中
オウシュウトウヒが群生するこの森は晴れた日でも視界が悪い。
直立不動に伸びた高木の針葉樹が闊歩する世界では、他の植物は存分に羽を伸ばせない。
僅かな樹間さえ与えず、陽光の殆どを独占しているために地上部へと到達する事は無きに等しい。
少尉は消えない腕の違和感を紛らわすため、背中を木に預けて空を仰いだ。
思わずため息が漏れ、堪えていた痛みと足元から上へと。
後ろからの足音が止まった事で、ミヒャルトも立ち止まり息を整える。
戦車兵は日頃から徒歩行軍の機会は少なく、歩兵達とは違い体力にある程度の差が生じる。
二人も例外に漏れることなく、森に入って2時間が経とうとしていた。
小銃とリュックのみで軽装といえばそうなのだが、泥濘のある地面を進む事は容易ではない。
腕を怪我しているとはいえ、少なからず移動に影響がでている。
想定していたものよりもあまり進んではおらず、夜の帳が降りる前に早めの野営準備に取り掛からなければならない。
しかし道具は何一つとして持ち合わせがなく、布さえ持っていない。
最悪、地面を掘って落ちている植物や枝木で簡易シェルターを作るしかない。
この靴のように上手く作ってくれそうだが、と前方に隈なく注意を向ける部下を見つめた。
先頭を行くミヒャルトは3つ年下で2号車に配属されて8ヶ月目となる。
士官学校の出ではなく、農村のライ麦農家の次男坊であると教えてくれた。
どの村でも後を継ぐのは長男だと決まっているようで、ミヒャルト以外にも似たような境遇の者に何度かあったことがある。そして皆決まって若い。
口減らしのため成人になるやいなや家を追い出された彼らは、戦争という事業に魅了される。
食いっぱぐれが無いことを良い事に知らずに地獄の門を叩き、人間性を捧げて兵士となる。
少尉のように軍人の家系ならばいざしらず、背景の境遇を思えば同情せざるを得ない。
仮に戦争が明日にでも終われば、彼らはどうするのだろうか。
「少尉、少尉」
上の空であった少尉を短く間隔でミヒャルトが呼ぶ。
見ればいつの間にか姿勢を低くし、剥げそうな木の皮を掴みつつ頭を微動だにせずとある箇所を見つめている。
「ん?どうした」
少尉も同じく腰を落としてすぐ隣に付く。
「あそこ、見えますか」
周囲を警戒しながらミヒャルトがある一点を指さす。
指先を目線で辿った先に小さな明かりが灯る場所がある。
何処までも深く暗い森の中に見えるそれは、ある種の希望であった。
「不用心だな……」
少尉は帽子を被り直し、怪訝な顔つきで小さく呟いた。
「どうしましょう?」
「敵か味方か分からない以上、確かめる必要がある。このままの姿勢で木陰を伝いながら近づくぞ」
敵がまだこちらに気づいていない事を祈りながら、二人は木陰を絶やす事なく慎重に近づく。
移動の際には服が木々を擦らないよう気をつけ、水溜りを踏んで飛沫音をたてないよう足元には注意を払う。
明かりが近づく中、ミヒャルトは枝で羽を休める三色の鳥と目があった。
カケスの一種と見られる野鳥は、人間が気になるのか目線を外そうとはしない。
見据えた目は森に対する侵入者への警告か、それとも単なる興味か。
ミヒャルトは数本移動した後、未だ飛び立たないカケスに違和感を覚え、今しがた身を寄せた場所で足を止めた。
急な行動に一歩踏み出そうとしていた少尉も別の木陰に隠れ、ゆっくりと顔を覗かせる。
「どうした、ミヒャルト。敵か?」
できる限り音を抑えた霞みがかった声で呼ぶ
「いえ、ペーター少尉。これは私の勘なのですが申してもいいでしょうか」
目線を一度カケスから外し、後ろの少尉に振り返りながら言った。
「許可する」
「ありがとうございます。恐らくですが、敵はいません。それどころか味方すらいないかもしれません」
「どういう事だ」
「鳥です」
人差し指で明かりのすぐ手前で休むカケスを示した。
「意味がわからんぞ」
「あの鳥、先程から私達の事をずっと見ているのです」
「仲間だと思っているのか?」
少尉は冗談めいた言葉を半笑いで言うが、ミヒャルトは真摯であった。
「鳥が視線を外さない理由、それは鳥が見えている範囲に私達以外に動物がいないという事です」
「なぜわかる」
「鳥は人間ぐらい大きな動物が自分の警戒するエリアに入ってきたならば、注意を払います。現にあの鳥は私達を監視しており、激しく大きな動きをすればすぐに飛び立つでしょう。明かりはあの鳥から数十メートルしか離れていません。もし、あそこに人がいるのならば必ずそちら側にも監視の目を向けるはずです。動いているならば尚更でしょう」
少尉は長考える時の癖で右上を見つめ、数度瞬きした後にゆっくり頷いた。
「確かにそうかもしれん。だが万が一があるぞ、気を抜くな」
「了解です」
時間のかかる移動であったが、ようやく明かりの全貌が見える所までやってきた。
ミヒャルトの言った通りで、そこには人影はなく明かりの正体は野営の残り火であった。
遠くからみていた時は大きく見えていても近くで見れば矮小な存在である。
長椅子代わりに使っていたのだろう不揃いの倒木が数本、焚き火を囲う形で置かれており、火元のすぐ近くでは英語で書かれた缶詰が幾つか転がっていた。
そのうちの一つを持ち上げ、ブリキ缶に貼られたラベルの女性の絵を見る。
中身を覗くとまだ半分以上も残っており、豆と肉のシチューの香りが鼻腔をくすぐった。
「あまり迂闊に触るな」
少尉の鋭い一言に我に返る。
罠の可能性が頭から抜け落ちており慌てて元の場所に戻そうとすると、別の缶に何かが下敷きにされていた。
ミヒャルトにはそれが何かすぐ分かり、握り拾い上げる。
ニッケル合金製の薄い楕円板には階級や認識番号、そして名前等を現す文字が打たれていた。
少尉がそれに気づくと、奪い取り凄い勢いで10人分の認識票を確認する。
「うちの部隊の者はなかったが……くそっ。連合軍め」
少尉が八つ当たりを込めて小さくまだ燃える焚き火を蹴り飛ばすと、灰と火の粉が舞った。
「敵はどこへ行ったのでしょうか」
「……やつらは恐らく偵察だったのだろう。野営の規模から見て5人程度だ。目的は私達ではなかったとみ
る。ただ、ここまで手を伸ばしてきているのは想定外だ。敵の動きは相当早い」
「再びここへ戻ってくるでしょうか」
「ああ。だが来たとしても別部隊の者だろう。その時は私達のことかもしれない」
ミヒャルトは生唾を飲み込み、震え上がった。