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良佳━幸せになることが怖かった━


 幸せになることが怖かった。

 幸せになりたくないんじゃない。

 でも、幸せが長く続いた事がなかったから“幸せ”のその先に哀しい事(・・・・)が待ち受けている事を知っていたから、自分の幸せを望むことなんて出来なった。

 誰かを求めたり、誰かに求められたりすることに罪悪感を抱く自分がいる。誰もが抱いて当たり前の感情に目を向けられない。

そんな後ろ向きな自分の事も好きにはなれなくて、女であることも嫌だった。


――どうして、想いが叶ったのに…こんなに怖いの?


 抱きしめられる温もりや、鼓動の早さに胸が高鳴らない訳がない。

 こんなにも愛しくて、こんなにも涙が零れそうなのに。この感情を上手く伝えられる術が見つからない。どうしたらキミに想いは届くのだろう…。


「――ごめん」

「――?」

「ごめんっ、深澄」


 冷静になろうとすればするほど、空回りする自分の言葉や行動が虚しく宙を舞う。キミを傷つけるつもりなんてないのに、キミに伝えるべき言葉はこの心の中に溢れているのに、どうして――私はソレを言う事が出来ないのだろう。

 どうしようもなく自分が自分の思う通りにならなくて、苛立ちと涙がこみ上げる。

 そんな姿を見られたくなくて、良佳はまた深澄から目を逸らして俯いた。


「どうして、謝るの?」

 

 不意に頭上に降りる声はどうしてこんなにも優しいのだろう。

 張り詰めていた感情がゆっくりと、その糸を解していく。どんなに自分を否定したって、どんなに自分を隠そうとしたって、結局――彼の声に応えてしまう。


――ずるいよ。そんな風に優しく問いかけられたら…。


「良佳――」

「…だって」

「……?」

「怖いと思うから」


 彼の声に逆らえる筈がない。

 あんなに言葉に出来ないと思っていた気持ちが、自然に口唇から零れ落ちる。それでも顔を上げる事は出来なくて、俯いたまま彼の言葉を待った。


「何が怖い(・・)の?」

「…」


 言葉と同時に彼の手がそっと肩に触れる。それだけで心が震える。

 全てをさらけ出してしまいたい自分と、それでも恰好をつけようとする自分がお互いを否定し合う。もっと楽に生きられればいいのに。そう思うのに、その器用さがない。どうして人は自分を隠そうとするのだろうか。真っ直ぐに生きられないのだろうか…。


――こんなにも言葉は溢れているのに、それでも伝えられない思いがある…。


 きっと伝えてしまえば単純で、“なんだ、そんなこと”と思えてしまうような事柄たちが良佳にとっては大きな壁であり、越えられないものに思えた。

 不意に口唇を開く音がして、深澄が囁くように言葉を音に乗せる。


「良佳? 思いを言の葉に乗せて?」

「――っ」

「そんな風に自分を閉じ込めなくていいんだ。キミが自分を好きになれない(・・・・)のなら、僕が――その分キミ(・・)を好きになるから」


 彼の言葉に息を飲む――。

 そんなことを言われたのは、生まれて初めてだった。

 耳が熱くて、鼓動が煩い。驚き思わず顔を上げれば、そこには同じように顔を赤らめた深澄の顔があった。眼と眼が合って、良佳は曖昧に微笑む。嬉しさと気恥ずかしさに目を逸らしてしまいたかったが、深澄の表情に、その表情の意味に気がつけば、胸に浮かんでくるのは何とも言えない“愛おしさ”だけだった。

 じんわりと胸が温かい。

 代わりに逸らされた深澄の綺麗な瞳が好きだ。その性格を表したような真っ直ぐな黒い髪に、どこか不釣り合いな紅いピアスが“崎本 深澄”という人物を暗に象徴しているようで、同じように紅く染まっていく頬や耳、首筋が愛しかった。だから。


「深澄」

「……」

「ありがとう」

「…何が怖い(・・)の?」


 良佳の声に応えてくれる深澄。

 いつだって手を引いて、背中を押して、明るい場所へと連れて行こうとしてくれる彼の優しさを信じようと思った。

 顔を上げずに自分の指先を眺めていた彼の視界に入るように、良佳は自分から彼に手を伸ばす。その指が少しだけ震えている事に彼は気付いてくれるだろうか。


幸せ(・・)が―――続く事がないと知っている想い(・・)が、無くなってしまうことが怖かった」

「――?」

「永遠に続くものなんてない。約束も、誓いも決して永遠じゃないから。いつか消えてしまうのなら最初(・・)から無い方が、傷付かなくて済むと思った」

「どうしてそう思うの?」


 深澄の言葉に良佳の表情が曇る。

 過去を思い出せば、それだけで良佳の心に影が差した。


「貴方には、きっと分からないよ。幸せが続いた事なんて、今まで一度もなかった…」


 別に突き放したい訳じゃない。

 同情して欲しい訳でも、“辛かったね”と優しい言葉をかけて欲しい訳でもない。

 ただ、深澄には知っていて欲しかった。世の中には幸せな人よりも、そうでない(・・・・・)人の方が多く、そこにはなんの秩序も順番も存在しないことを。

 いつか(・・・)幸せになれるはず――そう信じるには良佳の過去は余りにも哀しい事が多すぎた。

 誰かを恨むつもりも、羨むつもりもないけれど…。


「努力をしようとは思わない?」

「…だって、努力しても叶わない事がある」

「する前から諦めるの?」

「諦める事の方が賢明だと知ったから」


 どこか棘を含んだ深澄の声音に、確かに縮んだと思えた距離が開いて行くのを感じる。それでも、止めようがないと思った。

 違う境遇で生きてきた彼に、いきなり良佳の想いを理解することなんて出来ない。そんなこと彼女にも分かっていた。でも…。


「そうやって自分自身も蔑にしてきたんだろ…何もかも、最初から諦めて努力もしないで」


 彼の言葉が胸に突き刺さる。

 飾りも躊躇いもない真っ直ぐな言葉たちが耳に痛かった。


「貴方には分から」

「分からないよ! 分かる訳ないじゃないか」

「……」

「キミだって、僕の事を分からないだろう? そんなの、言葉にしなきゃ分かるはずがないんだ…」


 もどかしさと、悔し涙が知らず良佳の頬を伝う。

 本当は気付いて欲しかった。

不安を、悲しみを、辛さを、この言葉に出来ない想いたちを誰かに知って欲しかった。

一人じゃないのだと、ただ誰かに傍に居て欲しかった。

良佳に“幸せ”の本当の意味を、容を、諭して、言い聞かせて欲しかった。

 溢れだした感情が涙となり、止めどなく頬を濡らす。知らない自分自身が“たすけて…”と叫ぶ声が聞こえる。

 涙を拭いていた手に、温かい指先が触れてその頬を深澄の少し大きな掌が包み込んだ。


「良佳――幸せになる努力(・・)をして?」

「…でも」

「キミにしか、七瀬 良佳を幸せにする事は出来ないんだよ」


 こつんと当てられた額に深澄の長い睫毛が映る。

 まるで自分の事のように眉根を寄せ、瞳を伏せる彼の辛そうな表情に良佳の心は震えていた――。


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