深澄━キミに振りまわされてばかり…━
眠れない夜を過ごしたのは初めてかもしれない――。
いつもよりも眩しく見える陽の光に、しかめっ面になってしまうのは当然のことだろう。
こんなにも世界は明るくて、こんなにも優しいモノだと、そう気付いたのは昨日のこと。それなのに今はその明るさと優しいはずの世界が眼に沁みる。出来れば今日は曇っていて欲しかった。
――まったく、勝手だな。お前は…。
自分に悪態をついて、仕方なく一歩踏み出す。
人の流れに沿うようにいつもの道を歩いて、見慣れた駅の改札を抜けた。時刻は6時半を過ぎたところ。眠れない夜の影響でいつもよりも早い時間の電車に乗り、多くはない人混みに揺られる。単調な電車の揺れと、耳から流れる音楽たちに眠気を誘われれば自然と瞳は暗闇を作りだした――。
揺れる木漏れ日の中、あの日の少年の背中が蘇る。
知らない土地の、知らない場所に立つことへの不安。幼い自分の葛藤と焦りが滲んで小さく消える。
――君が、可哀想だって…――
老人の言葉と、老婦人の優しい微笑みが今も心の奥深くに残っている。
優しい人々と、緩やかな小川のせせらぎに包まれた――暖かい記憶。
「――っ」
ガタッと開く扉にまどろんでいた意識が急激に浮上する。
不覚にも眠っていた自分に伐の悪さを感じながら、平静を装って降りる人込みに紛れた。知らない間に電車は目的地へと辿りついていたらしい。
不安と緊張、そして少しの期待を込めて知らない土地に足を踏み入れる。あの時とは違う、何も求められない自由な自分がそこにはいる。
悪戯心なのか、それとも――。
――キミに逢いたいのか…?
偶然に逢えるだろう確率の低さを知っているのに、それでも自制できない自分自身に戸惑う。メールじゃ伝えられない、“文章”ではない“言葉”をキミに知って欲しかった。こんなにも心を動かしてくれた、暖かさを、優しさを、そして愛おしさを教えてくれた彼女に逢いたかった。
「……」
改札を出ずにコーヒーショップへと足を運ぶ。
制限時間は30分と言った処で、それまでに彼女がこの場所を通らなければ自分も学校へと行かなければならない。僅かな賭けと、それでもきっと逢えるという確信めいた何かが背中を押す。過ぎゆく人並みの見渡せる席に着くと、深澄は好みもしない安いアメリカンコーヒーに口をつけ、忙しない改札を見つめていた。
簡素な木目調のテーブルの上には携帯電話を置いて、開いた画面から見える時計と時折睨めっこしてはまた人混みへと視線を戻す。その繰り返し。
頬杖と何度目かになる時刻の確認の後、知れず溜息が零れる。殆ど口をつけずに冷めきったコーヒーを覗けば、何とも情けない顔をした自分が映った。今更ながらに――自分の愚かさを呪ってしまう。
――これじゃ、ストーカーだろ。
揺れるコーヒーの水面に自分の顔が歪み、もう一度ソレを見る前に彼は席を立つ。これ以上ココにいることは無意味だと思えた。出来るならば、こんな愚かな行動を彼女に知られずにいたい。逢いたかった筈の心は自制できなかった自分への恥ずかしさへと変わり、コーヒーカップを愛想もなくトレーごと戻すと深澄は足早に店を出た。その時。
「――っ」
知る横顔に胸が脈打つ。一つ、二つ。早くなる鼓動を抑えるように少し冷えた右手を握り、気付かれないくらいの距離を保って彼女の後ろを追いかけた。そこには先程までの恥ずかしさとか、自己嫌悪みたいなものはなくて、ただ声もかけられずにキミの後姿を見つめることしか出来ない。もどかしさと、少し暖かくなる胸の内を知るものはいない。
――逢えた…。
通勤ラッシュと重なる時間より少し前、ホームで電車を待つ人の波は思うほど多くはない。それでも彼女は、きっと気付いていないだろう。こんなふうに眼で姿を追える位置に居ても、その俯いた表情では、伏せた瞳ではきっと気がつく事さえできない。周りの事、こんなに近くに居る“深澄”にも――。
いつだって前よりも足元を見てしまうキミだから…。
アナウンスと共にホームに電車が滑り込み、つられるように人々は電車の中へと消えて行く。例外ではなく良佳も同じように人込みに紛れ、その箱へと足を踏み入れる。ホームとは裏腹に混雑した電車内で、息苦しそうに反対側のドア付近に身を落ち着けると握りしめた携帯に思いを馳せて眼を閉じた。伏せた睫毛が微かに震えている。だから――。
「――すみませんっ」
思わず人混みを掻き分け、彼女の傍へと――身体が勝手に動いた。
「良佳」
「――??」
名前を呼ばれようやく顔を上げた彼女は、深澄の姿を見つける。視線が交差して、彼女の表情が驚きに染まり、開かれた口唇は意味もなくパクパクと動いてからまた閉じた。そんな間の抜けた表情が可愛いと思う。作られることのない素の姿が。
「ごめん」
パチパチと瞬きを繰り返して、揺れる瞳からは動揺が見て取れる。
短く謝罪を述べると「なんで」と言う言葉が出る前に、彼女の腕を軽く引いた。彼女よりも幾分か高い背と、自身の身体で未だ理解できていない良佳を庇うようにスーツ姿のサラリーマンに背を向ける。電車が動き出してもどこか伐が悪くて二人とも言葉を交わさぬままお互いの体温を感じていた。