良佳━逢えた事が嬉しい━
眩しい世界を歩いた。
いつもと同じ道のはずなのに、いつもとは違う朝。いつもとは違う心。優しい気持ちで見つめた世界はこんなにも色鮮やかで、酷く素敵なモノに思えた。
改札を抜けて、いつもなら吐気がするような朝の混雑したホームも、急かすように鳴り響く電車の訪れを告げる笛の音も、耳障りな人の声さえも気にならない。まるで良佳自身の全てが塗り替えられたように、いつもとは違う。どうしてこんなにも――。
――こんな世界を生きていければ良いのに。
優しくて、暖かい、明るい世界を生きていけたらどんなに幸せだろうか…。
冷たい風と共に電車がホームに勢いよく滑り込むと、降りる人と乗る人が同時に動きだす。良佳はその光景を一歩引いた場所から見つめ、次第に途切れた人々の中に紛れた。顔を上げて歩く事は苦手だから、常になりつつある自分の革靴を見てしまう。何度も見てきた、見慣れたこげ茶色のローファーにはその月日の分だけ皺と傷を刻んでいる。まるで自分の様だと思った。
――一度ついてしまった傷や皺は直せないから…。
月日が過ぎて行くたびに傷が増えて行く。
誰にも気づかれないような小さな皺から、やがて大きな傷が出来る。その傷を癒す事も出来ずにまた新しい傷が増える。本当の優しさも知らないから…。
流れ着くままに乗った入り口とは反対側のドア付近に身を寄せて、ポケットから携帯電話を取り出すと不意にそれを握りしめる。答えを待っていた。ずっと。
深澄からの返信を――。
「――すみませんっ」
ざわめきの中、一瞬微かに聞こえた声に伏せた瞼の裏に映る影――それは紛れもなく良佳が求めた人の姿――そして、その影は瞼を開けても消えずに鮮やかに色付く。目の前に深澄がいる。何とも不思議な心地がした。
「良佳」
「――?」
ふわふわとした感情が邪魔をして、まるで夢の続きを見ているような…そんな感じ。そこにいるのが、目の前に触れられるほどの距離にいるのが深澄だとは思わなくて、けれども名前を呼ばれてしまえば、そこにいるのが「崎本 深澄」なのだと確信せずにはいられない。そう、今まさに彼が目の前に居る――。
――どうして…ここに?
驚きに眼を瞠るが、言葉にするはずの文字たちが声にならない。パクパクと酸素を求めて口を開いても、呼吸は楽になるどころか酸欠状態の頭はちっとも働こうとはしてくれない。声にならない言葉たちがもどかしくて、言いたい言葉をグッと飲み込んだ。
――本物…?
良佳の感情を理解したように曖昧に笑みを浮かべる彼がぽつり呟く。
「ごめん」
その声とほぼ同時に軽く腕を引かれると、抗う術もなく身体は彼の腕の中へと収まる。まるで最初から決められていたかのように自然に吸い込まれていく身体に、鼓動だけが早鐘を打って落ち着かない。良佳よりも幾分か身長の高い彼の鼓動も心なしか乱れていて、その鼓動が耳に届くこの距離が愛おしいと思う。触れる温もりに顔を上げる事も出来ないけれど、今はただ何も考えずに眼を閉じた――。