そして━yoshika━
快晴の日の元を彼女はただ独り歩いて行く。
いつもよりも幾分か早い通学路に人気はなく、ひっそりとした住宅街は朝の喧騒も嘘のように静まり返っていた。木々から零れる木漏れ日を身体中に浴びながら久しぶりに清々しい気持ちで外を歩いているような気がする。こんな風に迎えられる“朝”ならば悪くはない。そう思えた。
不思議な気持ちだ。
あれだけ鬱鬱とした黒い感情を持て余していたというのに、今は誰かに優しくしてあげたくなる。他人に会うことも関わる事も億劫だったはずなのに、たった一言――深澄からの言葉――があるだけでささくれだっていた心は優しくなれた…。
――深澄、やっぱりキミは凄いね…。
瞳を伏せ良佳は不意に胸に手を当てる。
ブレザーの胸ポケット。学校指定のエンブレムが刻まれたその下に良佳は携帯電話を入れ、ソレが振動するのを今か、今かと待ちわびていた。その時。
「よいしょっ…」
鈍く小さな声が良佳の視線の下より聞こえる。
その消え入りそうに弱弱しい声に振り向くが、視界に入る者はない…周囲を見回して首を傾げそうになった頃、声の主は可笑しそうな声音で短い良佳のスカートを軽く引っ張った。
「お嬢さん、ちょっと道をお尋ねしてもよろしいかしら?」
「――っ!?」
視線を下げてそこにいる年配――齢80くらい――の小奇麗な女性に眼を瞠る。そんなに大きくはない良佳よりもさらに頭一つ分以上は低いであろう身長の背骨はひしゃげたような猫背で、地面に置かれたシルバーカーには大きな荷物がこれでもかというほどに括りつけられていた。一体こんな朝早くに何処へ行くというのだろうか…。
「お嬢さん?」
「――っはい」
もう一度名前を呼ばれ良佳は裏返った声で返事を返す。そんな彼女の様子に気を悪くするでもなく老婆は皺くちゃな顔に更に皺を刻みこんで柔らかく笑う。どことなく古臭い匂いは昔お婆ちゃんの家で嗅いだ“お線香”の匂いを思い出させた。
「驚かせてしまったかしら? ごめんなさい」
「あっ、いえ、その」
「あらあら、慌てなくて良いんですよ。こんな老婆が相手ですものゆっくりと話して下さいな」
「……」
独特の柔らかい雰囲気と、穏やかでゆっくりとした口調に触れると良佳はそれ以上の言葉が告げなくなった。どうしてこの人は見ず知らずの人間にも、心を砕いてくれるのだろうか…。それが不思議でならなかった。
「ふふ…何か聞きたそうな表情をしていますね」
「……」
良佳の表情から何かを汲み取ったのか、老婆は不意に空を見上げそれからもう一度良佳に微笑みかける。その眼はどこか寂しそうだった。
「……歩きながらお話しましょうか」
「……はい」
「何処へ?」とは聞かずに良佳は老婆のシルバーカーを押して通い慣れた道を歩く。ゆっくりとした歩調はそれでも老婆には少し早いのか時折躓きそうになるのを、彼女の隣で良佳ははらはらしながら見守っていた。いつ転ぶか分からない老婆と並んで歩きながら自分にとって何でもない道が、彼女の様な年配の方々にとって過ごしにくい道なのだと気付く。歩道は整備されていないところも多く、狭い道の半分以上を放置自転車が陣取る。人も自転車も車も我先にと道を急ぎ、誰も手を差し伸べることはない。信号機のない信号をよたよたとシルバーカーを押して進む人。ガタガタの路を車椅子で自操する人。歩道橋しかない交差点。障害者や高齢者、そして子供たちにも優しくない街がそこにはあった。
――どうして、この街は生きにくいんだろう。
緑多く優しい風の吹くこの場所が、誰かにとっては過ごしにくい場所なのかも知れない。そんなことに気づいている人がこの世の中にどれくらいいるのだろう。地面に唾を吐き、ごみを路上に投げ捨てる。煙草の灰は風にのって流れ、道には若者が屯する。そうしてこの場所は汚されて行くんだ。きっと。
「この先にお墓があるの」
「――?」
「大切な人に会いに行くのよ、私」
まるで恋をする少女のように少し頬を赤らめた老婆は嬉しそうに微笑む。その表情は本当に幸せそうで、良佳の心を打った。
「寂しく…ないですか?」
“お墓”に会いに行くということは、大切な人はもうすでにこの世を去ってしまっているのだろう。大切な人がこの世界に居ないのに、どうして彼女はこんなにも幸せそうに笑うのだろうか…。
良佳の言葉に老婆は眼を瞬く。そうして少し困ったように笑ってから「いいえ」と否定の言葉を述べた。その言葉は本心から出た力強いものだった。
「寂しくない訳じゃないわ。でも」
「でも…?」
「あの人が残してくれた思い出は心にあるから、私は一人だけど独りじゃないのよ」
「……」
優しく微笑む彼女に良佳は黙り込み俯く。
自分もいつか彼女のように笑える日が来るのだろうか――そう思うと胸が締め付けられるように痛んだ。その時。
「――っ」
不意に女性の皺皺の手が良佳の冷たくなった掌を包む。その手はとても温かかった。何度か温めるように掌をさすり老婆は表情の見えない恰好のまま「大丈夫」と小さく呟く。それが何を意味しているのかなんて知らない。確信があったわけでも、良佳の事情を知る訳でもないのに、老婆はただ良佳の掌を包み温もりを分けてくれる。涙が出そうになった。
そのまま無言で歩き駅にほど近い霊園へと二人は辿りつく。入口に入ろうかという処で不意に老婆は足を止め良佳へと向き直った。そうして――。
「どうもありがとう。ここまでくれば一人でも大丈夫よ」
「……でも」
よたよた歩きの彼女の事が心配で良佳は言葉を続けようとするが、
「遅刻してしまうでしょう?」
と、老婆の真剣な眼差しがソレを良しとはしてくれなかった。
「……」
「ありがとう、お若いのに親切で優しいお嬢さん」
「…優しくなんてないです」
どこか伐が悪そうに顔を上げない良佳の素っ気ない言葉に、老婆は首を横に振るとフッと曖昧な笑みを浮かべて聞こえるか否かの声でぽつり呟いた…。
「……あなたみたいな人が傍にいてくれたら幸せでしょうに…」
「…?」
「ふふ…あなたも気をつけてお行きなさいね」
「……はい」
もう一度深々と会釈をすると女性は良佳の手からシルバーカーを受け取り、重い荷物を引いて霊園の奥へと消えて行った。その後姿が見えなくなるまで良佳はその場から動けずにただ黙って見つめていた。
老婆と、老婆の大切な人に思いを馳せて―――。
「――っ?」
不意に振動する携帯電話。
慌てて胸ポケットに手をやれば、すぐに止まった振動は他ならぬ“メール”を知らせるモノだ。
――こんな処で…。
老婆を見送った後の霊園前。
複雑な気持ちで携帯電話を開くと良佳は急いでそのメールに眼を通す。メールを開く前の気持ちとは裏腹に、待ちわびていた深澄からのメールの返信に心が一瞬跳ねた気がした。
そこには――。
――生きる“意味”に…。
予想外の彼からの“約束”に、“意味”に、ただ良佳の胸は鼓動を早くするばかり。言葉にならない感情に眩暈が起こりそうな錯覚さえ覚える。立っていられずにその場にしゃがみ込めば、先程老婆に温もりを分けて貰ったはずの指先は震え冷たくなっていく。
良佳の中で何かが目まぐるしく変わろうとしていた――。
老婆との出会いで、良佳は”生き難い”街の現状を知る――。
そして”寂しさ”とは何なのか、大切な事は何なのかを一人考えていく…。
深澄からの”約束”に心打たれ、自分に出来る”何か”を知りたいと切に願う――。
そして……。
☆こんにちわ。
大分間の空いた更新になりました^^;
ようやく良佳サイドの更新です。
今回は文字数が多い(良佳にしては)割に、内容が急ぎ足な感じになってしまった気がします。
そして、こちらも少しの間更新はお休みします。
早い活動再開を目指しますので、今後ともお付き合いのほどよろしくお願いしますm(__)m
それでは、またいつか。