伝説の少女
結局。
杏は、少女をアパートの自分の部屋へ運び入れてしまった。正体不明の少女は、驚くほど軽かった。杏が誰の助けも借りずに、一人で背負えてしまうほどに。
(この子、ガリガリに痩せている――)
杏は部屋を暖かくし、少女を布団で寝かせた。自分が持っている物なんか、全て安物だ。いくら汚れたって構わない。
病人の熱をなんとか冷まそうと杏がアタフタしていると、うっすらと少女が目を見開いた。
「天使様?」
そう一言、口にしただけで、少女は再びウトウトと眠りに入る。
(私のことを、アンジョ――天使だなんて)
どんな勘違いをしているのやら?
杏は口角を上げた。それは苦笑いではあったが、紛れもなく、久方ぶりに杏が浮かべた笑みであった。
杏は、ひたむきに看病した。
温かいタオルで身体を拭いてやり。
お粥を作って、食べさせて。
薬も飲ませた。
2日ほど経ち、少女の熱は下がった。
杏は少女へお風呂を使うように言ったが、彼女はどうしたら良いのか分からないらしく、まごついている。なので杏は、一緒にお風呂へ入った。二人とも、当然ながら裸だ。シャワーから湧き出るお湯に少女はビックリし、目を丸くしている。
少女の身体を洗ってやる。痩せてはいるものの、胸はそれなりにある。年齢は十五、六歳だろうか?
お風呂から上がる。杏は少女へ、自分の服を着せてやった。杏のほうが背が高いため、ぶかぶかだ。大きめの服の中にチンマリと身体が入っている少女の様子は、汚れが落ちて身ぎれいになったこともあり、何とも言えず可愛いく見える。
「貴方の名前は?」
「わたしの名はマリアと申します。天使様」
少女の――マリアの返答に杏は衝撃を受けつつ、心のどこかで納得もしていた。
マリアは、訥々と語った。
司祭様は青い瞳のお方で、彼の教えに従い、村の皆が切支丹になったこと。
自分は孤児で、司祭様に育てられたこと。
〝マリア〟という名も、司祭様が付けてくれたこと。
司祭様が流行病で亡くなられたこと。
御領主様が切支丹の教えを禁じたこと。
村の皆はやむを得ず信仰を捨てたが、自分は――
「司祭様が、お亡くなりになる前に仰ったのです。『マリア。辛いこともあるでしょうが、負けてはいけませんよ。天使様は、いつも貴方を見守っておられます』と」
「…………」
「『天使様に、お会いしたい』――わたしは牢の中で、一生懸命にお祈りしました。そしたら、本当にお目にかかれるなんて……」
マリアが嬉しそうに、微笑む。
杏の表情は動かない。しかし、心の中は大荒れだ。
やはりマリアは江戸時代に生きていた、あの伝説の少女なのだ。
タイムスリップ――
そんなことが、現実にあり得るのだろうか?
でも取りあえずは、マリアの間違いを正さなくてはならない。
「マリア。私は天使では無いよ」
「え?」
マリアは戸惑いつつも、諦めきれないように訊いてきた。
「そ、それでは、あなた様のお名前は――」
「私の名は〝杏〟」
「杏――やっぱり〝天使様〟です!」
マリアの瞳がキラキラと光る。マリアは容姿は可憐だが、役人どもの責めにも信仰を曲げなかったことから分かるように――
(頑固な性格らしい。誤解を解くのは、ひとまず棚上げにしよう)
杏はそう考えた。
少女マリアはキリスト教関連の言葉について、ポルトガル語をもとに、日本式の発音をしています。
・天使――アンジョ
・司祭――パードレ
・天国――パライゾ
・神――天帝(デウス)
・キリスト教徒――切支丹(キリシタン)
・クリスマス――降誕祭(ナタラ)
などとなり、教会と関わりながら育った杏も、これらの単語の知識を多少は持っています。
 




