傷━yoshika━
「失礼します」
震える手を抑え、良佳は保健室の扉を開けた。
「・・・七瀬・・」
そこには、いつもの仁先生の姿がある。あの出来事の前と何も変わらない姿だ。
「・・・手を・・診てもらえますか」
緊張しながら一歩二歩と歩みを進める。仁先生は驚いたように目を丸くしていたが、良佳の手が赤く染まっているのに気づくと慌てて近づいてきた。
「どうしたんだ、これ!?」
「ちょっと・・・」
手首を軽く掴まれ、良佳は眉を顰める。先程までの熱いような痛みはないが、動かされれば痛い。仁先生は手に巻かれていたハンカチを外し、傷口を診て絶句した。
「・・・・刃物だな・・・カッターか?」
良佳は否定も肯定もせずただ黙っている。出血の量は酷いものの、キズの程度はそれほどでもない。
先生は何も答えない良佳を見て、小さく息を吐くと「座れ」と丸椅子へと促した。
血のついた掌を洗い、傷口を丁寧に消毒液のついたガーゼで拭うと、そこには一筋の赤い線が浮かび上がる。仁先生はそこに何やら薬を塗り、器用に処置を施していく。
「痛みは?」
「・・・大丈夫」
不意に聞かれ、良佳は俯いたまま応えた。
手首を掴まれ白い包帯が巻かれる。それをただ見つめていた。
処置を終え仁先生は後始末をするが、掌を覆う白い包帯を眺め、良佳は俯いたまま動かない。
何を考えているのだろうか。
「どうした?」
答えが返ってくる事は期待出来なかったが、彼は思いきって尋ねてみる。
「・・・・」
案の定の沈黙。気まずい空気が流れた。
良佳はもともと気持ちを言葉にするのが得意ではない。何をどう伝えるべきなのか・・・どうすれば伝わるのかが分からない。その上相手が何を問うているのか、それを理解するのも不得手なのだ。
だから、そこにはいつも「沈黙」がある。
その沈黙を壊したのは仁先生だった。
「あのさ・・・」
不意に声をかけられ良佳は顔を上げる。息が触れるくらい目の前に先生の顔があり、良佳は一瞬の内に『あの出来事』を思い出す。
「やっ・・」
「七瀬」
身を引いて先生との距離を保とうとするが、その腕は掴まれ身動きが出来ない。緊張が走る。
「七瀬、あのさ」
もう一度名前を呼ばれ、良佳は俯いたまま目を固く閉じる。何も考えられない。
また俯いてしまった良佳に、仁先生は思いがけない言葉をかけた。
「・・俺と、付き合ってよ」
その言葉は今まで聞いた事の無いような真剣さを孕んで良佳の頭上に降り注ぐ。
驚きで目を見開くが、すぐにそれは不安へと変わる。
「・・・何?」
意味が分からない。今、この人は何を言った?「付き合う」って何。その言葉が頭の中を巡っていた。
「好きなんだ・・・七瀬の事が」
彼は、良佳には理解できない言葉を並べる。
「好き」なんて知らない。「愛」も「温もり」も誰もくれなかった。
分からない。分かりたくない。
「この間は・・・気持ちが逸って、あんな事をしてしまったけど・・」
彼の言う「あんな事」とは、寝込みを襲った事だろうか。それならば、彼の言う「好き」が余計に分からないと思った。
「好きなら・・・・襲ってもいいんですか・・・」
「えっ・・」
良佳の口から出た言葉に、仁先生は絶句する。良佳自身も自分の口から出た言葉に驚いた。
(私・・・今、なんて)
戸惑いながらも、良佳は思うがままに言葉を紡ぐ。今なら、あの時言えなかった「気持ち」を言えそうな気がした。
「先生のした事は『間違い』で、あれを『好意』だと呼ぶのなら、私は・・・・私はそんな『愛』なんて欲しくない。いらない」
彼の言う『愛』は、良佳に『恐怖』と『不安』を与え・・・ただ『傷』を遺しただけ。
それが「愛」ならば、「愛」と呼ぶのならいらない。良佳はそう思った。
彼がした事は、ただの「暴力」でしかないのだ。
「なっ!?・・・この」
図星を差され、仁先生の顔色が変わる。良佳は身の危険を感じてすぐに立ち上がろうとするが、その手は一足早く仁先生に捉えられてしまった。
「やだっ」
「お前に何が分かる!」
先生は良佳の言葉に逆上して、力任せに良佳を引き寄せる。椅子を倒し、テーブルに置かれた道具も転げ落ち、金属の音が辺りに響いた。
「放して下さい!」
「・・・つ」
体にある全ての力を使って良佳は抵抗する。バタバタと手足を動かし、時折爪が彼の頬に赤い線を刻むが、今はそれにも構っていられなかった。なりふり構わず抵抗しても、男の力には敵わない。
「うっ・・」
短く声を漏らし、良佳は壁際へと追い詰められた。その時だった。
「高良先生、何事ですか?!」
勢いよく保健室の扉が開き、騒ぎを聞きつけ他の教師達が駆けつける。時が止まったような気がした。
二人は動けずに、もみ合いになったまま壁際で荒い息を繰り返す。
その異様な光景に、その場に足を踏み入れた教師たちはただ茫然と立ち尽くした。
「なっ・・・貴方達、何をしてるんですか!!」
生徒指導の女性教師が悲鳴まがいに声を荒げ、二人は別々に離される。良佳は安堵し、仁先生はただばつが悪そうに俯く。そのまま良佳は生徒指導室に連れていかれ、後には仁先生と散らかった道具だけが残り、包帯には一筋の「赤」が滲んでいた・・・。
え~・・・なかなか出会うきっかけまで進みません(-_-;)
とりあえず段々「良佳」という人物が掴めてきたかと・・・(遅)
次回は良佳が深澄にメールを送る予定です(^_^)