深澄━切なさ…━
彼女の涙が零れて、その雫が深澄の心に波紋を作って行く。
あの日から意識している訳でもないのに彼女は勝手に夢の中に出てきて、その度に深澄の胸を締め付ける。“切ない”とはこういうことだろうか…。
「おーい、崎本っ」
「……?」
名前を呼ばれて不意に振り返る。
そこに居るのは毎度の事ながら彼――流石――だ。
今は丁度学期末の試験中。学校事態は半日で終わるし、特段残る理由もなければ生徒諸君の足は自然と帰路へと向いて行く。深澄も例外ではなく、人の波に乗る様に校門へ向けて歩きだそうとしていた。
流石は髪の毛を染めたのか、以前よりも明るくなった茶色の髪を今時にきめて、耳にはシルバーリングのピアスが揺れている。深澄とは違うタイプだが、彼も勉強は出来る方だと思うし男女ともに友達も多い。もっともこの進学校の中で深澄に気兼ねなく話かけてくるのも彼ぐらいなものだろう。
優等生で人辺りは良いが、どこか本心を見せない“崎本深澄”には親友と呼べるような友達はいない。それを寂しいと感じたことはないし、競い合う進学校の中で慣れ合う様なその行為は時間の無駄だと思っていた。
「今帰り?」
「…そうだよ」
当たり前の事を聞く流石に些か眉を顰める。
制服の上にコートを羽織り、カバンを持っている姿を見れば嫌でも今から帰る事が分かるだろうに…。
深澄の訝しげな表情に気がついて流石が軽く頭を掻く。困ったように愛想笑いを浮かべて地面を見つめると「あ~…」と短く呻る。なんとも煮え切らない男の態度に深澄は溜息を落とした。
「どうしたの?」
「…そんな顔するなよ。美人が台無しだろ」
冗談交じりに言う言葉に神経を逆なでされる。
出来る事ならば今は一人でいたかった。一人で自分自身や彼女について考えたかった。
どうせ答えが出ないと分かっているのに考える必要があるのかどうかなんて聞かないで欲しい。こんな気持ちになるのは初めてで勉強も手につかない。だからきちんと自分自身に向き合ってみたかった。
どうしたいのか。どうすればいいのか。自分の将来を見つけたかった。
何も言わない深澄に耐え兼ねたのか流石が口唇を開く。それは予想外の言葉だった。
「ちょっと付き合えよ」
「…?」
「たまには――いいだろ?」
街並みを流石に連れられるままに歩く。
男二人で連れだって歩くなど、どうにも可笑しい気がして人の視線が気になる。どこか刺さる様な訝しさと好奇を宿した瞳が痛い。
だらりとした緩やかな足取りで歩く流石は、自分から誘っておいて用件を明かそうともしないし、澄ました横顔が癪に障る。幾分か腹は立つがソレを表情にも出さずに深澄は同じような歩みで横を歩いた。
「あのさ」
「…?」
渋る流石にイライラが募る。
ただでさえ余り気分の良くない試験終わりの昼下がりに、無駄な時間を使いたくない。それは彼も同じだろうに…。
不意に時計に視線を落とし無言で彼の言葉を催促する。どれだけ鈍くても目の前で時間を確認されれば普通は気が付くはずだ。
「あっ、わりぃ。あんまり時間取らせたら悪いよな…」
「いや」
「……」
「…どうした?」
例に漏れず深澄の様子に気が付き流石は少し慌てたように頭を下げる。口先では否定の言葉を述べるも、内心は溜息をつきたい気持ちでいっぱいだ。
続きを促すように声をかければ、彼は小さな声で予想だにしないことを呟いた。
「お前さ……好きな奴、いるの?」
「――っ??」
その一言は深澄の平静を崩すには十分で、彼の言葉に瞠目して黙る。普段の深澄ならば「何をくだらない」と一蹴してしまえるだろう事柄にも、すぐに否定の意は浮かんでこなくて思わず立ち尽くす。
そんな深澄の様子に驚いたのは流石だけじゃない。深澄自身も驚愕させられていた。
一瞬の沈黙の後、流石が困ったように笑う。慎重に言葉を選んでいるのだろう事が窺えて、深澄は自分の行動を恨んだ。
「あ~…あのさ、ごめん」
「…何が?」
「急にこんなこと聞けば、誰だって驚くよな」
「……」
返す答えを持たずに深澄は無表情で流石を見つめる。どう反応すればいいのかも分からずに視線を落とすと自分の影が嘲笑っているように見えた。
――そうさ、どうせ俺は愚か者だよ。
他人に干渉されたくないから“優等生”なんてものを演じ続けてきた癖に、肝心な時にその仮面をつける事が出来ない愚か者。だって仕方ないじゃないか。彼女がいつの間にか勝手に頭の中に浮かんでは深澄の心を掻き乱していく。苛々するし、どうしてだろう胸が痛い。こんな感覚知らない。初めてのことだらけで答えの出ない方程式を延々と突きつけられている気分だ。脅迫にも近い気がする。
――なのに、それを“嫌”だとは思わないんだ。
苦い感情に自嘲の笑みが浮かぶ。
俯いたままのその表情を見る者はいない。だが、その笑みは今までで一番人間らしくて、一番穏やかだった。不意に流石が溜息を吐いて“あ~”と呻きにも似た声を出す。何事かと思い顔を上げれば、徐に自分の顔を覆って落胆する男の姿が目に映った。
「…流石?」
「いや、ホント変な事聞いて悪い」
「……?」
「うん。もう、充分分かったからっ!」
「…何が」
「お前の態度見りゃ一目瞭然だよな。ホント」
自己完結で終わらせようとする流石に深澄は眉を顰める。
質問の意図も分からずに溜息を吐きたいのはこちらの方だ。冷静さを取り戻して浮かび上がる怒りに身を任せ、深澄は一歩彼へと近づく。その顔に浮かぶ笑顔は何とも黒くて、裏に秘められた憤りを感じずにはいられない。低い声で彼の名前を呼べば、振り向いた流石の背に冷たいモノが通った。
渇いた笑い声と断末魔が響くのはほぼ同時だったという――。