迷い━misumi━
答えなんて、初めからなかったのかも知れない。
不意にそんな言葉を思い浮かべて深澄は自嘲の笑みを浮かべる。授業も終わり、帰りのホームルームも終えてしまえば教室に残るのは僅かばかりの人影。用事もないのに人の顔を眺める“もの好き”がいるとも思わずに彼はさっさとカバンに教材を詰め込んでいた。その時、自分の手に重なる影を見つけ彼は顔を上げる。
「崎本君、なんか良い事でもあった?」
不躾な態度と言葉に多少眉根を寄せてはみるが、その人物が誰かを知って深澄は不意に視線を逸らす。そこには彼女―友枝―がいた。
「用事?」
「えっ…うん。ぁ…違う」
的を得ない会話に苛立つ心を留め、深澄は愛想よく笑って見せる。そこに本心はなくて、切り札を最後まで見せるつもりはない。
「どうしたの? なんか相談?」
「……」
にこりと笑って目を見れば、少し気恥ずかしそうに眼を逸らす友枝。その様子はまるで彼女―良佳―と変わる処もないのに、深澄の心にチクリと棘を刺した。この痛みの意味が分からない。どうして…。
―どこも変わらない。友枝も…あいつも。
同じ高校生であり、女である事に変わりはない。
仕草だって、女性特有の柔らかい雰囲気や甘い香りだってそうだ。それでも…。
眼の前に居るのが違う人であると言うだけで、心はこんなにも痛みを覚える。誰かと話している時に、不意に彼女を思い出す。彼女なら――どう感じるのかと。
―馬鹿だな…。そんなこと気にしてどうなる。
他人なんて煩わしいものでしかなかった。
自分を構築する上で邪魔な存在。自分のペースを乱す障害物だとしか感じなかった。今までは。
「友枝?」
黙る彼女の顔を覗きこめば、その刹那、何かが自分の唇に触れる。温かく柔らかい何かが。
「――っ!?」
触れているモノが眼の前にいる人物―友枝―の口唇だと気付くのにそう時間はかからなかった。そして、ほぼ同時に身体が彼女を拒絶する――。
「きゃっ」
力加減を忘れ、深澄は彼女を突き離す。
驚きと、それ以上の不快感が湧きあがり自分の中を黒い感情が走り抜ける。想像以上の威力と衝撃が“接吻”にはあった。
―……。
突き放した彼女を見つめる。
その眼が常よりきつい冷やかなモノとなっていることを深澄は知らない。平静を装い、上手く自分を隠してきた自分が取り乱している事も。
「なんで?」
「……」
「……意味、分かんねえ…」
俯いて沈黙を守る彼女に深澄は軽蔑するように眼を眇める。笑って済ませられるほど女性経験が豊富ではないから、こんな風に突然の出来事にうろたえる自分にも腹が立つ。
知らず洩れた言葉は飾る事を知らず冷たく彼女の頭上に降り注ぐ。そして…。
「…わからないのは…そっちでしょ」
「…?」
彼女の意外な言葉に眼を見張る。
そこには真剣な眼を向ける友枝の姿があった。
「突き放したり、優しかったり…なんで」
意味のわからない言葉たちに深澄はただ黙って立ち尽くす。そんな深澄を嘲笑うように彼女が続けた言葉たちは、更なる衝撃を与えた。矛盾する態度と言葉に身動きが取れないのだ…と。
―思わせぶりだった?…違う。
俺は“深澄”を守っていただけだ―。
自分が壊れるのが嫌で、自分を曝け出されるのも嫌で、ただ上手く“崎本深澄”を演じていたかった。ただそれだけだった。例えそれが彼女にとっては“期待”に繋がるのだとしても。
もしも今“そんなつもりはなかった…”と、そう言った処で彼女は分かってくれるのだろうか。
何故だか言葉は酷く不自由に思えて、この時ばかりは深澄も後悔を覚える。そして、それでも告げる言葉は一つだった。
「…友枝、悪い」
「―っ」
短い言葉に彼女が息を詰め肩を震わせる。
それでも、深澄に出来る事はない。ここで動けば更なる“期待”を持たせ、彼女に“傷”を残すだけ…そう思えば、深澄はただ視線も合わせずに俯くばかりだ。
眼の前で泣きだす彼女に、かける優しさはない。
そのまま彼女が教室を走り去ろうとも、今はただその後姿を見送ってやることしか出来なかった。それがせめてもの“優しさ”だった。
―中途半端は辛いから…。
どうして“他人”は“他人”を求めてしまうのだろう。
そんなことを思う自分を可笑しく感じながら、それでも雲の合間から覗く太陽に眼を細めた。触れた口唇の温もりを思い出せば、深澄はやりきれない気持ちに戸惑う。
不意に見上げた空の優しさに、その色に良佳の言葉が浮かぶ。
―言葉は難しいから…―
「声には…ならない…か」
一人呟いた彼女の言葉は、知らず空に溶けていった―――。
気づかなかったことに、気づいた深澄。
そして、良佳の言葉の意味を漸く理解する。
-言葉は難しい-のだと…。
交差していく感情の波に、生まれる迷い。
ただ、良佳の言葉を待っていた--。
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