進路━misumi━
震える手は痛々しくて、けれども彼女が躊躇いながら口にした言葉は真っ直ぐだった。
だからあの時、俺は零れそうになる涙を我慢することしか出来なくて…君に向けた笑顔は、とても不器用な―崎本 深澄―本当の笑顔だったのかも知れない。
五月に入り、少し肌寒かった風は春のものから初夏のものへと移り変わって行く。コートを羽織る手間もなく、荷物が少ない点に関して言えばこの時期は嫌いじゃない。窓から入り込む風はどこか柔らかく髪を撫でていくし、鳥は静かに囀る…一人いつもの場所で眼を閉じれば、それだけで“穏やか”だ。
―こんな筈じゃなかった―なんて言うのは言い訳か…。
昼休み、彼は常になりつつある中庭の木陰に腰掛け本を開く。
そこに広がる文字の羅列に目を走らせるわけでもなく、今はただ彼女―良佳―の事を考えている。弱くて強い、不思議な少女の事を。
―どうかしてる…。
徐に溜息を吐いて、深澄は本を閉じる。そのまま視界を遮る長い前髪に手をやると、それを後頭部へと梳いた。すぐにはらはらと落ちてくる黒い髪を不快に感じながら、けれども流れる風に心は凪いでいく。
どうしてだかわからないが、今無性に会いたいとも思う―彼女に…だ。
―こんな風に誰かを思い浮かべる日がくるとは思わなかった。
誰かを思いやったり、気遣う事など、この世の中で一番無駄な行為だと思っていた。所詮、他人が他人を理解することは難しく、下手な気遣いや思いやりは時に相手を傷つける。何より、相手の為にならないような“優しさ”ならば最初からない方がいい。ずっと、そう思ってきた。
信じるよりも、疑う事の方が好きだった。
―疑うことは“罪”じゃない。
人間は疑う事を止めたその時から、他人を理解することを止めるのだと思う。
“信じる”なんて言葉は聞こえはいいが、実の処その一言で相手を理解することを拒んでいるように思う。
―“信じる”なんて簡単な言葉で片付けないでくれ。
その一言で、全てを閉ざされたように感じるから。
―貴方を信じてるわ…深澄…―
“信じる”と言う言葉で縛りつけ、本当の事になど眼も向けない。欲しいのはそんな言葉じゃないのに。欲しいのは…望むのは…。
溜息を一つ零す。
誰に聞かれるわけでもないその溜息はそっと風に乗り消えていく。無意識に握られていた携帯電話を開くと、深澄は慣れた手つきで画面を開いた。らしくもない自分の行動にもう一つ溜息を吐いて、不意に目を伏せるがそれでも気持ちは変わらない。
今、彼女と話したい。
この訳の分からない感情を一人持て余すよりも、それが有意義に思えたから。
―違う。言い訳だ。
本当は、単に彼女を知りたいのかも知れない。
今もまだ彼女を疑っている。それは嘘じゃない。
興味を持っているのも本当。だから戸惑う…。
―良佳。
君は今何を思う。何を考えるの。
君が見る世界を―僕に教えて。
深澄
短い文を打ち終えて、迷う前に“送信”ボタンを押す。
読み返せば送れなくなることは分かっている。だから読み返す事もせず、不躾なそのメールを送った。
思えば自分から彼女にメールをするなど初めてではないだろうか。普段なら絶対にしない行為。でも。
―それも悪くはない。
初夏の香りを纏った風が吹く中、深澄はそっと目を閉じた。
久しぶりの更新です。
色々思う処がありまして、更新が遅くなりました。
進路…深澄の進路は決まっているので敢えて触れません。←おいっ。
ある意味、彼の興味の行く末も”進路”かと^^
それでは、また次回。