過去━yoshika━
想いは・・・届かない。
良佳が送ったメールは「宛先人不明」で、数分後には良佳の携帯電話を鳴らした。
「・・・だめ・・・か」
学校も終わり、良佳は行く宛もなく公園のベンチへと身を委ねる。昼間の出来事を思い返すと胸がチクリと傷んだ。あんな風に何かに興奮するのはどれくらいぶりだったろうか。もう、思い出せないほど遠い昔の出来事で、良佳は人知れず溜息を吐く。
願いは叶わない。
良佳はその事を身に染みて分かっていた。分かろうとしていた。それでもまだ何処かで期待をして、願いが叶うことを待ち望んでいる自分がいる。
「・・・馬鹿だね」
自嘲の笑みを漏らし、その呟きは白く消えていく。
今夜は十六夜。躊躇いの月。
冬の空は、凛と張り詰めて夜空を色濃く澄渡させる。その月を見て、良佳は詩を紡ぐ。
「月。
十六夜の月。
満月と比較され
躊躇いがち。
まるで、私。
満月には
敵わない。
願いは、届かない。
それでも月は、月。
私は、ワタシ。
違うモノには
なれない。
なりたくない。」
良佳の気持ちを代弁した詩は、また保存され積み重なる。
月は浮雲に姿を隠す。時刻は20時前。母親は帰ってきているのだろうか。
良佳の家庭環境は複雑だった。父親は良佳が幼い頃蒸発し、その後は母親に女手一つで育てられるも、元々専業主婦だった彼女が幼い子供を育てるのには限界がある。その内、良佳は存在を忘れられた。「育児放棄」、「ネグレクト」。
今では新聞にも載るようなこれらの言葉も、明るみに出る事は少ない。近所の付き合いもなく、プライバシー重視の構造の建物内は防音効果が優れている。人々は、自分に火の粉が降りかかるのを恐れ、滅多な事でも起きない限り「児童相談所」に一報を入れる人間はいない。
そして滅多な事が起きてから、こう口ぐちに言うのだ。やっぱり、と。
人間なんて、自己防衛の働く利己的な生き物だから。興味はあるけど関わりたくはない。そんなもの。
良佳の時もそうだった。食べ物も着る物も与えられず、ただ生かされている人形。
最初のうちは叩かれたり、蹴られたり・・・でも、その内それらも無くなって、存在は認められなくなった。そうして良佳は感情を殺すことを覚える。泣いても、喚いても変わらない。周りだって皆気づかないふりを決め込んで、助けてなどくれない。それならせめて「無」になろう。そう決めた。
「この世界に、救いはありますか・・・」
良佳がいつも呟く言葉。その答えを聞くのが怖くて、誰にも聞けない言葉。
東京の雪は降っても積もらない。儚くその形を失う。
一度だけ、母親が笑ってくれたことがあった。父親がいなくなって暫くした冬のある日。
二人で出掛けた。電車に乗って、遠く、遠く知らない場所。雪の沢山積もる綺麗な湖。
良佳は単純に嬉しかった。母親と出掛けられた事が、母親が笑ってくれた事が。
その先に何があるのかも知れず、ただ母親に手をひかれ歩いた。
茫然と湖を眺めて、ふと母親の手が震えている事に気づく。見上げると、母は泣いていた。
『良佳・・・ごめん。ごめんね』
『・・・・』
『お母さん、疲れちゃったの』
『・・・うん』
頷く事しか出来くて、繋いでいた手に力を籠める。幼いながらに言葉の意味を理解していたんだと思う。
母親が目の前にしゃがみ込んで、ゆっくりと手袋をした茶色い手が近づいて、私は目を閉じた。
『ごめんね』
良佳に返す言葉はない。これで終わり。痛いのも苦しいのも一瞬。そう思った。
首に巻きつく手に、指に力が籠められ息が出来なくなる。深く、暗い処に落ちていくような気がした。
次に気づいた時、良佳は知らない白い天井を見ていた。
あの時、幸か不幸か地元の人が通りかかり「無理心中」を止めたらしい。良佳は一命を取り留め、母親は見舞いに来ることもなく、一人東京に戻ったと聞かされる。心に穴が開いたような虚無感。
その後暫くは施設に預けられることになり、母親と離れて暮らした。母親に再会したのは一昨年の事。
高校に上がるために東京に戻ってきた良佳を、母は受け入れる。その隣には知らない中年の男。知らぬ間に母は再婚し、良佳は戸籍を男の苗字「七瀬」へと移した。
「シアワセ?」
母親にそう尋ねてみる。彼女は「お金のためよ」と言ってのけ、そこに「愛」は無かった。
それからは、体裁を保つために「家族」を演じる日々。家の中は冷たい。
家には・・・・帰りたくなかった。
良佳はもう一度月を見上げる。浮雲が晴れ、月は姿を現す。
どうして、想いは届かないのだろう。どうして、私は生きているんだろう。どうして、どうして。
疑問符ばかりが頭を巡る。その答えはない。
誰か、応えてくれないだろうか・・・。
良佳は携帯を見つめ、もう一度宛先を打ち込む。今度こそ、今度こそ上手くいく。
昼間とは違うアドレス。思いつくままに打った。誰でもいい。誰か。誰か。
━誰か、ワタシに、気づいて━
その叫びを込めて、「送信」ボタンを押す。
月だけが、良佳を優しく見守っていた。
良佳の暗い過去。
それでも願いは叶うと信じたかった。
想いは今度こそ、届くのか・・・。




