごろ裁きを受けているだろう。


「アンドルー」


 抑揚のない静かな声で、ヴァージルが自分を呼んでいる。いい言葉をかけてもらったのに、信頼を裏切ったかもしれない。今回の行動でアンドルーの心に後悔が生まれるとすれば、それだけだ。


「アンドルー・メセタ。どうしてこんなことを? 君はこんな粗暴な事件をおこす奴じゃなかったはずだ」


 ちがうよ。アンドルーは言いたかった。俺はこれまで、大暴れしてやるほどの情熱を、生きるために持ったことがなかっただけだ。


 アンドルーは黙って、端がちぎれてみすぼらしくなった写真を一枚、差し出した。


 自分を見あげるヴァージルは、覇気も毒気もない顔だった。


「一枚はもう燃されちまったんです。これしか取り戻せなかったです」


 そうしてアンドルーが差し出した写真を手に取ったとたん、ヴァージルの顔には生気がもどった気がした。手元にかえってきた写真をじっと見ているヴァージルの様子に、アンドルーは不安になる。広い荒野で迷子になったように、ヴァージルの心の動きは読めない。


「あの……やっぱり、一枚じゃダメでしたか?」


「いや……ほんとうに、ありがとう。なくしたと思っていて……見つかったのが、こっちでよかった」


 ヴァージルは小さな写真を手のなかにいれて、まだしまわない。


「写真を見たか?」


 唐突に訊かれて、アンドルーはうろたえる。そう言われた時の返しを用意していなかった。


「いえ……あ、いや……はい。見ました」


「そうか」


 そう言って、ヴァージルは目線を落とし、それからすぐに顔をあげた。


「なあ、これ。いい写真だろう?」


 一転して、ふっきれたような笑顔だった。アンドルーは、ほっとして肩の緊張をゆるめる。


 ヴァージルは、アンドルーに椅子をすすめて、座るように促した。


「アンドルー。こんな戦場で、もういつ別れることになるかわからないから、俺の話を聞いてくれるか」




「今までこの話をした友人は、ひとりしかいない。そいつが今度、彼女と結婚するんだ。この写真の、笑っている子」


 アンドルーは予想していない答えに、舌が空回りしてなにも出てこなかった。てっきり、写真のご令嬢はヴァージルの想い人だと思っていた。


「……俺は本当は、貴族の生まれじゃないんだよ。ステーシー子爵の本当の子じゃない」」


 アンドルーは、視線を床に向けたまま話すヴァージルから目をはなさなかった。彼の告解が終わるまで、あらゆる動揺を顔に出すまいと誓った。


「アンドルー。俺もいまだに理解しきれないんだけど、貴族の家に嫁いだら、今度はあとを継ぐ子どもを絶対に産むように期待されるんだ。それも息子を複数だ。女じゃあ爵位は継げない。実子が女しかいないと、顔も見たことのない親戚に、爵位と財産はうつっていく。息子がひとりいてもまだ不安だ。病気や、戦争に取られてどこで死ぬかわからない」


 受け継ぐものも、あとに残すものも何も持たないアンドルーには、たしかに理解しがたい話だった。


「ステーシー子爵家現当主の夫人は、息子をちゃんと三人産んだんだ。でも、次男は生まれてすぐに死んだ。三男も数年で亡くなって、夫人は産後の回復が思うようにいかなくて、それ以上は子が産めなかった。子爵は妻の憂いを取り除こうと、亡くなった三男に似た子供を探して首都をさまよった。子爵家には、ちゃんとスペアがいるのだと示すために」


「まさか……それで見つかったのが、あんたなのか」


 アンドルーはつい、言葉を発した。


「そうだよ。俺は当時六つになったばかりで、でこぼこの無舗装の道を横切る貴婦人のために、道路のチリと砂埃をはらう小僧をしていた。その日やっと生きていくための小銭を稼いでいた」


 道路を渡ろうとする貴人を見つけると、すかさず走っていってホウキで行き先の汚れをはらい、それでほんの少しの金をもらうのだ。


「暮らしは一変したよ。路地裏から上流階級へ行った俺の話は、首都のある地区であのころ路上暮らしをしていた子どものうち、何人かは知っていると思う」


 それで、詐欺師のアッシュ・エヴァンズは、自分のことを知っていたのだろうとヴァージルは思っている。


 それをアッシュのような人間が、ゆすりたかりの道具にしなかったのは、子爵家三男の生まれなど、実際それほど重要ではないからだ。


「じゃあ、その名前も偽物なのか?」


「名前なんて……最初からなかった。知らなかったんだ。自分の名前」


 それからヴァージルは手元の写真を掲げて、懐かしそうに眼を細める。


「なんとか体裁を保って貴族のふりを続けているとき、彼女にあった。彼女、店のうらで洗濯物を干しながら、歌をうたっていた。懐かしい歌だ。路上で俺が暮らしていたころ、ほんの少しだけ記憶に残る母親が、歌っていた歌だ」


 自分の本当の人生に、つながる歌だった。


「そのうち彼女のいる店に通うようになって……すてきな子だと思った。働き者で、自分のいる場所で、ちゃんとしあわせそうだった。でも、嘘だらけの俺の経歴では、彼女のまえには立てないと思った」


 本当のことを打ち明けるわけにはいかない。だから嘘のうち、ほんの一部でも本当になるように。


「それで、軍で階級をあげて、一代限りだがナイトの称号を受けるまで来た。そこまでしたけど、彼女はけっきょく遠くに行ってしまった。もっとずっと、上の方へ」


 前よりももっと手の届かないところへ。もう自分には、彼女をしあわせにする手助けしかできない。そう思った。


 ヴァージルはアンドルーにすべて話した。アレクシアの運命が変わった日に、自分が決意したこと、好きな人の結婚相手を探すために、何カ月も奔走したこと。そのせいで、気が狂いそうだったこと。


「けっきょく一度も、本当の気持ちは伝えないまま、ここにきた」


「なんだそれ。どうしてちゃんと言わないんだよ」


「好きになったら、駄目な人になってしまったんだ……彼女は」


「でも……しょうがないじゃないか。好きなんだから。あんたは、その子が貴族のご令嬢だってわかるより、ずっと前から好きだったんだろ。だったら、関係ないじゃないか」


 関係ない……か。と、ヴァージルはアンドルーの言葉を口の中でくりかえす。


「アンドルーは、階級も身分も関係ない。好きだったらそれでいい。そんな風に言える時代が、いつか来ると思うか?」


「来るよ。あんたがその先鋒になればいい」


「先鋒なんて、戦場でも誰もやりたがらないだろう? 苦労が多いよ」


「じゃあ、諦めんのか」


 ヴァージルは答えない。諦めると、すぐに言えるほど彼のなかでも割り切れてはいないのだ。 


「その人はさ、そういう苦労は一緒にしてくれなさそうなのか」


 アンドルーの問いに、ヴァージルは驚いたような目をする。


「……それは、そんなことはないと思う」


「じゃあ、聞いてみればいいよ。ちゃんと本人にきけばいいよ! それだけじゃないか!」


 すべて解決だ! と言わんばかりの快活さで、アンドルーは笑った。


「そうか。それだけで……よかったのか」


 海の方向で、無意味な大砲の音がする。ここはユトレイヤ半島の先端で、半島の先には砦がある。砦と言っても、巨大な要塞であるそれは、内部に街があり、軍人以外の多数の一般市民を囲っている。


 あの砦を落とすまで、自分たちは国に帰れない。


 ——もしも帰ることができたら。まだ君が、誰のものにもなっていなければ。今度こそ、この気持ちを伝えてみようか。


 君に言えなかった言葉が、たくさんあるよ。





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