マリアと天使様
「ああああああ!」
杏は叫んだ。叫んで。叫んで。叫んで――それでも、マリアは返ってこない。ついさっきまでは、この腕で抱いていたのに。体温を感じていたのに。口づけて、鼓動を聞いて、互いの夢は重なりあって――
考えろ。
マリアはどうして消えた?
口づけを交わしたから?
だったら彼女は今、どこに居る?
教会の説教台の上に、絵本が置いてある。タイトルは――『マリアと天使様』
杏は絵本を開き、月明かりのもとでページを捲った。
『マリアは牢の中で、天使様に会いたいと強く願いました』
『マリアは、天使様と一緒に居る夢を見ました。天使様とマリアは、天国を見てまわります。天国は明るい光で満ちあふれ、心地よい音楽が響き、美味しい食べ物も水もお湯もふんだんにある、素晴らしいところでした』
『マリアは夢から覚めました。天使様は、もう居ません。明日は処刑の日。けれどマリアは、怖くはありません。なぜならマリアは天国へ昇って、必ず天使様と再会できるのですから』
『マリアの髪には、天使様から貰った飾りがついていました』
「飾り……」
杏は呟く。
マリアにプレゼントした、バレッタ。
絵本の内容は、真実か否か。
「いや。そんなこと、関係ない」
本のストーリーは、このあと、処刑されようとするマリアを天より降りてきた天使が救う場面へと続く。
「嘘であっても、〝本当にあったこと〟にしてしまえば良い」
(だって、私は〝マリアの天使様〟なんだから)
明日はクリスマス。奇跡が起きた日。
♢
次の日の早朝。杏は一睡もせずに、再び教会を訪れた。アパートへ一旦戻り、自室の中を引っ掻きまわした。幸い、目当ての物をすぐに見付けることが出来たため、時間を無駄にせずに済んだ。
教会はまだ無人だが、今日は午前中にクリスマスのミサがある。まもなく、人がやってくるだろう。急がなくては。
杏はステンドグラスのマリア像のもとへ向かい、跪いた。
マリアは現代から消えて、おそらく江戸時代へと戻っている。そうなった原因は、自分との口づけに違いない。
口づけによって、強制的にタイムスリップの奇跡が解けてしまったのだ。
そもそもマリアはどうして現代へ――杏のところへ、やって来たのだ?
(マリアは言っていた。『天使様に会いたい』と一途に祈った――と)
そうして、マリアは現代に来て、杏に――天使に会った。
だったら。
(会いたい。会いたい。会いたい。聖母に会いたい!)
目をつむり、両手を固く結んで、杏は熱心に祈った。自分はキリシタンでも無いくせに――
(私は馬鹿で、不良で、自分勝手だ)
それは、分かっている。
けれど祈る。望む。求める。
(お願いします。マリア様――私の全てを捧げても良いから、〝聖母〟に会わせて!)
世界が暗転した。
同時に、落下する。しかし予測済みの杏は、難なく着地してみせる。
明るい。今は昼間か。そして耳へと届く、大勢の人のざわめき。
(ここは、刑場――)
杏は、竹矢来の内側に立っていた。囲いの外には、処刑を見守る群衆が。
囲いの内側。その中心。
杏の視線の先に、誰よりも大切な人が居る。
「マリア!」
杏は叫んだ。その声を聞き、項垂れていたマリアが顔を上げる。
マリアは磔になっていた。十字架上にその身はあり、胴や腕、脚を縄で柱へ縛り付けられている。服装は杏が着せてやったもの、髪には杏がつけてあげたバレッタが――
杏は素早く周囲を見回す。
場の様相。人々の顔立ち。衣装。振る舞い。風の匂いも空の質感も。
明らかに、杏が生きている時代とは違う。TVや映画で観たことがある光景。
(──江戸時代?)
考えている暇は無い。
マリアの両側には、二人の足軽がそれぞれ槍を構えている。まさに、刑が執行される直前の状況だ。
しかし。
(間に合った!)
マリアを救わなくては。
杏は走り出した。
「な、なんだ、お前は!」
「曲者め!」
監督役らしい侍は床几に腰かけたまま黙して動かなかったが、二人の足軽は大声を上げ、杏へ槍の穂先を向けてきた。
(こいつら、この槍でマリアを殺そうとしたんだ)
杏の心中に怒りの念が吹き上げる。
「ダメです! 天使様。来てはいけません!」
マリアの悲鳴。健気なその声に、杏の胸は熱くなる。
(大丈夫だよ、マリア)
だって、私は天使なんだから。
そう。
処刑直前のマリアのもとへ降り立った天使は――
『大きな音を鳴り響かせ』――防犯ブザーから発せられる大音量に、その場の人々は驚愕し、大混乱に陥った。
『不思議な力で役人どもを打ち倒し』――二人の足軽に近寄るや、杏は有無を言わせずスタンガンを彼らの首に押し付け、発動させた。
『マリアを救って天国へと連れていった』――杏は、マリアが縛り付けられている十字架へ体当たりをする。簡素に作られた磔柱の土台は、案に違わず脆かった。
十字架が倒れる。
杏は覆い被さるように、マリアを抱え込んだ。縄を解いている余裕は無い。
「天使様」
「マリア。お願い、私を信じて」
「は、はい。信じます――信じております!」
杏はマリアを柱ごと強く抱きしめながら、口づけた。二人の少女の唇が合わさる。
その瞬間、杏とマリアの姿が消えた。
後には、横倒しになった十字架と緩んだ縄、それを呆然と眺める人々だけが残された。
「奇跡だ」
「天使様がマリアを救った」
「良かった、良かった」
「天帝様の、お恵みだ」
「マリアと天使様はどこへ?」
「決まっている。天国だ――」
役人どもへは聞こえぬように小声で、一連の成り行きを見届けた群衆は言い交わした。
♢
時は現代。
杏が生まれ育った町の教会。
クリスマスミサの最中に何の前触れも無く、二人の少女がいきなり出現し、人々は大騒ぎになった。
♢
数ヶ月後。
正体不明の少女の扱いに人々は困惑しつつも、杏たちの力になってくれた。とりわけ身元引受人になってくれるなど、神父の手厚い助けが無かったら、杏とマリアは離れ離れになっていたに違いない。
杏が考えているほど、世間は冷酷でも不親切でも無かった。世界には、優しさも温もりも、ちゃんとある――杏はマリアに出会い、そのことを知った。
今、杏とマリアは、あのアパートで一緒に暮らしている。
解決しなければならない問題は、まだまだ山積みだ。
今より先も、たくさんの困難が待ち受けているだろう。
でも、大丈夫。
きっと、大丈夫。
これからは、二人で生きていくんだから。
杏もマリアも、もう一人きりじゃ無いのだから。
杏が住んでいる町の教会では、クリスマスミサを二十四日の晩と二十五日の午前中、計二回、行っています。
次回、最終話です。