ループ&アドバンス
僕は曾祖父の家の書斎が好きだった。そこは四角い小さな箱のような部屋。南には小さな窓と安楽椅子が一つずつ。その他三方の壁は本棚で覆われ、大小様々な小説が地味な書斎を鮮やかに彩っていた。
僕が幼い頃、曾祖父は安楽椅子に座りながら、何百、何千、という数の小説を僕に話してくれた。竜と少年が友達になる話、人の心を感じることのできる男の話、何度もすれちがったけど最後は結ばれた一組の男女の話。今でもその全てを思い起こせる。感動や興奮、悲しみも一緒に。
僕はいつの間にか、曾祖父の書斎にある小説を片端から読み始めていた。難しい漢字や、意味のわからない言葉は祖父母や両親に聞いた。僕が何度も聞きにくるため、両親が最新型の電子辞書を買ってくれたくらいだ。
ページをめくる音。微かに日焼けした本の薫り。思わずため息をつくような物語。小説は僕を魅了して離さなかった。
そのうち、曾祖父は体調を崩して入院した。医者は、曾祖父の先は長くないと診断した。僕の祖父母や両親はよく病院へ見舞いに行ったが、僕は行かなかった。
なぜかその時、この書斎にある全ての小説を読めば曾祖父は元気になる、と思ったのだ。だから僕は何かに取り憑かれたかのように、一心不乱に小説を読み漁った。小説を全て読み終えるまで、見舞いには行けない。曾祖父の寿命が尽きるのが先か、僕が小説を読み終えるのが先か。まさに命を賭けて僕は小説を読みふけた。
果たして僕は曾祖父の見舞いに行くことができた。病室に入ると、曾祖父はベッドに腰掛けていた。曾祖父の身体は以前より細くなっていた。彼の身体は、この無駄に広い病室の中にいると貧弱に感じられる。やはり曾祖父には書斎が似合う。
「ひいおじいちゃん!」
僕が声をかけると、曾祖父はゆっくりとこちらへ顔を向けた。顔に刻まれた皺が、さらに深くなる。口先を上げ、目を優しげに細める。それは僕が見慣れた、曾祖父独特の笑顔だった。
「小説は面白かったかね?」
「うん!」
それから僕は、今まで読んだ小説について延々と語った。何百、何千もの物語は、一つも色褪せることなく、僕の内側から湧き上がるように出てきた。僕は話しながら腕を大きく振ったり、大笑いしたり、泣いたりもした。
曾祖父は笑顔で頷き、適度に合いの手も入れながら、しかし僕が話すことを一度も遮らなかった。
そしていつの間にか僕は寝ていた。きっと話し疲れたのだろう。起きた時には曾祖父のベッドに上半身を預け、背中には毛布が一枚乗っていた。
曾祖父も穏やかな顔をして寝ていた。僕が「おやすみ」というと、曾祖父は「あぁ、おやすみ」と微笑んだ。
それが曾祖父の最期の言葉だった。
「……ベタすぎる。三十点だな。お前の説明の仕方も下手くそだから、さらに減点十点。よって得点は二十点だ」
「人の思い出を勝手に点数化しないでください」
僕はこの本屋の上司である西岡さんを睨みつけた。西岡さんは僕の文句なぞどこ吹く風で、レジの傍らに雑然と積み上げられている小説の中から無造作に一冊選び、読み始めた。人に本屋に就職希望した理由を聞き出しながら、なんということだ。
本屋は本で覆われていた。店の規模が象一頭入るか否かという小さなことも相俟ってか、覆われ具合が半端じゃない。この本屋は鉄筋やコンクリートではなく、本で出来ているのではないかと錯覚してしまうほどだ。
壁は一分の隙間もなく本で埋め尽くされている。天井からも本が紐で吊るされており、床は爪先立ちでないと歩けないくらい本で溢れかえっている。本、本、本。その惨状は本の海と呼べるが、ゴミ屋敷と形容しても差し支えはなかった。勤め先がゴミ屋敷……笑えない。
もちろん、お客さんはここには存在しない。ここ数ヶ月、見たことすらない。
「てかよぉ、木坂」西岡さんは気だるそうに僕の名前を呼んだ。「お前の話聞いてて思ったんだが、お前の曾じいさんってお前が殺したようなもんだろ」
「えっ?」
素っ頓狂な声を出した僕を無視し、西岡さんは話し始めた。頗る面倒くさそうに。
「お前が書斎の小説全部読み切ってから、曾じいさんは死んだんだろ。じゃあ、もしそのままずっと読まないでおいたら、曾じいさんは死ななかったかもしれないじゃねぇか」
「たまたまでしょう。それに、遠からず曾祖父は亡くなっていました」
「ひょっとしたら、お前は曾じいさんの死期を早めたのかもしれねぇぞ。……ま、今となっちゃどうでもいっか」
と、小説の続きを読み始める西岡さん。本当にどうでもよさそうな表情だった。今までお前と会話していたのは俺のもう一つの人格でした、だから主人格である俺には関係ありません、とかこの人なら平気で言いそうだ。
「しっかし、お前も物好きだよなぁ」
西岡さんは小説から目を離さずに、ぶっきらぼうに言った。なんだ、今度は第三の人格か。
「今のご時世、本屋に就職なんてしても何もないぜ。本は電子媒体が常識。端末から本のデータを買って、インストール。はいお終い、だ。わざわざ本屋に寄って、重くて嵩張る紙媒体の本を買うやつなんていないだろ」
「それはそうですが……」
「うちの在庫、今年出版の本がないんだぜ。この意味わかるか? 版元も紙媒体で出版するのを完全に停止したんだよ。電子出版のみだ。だから、もう在庫は増えることはねぇ。売れないから、同時に減りもしねぇ。もうそろそろ、うちも終わりかな」
「…………」
言葉が返せなかった。西岡さんの言っていることは全て真実だからだ。
出版社は紙媒体での出版をやめた。携帯型電子書籍端末、通称『ライブラリー』なるものが発売されたからだ。
『ライブラリー』は見た目、普通の文庫本の大きさである。しかし、そこには膨大な数の書籍データが記録できる。つまり何百、何千という作品を、一つの媒体に集約できるのだ。さらに重さは三百ページほどの文庫本とほぼ変わらない。
「最近こんな話も聞いたんだが……」どうやら西岡さんは僕に止めを刺す気らしい。本人は軽薄な表情を浮かべているが。
「俺の友人が小学校の先生やっててな、夏目漱石ってどんな奴かって教え子に聞いたんだってよ。そうしたら、『鉄腕アトム』描いた人でしょ、だと」
「言っちゃ悪いですけど、それは子供の方に問題があると思います」
初めて反論できた。だが、西岡さんは聞いちゃいない。
「他にも、千円札になったことがある人、とかだとさ。まぁ、これは当たってるけどな」
「……つまり、何が言いたいんです?」
ここで初めて、西岡さんは表情らしい表情を見せた。非常に苦々しそうだったが。
「近い将来、本自体がいらなくなるかもしれない、ってことだよ」
残念ながら、これは彼の本心のようだった。
「……僕らはいったいどうすればいいのでしょう」
「とりあえず、木坂、お前クビな。来月分の給料払えないから」
そう簡単に言うなよ。
「……話のテンポが悪いわ。二十点ね。あなたの文章も下手くそだから、さらに減点十点。よって得点は十点」
「人の小説を勝手に点数化しないでください」
僕はこの出版社の上司である宮出さんを睨みつけた。宮出さんはため息をつき、何を思ったのか僕の書いた原稿をびりびりに引きちぎった。ああ、僕の曾祖父との思い出が。未来の本屋の話が……。
唖然とする僕に、「ボツ」と宮出さんは傲然と言ってのけた。周りの同僚はそれが自然だといわんばかりに、無視を決め込んでいる。くそ、これじゃ孤軍奮闘もいいところだ。
「だいたいねぇ、木坂くん」宮出さんはいらいらとした口調で言った。
「なんでしょう?」
「なんでしょうじゃないでしょう! 私、あなたに『小説を書け』なんて言った覚えはないわ。『コラムを書け』って言ったの。『これからのメディアと文学』という題材で」
「でも僕は小説が書きたかったのです」
「うるさい! いつまで『小説家になる』なんて夢見てるのよ。本屋をクビになって、無職のあなたがうちの出版社に就職できたのは、誰のおかげだと思ってるの?」
「他ならぬ宮出様でございます」
わかっているのならよろしい、と宮出さんは得意げに頷いた。割と扱いやすい人だ。
……しかし、やりすぎた。コラムを書けといわれて小説を書いたこともそうだが、何よりその小説の内容が微妙すぎる。
携帯型電子書籍端末、通称『ライブラリー』というネーミングから始まり、夏目漱石がどんな奴か知らない小学生、本自体がいらなくなるということまで何もかも微妙だ。何より現実感が薄すぎるのだ。たとえ舞台が何十年、何百年先の未来であろうとも。
「木坂くん」
宮出さんの怒気を孕んだ声が、地面から湧き上がる様に聞こえた。恐る恐る振り返ると、そこには僕を怒鳴りつけるために深く息を吸い込んでいる鬼神(宮出さん)が立っていた。
「本屋でもそうやって小説のことばかり考えてたからクビになったんでしょうが! ここでも二の轍を踏む気? それに、なんで小説の主人公があなた自身なのよ。自意識過剰も甚だしいわ」
あれ。小説について考えていたこと、丸わかりだったか。せめて仕事をしているフリでもしとけばよかった。しかし、僕はここでプライドを賭けて反論を試みることにした。いつまでも宮出さんに怒られてばかりでは、いけない気がしたのだ。……魔が差したとも言うが。
「でも、自分を小説の主人公にしている作家ってけっこういますよ。例えば――」
「もういいわ! あなたはクビよ!」
そう怒鳴って言うなよ。
「……ひどい展開じゃのう。十点じゃ。主人公のキャラや小説の描写が一定していないことも考慮し、さらに減点十点。よって得点は零点じゃ」
「人の小説を勝手に点数化しないでください」
僕は病院のベッドで横たわっている曾祖父を睨んだ。曾祖父はそんな僕を無視し、携帯型電子書籍端末、通称『ライブラリー』の電源を切った。僕の小説が画面から消える。
「それにしても」と、曾祖父は笑った。「出版社の話――紙の原稿が使われているということは、舞台設定は何十年前かのぉ。過去に戻りたい、というお主の願望が表れているようじゃ」
「……ごもっとも」
「それに今時、作中作なんぞ流行らんよ。夢オチみたいで、つまらん」
「流行らないから、逆に狙ってみたんだけど」
どうやら、それは失敗だったようだ。
ふと曾祖父を見やると、彼のこめかみ付近から血管が浮き出ていた。表情は変わらず穏やかだが、どうやら内心では怒っているらしい。あれ、なんか悪いことしたか。
「……一つ突っ込みそこなったが」曾祖父はそこで深くため息をついた。「この小説の冒頭で、わし死んじゃったぞ」
「ええ。感動を演出するために死んでもらいました」
「阿呆か!」
唾液の入り混じった暴言が飛んできたので、僕は身をよじって避けた。が、遅れて飛んできた『ライブラリー』には反応できず、後頭部に軽い衝撃が走った。
「身内を小説に出して、しかも殺してどうする! わしはまだ生きとるのに……」
悲しそうな表情をする曾祖父。しかし、僕はその表情がそのまま曾祖父の感情であるとは考えなかった。
曾祖父はこういう人だ。自分の思っていることを表情に出さない、天邪鬼のような人間。しかし、それは病を患って入退院を繰り返すようになった以降の話。
その前――僕が幼い頃は、優しさの塊のような人だった。だから、この小説の冒頭から三、四段落目あたりまでは真実。ノンフィクションである。僕が真に曾祖父に読ませたかったのは、この冒頭数段落だけ。その数行を読んで、曾祖父が昔のような素直さを取り戻してくれたら、と思ったのだ。
小説を読み、曾祖父は僕の企みに気づいたに違いない。それでいて、まだ本当の表情を隠そうとしている。
「ところで曾孫よ」
「なんだい、曾祖父」
「お主はいつになったら、社会復帰するのかね」
……痛いところを突いてくるなぁ。
僕が黙っていると、曾祖父は一気に捲し立て始めた。
「お前さんは自分の人生経験を糧にこの小説を書いたのじゃろうが、これではわしに叱ってくれ、と言っているようなもんじゃよ。本屋をクビになり、出版社をクビになり、お主はいったいどうする気じゃ。もう三十過ぎじゃろ」
「……歳のことは言わないでくれ」
「わしの寿命は残りわずかじゃ。せめてわしが死ぬ前に、お主の――社会人としての立派な姿を見せとくれ」
曾祖父は俯きながら、肩を震わせている。
「ひいおじいさん――」
「人生をクビにならんようにな」
そう楽しそうに言うなよ。
「……これで前半部分終了っと。出来栄えは九十点くらいか。後半は怒涛の展開だから、最終的に得点は百点満点かな」
「いいかげん自叙伝は書けましたか、木坂さん」
この病院の看護師である桜田さんに睨まれ、僕は苦笑いを浮かべた。
「まだ前半部分だけだよ。ここから僕の人生は好転して――」
「はいはい。人が自分の過去を美化したがるのは普通ですよね。……ていうかこれ、自叙伝じゃなくてただの小説じゃないですか」
酷い、と桜田さんは僕の書いた自叙伝(彼女いわく「小説」)を見て呟いた。僕のいる前で堂々と。相手は老人だぞ。しかもベッドで寝たきりの。少しは容赦してくれ。
「もしかして木坂さん……年取りすぎて頭イカレちゃいました?」
「もうちょいオブラートに包んだ言い方をしてくれるとありがたいのだが」
僕の言葉を聞き、桜田さんは嗜虐的な笑みを浮かべた。背中に嫌な汗が流れる。寿命の残り少ない患者をなじって、そんなに楽しいのだろうか、この看護師は。
「頭がイカレて自叙伝と小説の区別がつかなくなってしまった木坂さんのために、私が木坂さんの人生について語ってあげます」
「他人に自分の人生語られるほど屈辱的なものってあるのか――」
「木坂雄太郎……今から百二十年前、東京に生まれる。両親は共に働いていたため、幼少時は曾祖父に育てられる。読書好きの曾祖父に影響され、十歳の時に小説家になることを決意。しかし様々な文学賞に応募するものの、落選の嵐。二十五歳の時、今では絶滅してしまった『本屋』に就職。だが店が潰れてしまったため、勤務半年でクビに。運良く出版社に再就職するも、職務怠慢で即クビ。その後、親の金でニート生活を五年ほど続けるが、曾祖父の死をきっかけに心を入れ替える。バイト片手間に執筆活動を続け、三十五歳の時に念願の小説家デビューを果たす……が、売れず。で、今日、寿命で病院のベッドに行き着くまで、バイトをしながら細々と執筆活動を続けてきた」
どお完璧でしょ、といわんばかりに桜田さんは僕を見やった。僕はベッドの上で寝たきりなので、視線的にも精神的にも見下されている気がした。
「いま私が言ったことの音声データは保存しておきましたので、後で文章化して送りますね」
「たぶん十行満たずに終わるな、僕の人生」
桜田さんはそれを見てまた嗜虐的に笑うだろうな、なんて考えていたら、彼女は思いつめたような表情をしていた。何か納得のいかないことでもあったのだろうか。
「木坂さん、曾おじいさんとの最期のやりとり――あなたがニートだった時の。あれもフィクションですか?」
「ああ、そこはノンフィクションだけど。それがどうかした?」
「じゃあ、あんな小説書いて読ませたのは真実ですか。冒頭数段落だけ読ませたかったのも本心ですか。じゃあ、なんであんなに長々と無駄な部分を書いたんですか。恥をさらしているようなもんです。もしかして、曾おじいさんに叱られたかったんですか?」
「それは……わからない」
わからない? と桜田さんは眉をしかめたが、僕の方が眉をしかめたい気分だった。
わからない。思い出せないわけではない。わからない、のだ。でも、桜田さんの言うとおり、僕は曾祖父に叱られたかったのだろう、きっと。
「木坂さん」
「こ、今度は何かな?」
どうも彼女に声をかけられると、身体が痙攣したような感覚に襲われる。怖気が走る、とも言える。
「曾孫さんがお見舞いに来られたそうですよ」
いま病院のロビーにいます、と桜田さんは告げた。
「では、私は失礼します。曾孫さんとの会話を邪魔しちゃいけませんから――」
「ちょっと待ってくれ、桜田さん」
背を向ける彼女に対し、僕は呼びかけた。彼女は何も言わずに振り返り、僕を見つめてきた。もう、全て悟っているようだ。
「僕の曾孫は、僕が管理している本を全て読んだと思う。そして、その本の内容を僕に話しにくるだろう」
「ええ」
「僕は曾孫の人生に干渉しすぎたのかな」自然、声が低くなる。憂鬱、だ。「読書なんて今では一部の好事家たちの娯楽だ。曾孫には、もっと実用的なことを教えておけばよかった。これで曾孫が僕のような人生を辿ったら、僕は――」
「木坂さん」
桜田さんは凛と声を張った。それは病院中に響き渡るかのような、澄んだ声だった。
僕ははっとして、俯いていた顔を起こした。
そこには微笑んでいる桜田さんが立っていた。
「あなたは立派な方ですよ。曾孫さんも自慢の、曾祖父だと思っているはずです。あなたが過去にそう思ったように」
「…………」
「それに」と、桜田さんはにやりと口端を吊り上げた。「曾孫さんは木坂さんほどバカじゃなさそうですし。大丈夫ですよ」
「……君は本当に口が減らないね」
どうやら僕はまだ死なないらしい。これは直感だが、不思議ともう少しだけ生きれる気がしたのだ。
せめて曾孫が小説家になるまでは生きていよう。
だって、僕の曾孫は僕ほどバカじゃなさそうだからだ。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
作中作という話は賛否両論あると思いますが、感想等いただけたら幸いです。