風のフルート
私は病んでいるらしい。
自分でも漠然と、今の私は普通じゃなさそうだなとは思っている。
とにかく身体が動かない。
何もしたくないし何も決められない。
朝、今日履く靴下を選ぼうと引き出しを開けたまま、十分も二十分もただぼうっと眺めていたこともある。これはさすがに問題だと後で思った。
家族に心療内科へ連れて行かれ、お医者さんから軽い鬱だと言われた。
俗に言う五月病だろうと。
薬が処方され、散歩程度の軽い運動をするように勧められた。
薬を服用し始めて三、四日。少し身体が動くようになってきた。
言われた通り散歩をする。
自宅から少し歩いたところに大きな公園があるので、そこを軽く一周するとちょうどいいかなと思った。
家を出る。
しばらく歩いて私は、世間がいつの間にか初夏になっているのに気付いた。
そういえば、ダイニングキッチンのカレンダーが五月になっていた。
発症?したのは大学へ入学した四月。ぼんやりしているうちに一ヶ月経ってしまったらしい。
入学式を含め、大学へは数回しか通っていない。
頑張って受験勉強して、せっかく入った大学なのに。こんなことになり、両親への申し訳なさでさすがに胸が痛くなった。
でも改めて考えてみたら……あの大学のあの学部へ何故入りたかったのか、わからない。
要するに何処でも良かったのかもしれない、自分にも他人にも言い訳できる身分……『大学生』になれるのだったら。
どうせ『大学生』になるのなら、そこそこ聞こえのいい大学へ入った方がいいかくらいは、無意識と意識の間で思っていた気はする。
私が受験勉強を頑張ったのは、ただそれだけの理由らしい。
そこまで考え、思わず深いため息をついた。
……なるほど。五月病になるはずだ。
『大学生』になるのが目的で、その先は何も考えていなかったのだから。
それはそれとして。
公園の新緑は美しい。
向かい風に一度立ち止まり、私は、軽く目を閉じて深呼吸した。
吹く風にほんのり、花や若葉のにおいがまじっている。
……悪くない。
少なくとも、朝も夜もなく自室でぼんやり寝転がっているよりはずっといい。
灰色一色の私の心の中にも、初夏の風が吹いたような気がした。
(散歩、続けよう)
目を開け、風に揺れる木立ちを見ながら思った。
散歩を始めて三日目。
私はそれに気付いた。
風に乗って馴染みのある音が聞こえてきた。……フルートの音色、だ。
曲名は多分バッハの『Air』……通称『G線上のアリア』。
ほとんど無意識のうちに私は、眉間にしわを寄せていた。
でも次の瞬間、私が不快に思う理由なんて何もないじゃないと思い直す。
……爽やかな初夏の空気に、フルートの涼やかな音色はよく似合う。
歩きながら私は、強いてそう思った。
そう悪くない、悪くないじゃない、と。
聴くともなく聴いていると、決して下手ではないがすごく上手とも言えない、中級程度の腕前の奏者だと見当がついた。
そういう中途半端な腕前の奏者は、練習場所に困ることが多いだろう。
音楽を専門にやっている人なら通常、自宅なり学校なりに防音設備の整った環境があるはず。でも、たとえば中高の吹奏楽部で楽器をいじった程度の人が、改めて楽器をやろうとした場合なら。
ここみたいな大きめの公園ぐらいでしか、思い切って音を出せないだろう。
楽器の音というのはかなり響く。
知らない人ならぎょっとするくらい響く。
一般的な住宅地で、思い切った練習はしにくい。
そこはよくわかる。
……私もそうだったから。
私は子供の頃、フルートをやっていた。
始めたきっかけが何だったのか、ちゃんとは覚えていない。
たまたま家の近所に楽器店があり、通りすがりに見えるフルートやサクソフォンなどの金管楽器のキラキラしたビジュアルに、強く惹かれた記憶がある。おそらくその辺りがきっかけだろう。
この楽器店には音楽教室も併設されていて、ピアノやギター、フルートの教室があった。
娘にピアノでも習わせようかと思っていた母に、フルートの方がいいと私は駄々をこねた。
別に、最初からものすごく熱心な生徒ではなかった。
小学校低学年くらいまでは惰性で習っていたような気もする。
なのにいつの間にか……多分アルテの第一巻が終わる頃には。
フルートは、私にとって生活の一部になっていた。一日一度はフルートを吹かないと、忘れ物をしたような気分になる。
でも、そうそう毎日自宅で吹くのも近所迷惑だろうから、この公園や、ここからもう少し行ったところにある河原へ自転車で行き、練習した。
フルートのない生活など、私はすでに考えられなくなっていた。
だからといって将来、プロのフルーティストになりたいとまでは思わない。
でも、音楽教室のフルートの先生にならなれるのではないかと思っていた。
出来れば音大へ進み、半分ボランティアで時折小さな演奏会に加わったりしながら、音楽教室でフルートを教えるのだ、私が教わっている先生のように。
要するに私は音楽教室のフルートの先生が大好きで、子供心に憧れを抱いていた。
先生みたいになりたいと、中学生くらいまでかなり本気で思っていた。
ちょうどその頃、発表会でバッハの『シチリアーノ』を吹き、先生にバッハらしい音が出ていると褒められた。
『○○らしい音』など、出そうとして出せるものでもない。
趣味で楽器をやっている程度の子供など、楽譜に書かれた通り間違えず演奏するのが精一杯だ。
一応でも『○○らしい音』が出せる表現力があるのなら、超一流は無理でもそこそこのフルーティストになれそうだと私はうぬぼれた。
お幸せだった子供の自分を、私は今、苦く思い返す。
転機は中三になる直前の春休み。
先生から、駅のコンコースで音大時代の後輩とミニコンサートをすることになった、入場料もいらないし生演奏を聴くのも勉強になるから聴きに来ないかと誘われた。
小さな花束を手に、私はいそいそと会場へ向かった。
会場になる駅のコンコースには、すでに電子ピアノやスピーカーが設えられ、黒いオーガンジーのワンピースを着た先生が、後輩さんと一緒にいた。
声をかけようとした瞬間、私は思わず息を詰めて立ち止まった。
ちょうどこちら側に背を向けている先生の立ち姿には、他人を簡単に寄せ付けない厳しさが放射状に発散されているような雰囲気があった。
私が知っているいつもの先生とは、あまりにも纏う空気が違って恐ろしかった。
いつにない先生の様子におびえて竦んでいるうち、ぽつぽつと人が集まり始める。
中学生にしては小柄な私は、あっという間に人垣に埋もれた。
演奏会が始まった。
春らしく『さくらさくら』から始まり、『愛のあいさつ』や『G線上のアリア』など、よく知られている小品が軽やかに奏でられる。
演奏している先生の表情そのものは教室とあまり変わらない。フルートを手にした立ち姿には、曲の雰囲気に相応しい柔らかさもある。
だけど存在感は、いつもの先生とは全然違った。
『オーラ』が違う、という言葉が不意に浮かぶ。
メインの曲へとプログラムは進む。
ピアソラの『ブエノスアイレスの冬』だ。
時期的に『冬』は少しずれるだろうけど、この曲は先生が音大の卒業演奏会で吹いた曲で、思い入れの深い曲だと聞いたことがある。
腹の底へと響く第一音。
今までの柔らかな音色とは明らかに違う、緊張感のある音。観客たちの空気も変わる。
フルートは電子ピアノの音色を絡み取るようにして、会場内の空気を冬の冷ややかさへと変える。
劇的な強弱。
途中で主旋律を電子ピアノと入れ替え、今度は囁くようにフルートは歌う。
再びの主旋律。煌めく粉雪のようにさらさらと流れるメロディ。
そして冬の嵐にも似た音のうねりが聴衆を圧倒し……春の兆しを予感させる、ラスト。
先生は曲を演奏しているんじゃない。
曲を通じてピアソラが描写した『冬』を、そして先生自身がその身で体験した『冬』を、表現しているんだ。
これがフルーティスト。
そして表現者。
表現するって、こういうことなんだ。
響く拍手をぼんやり聞きながら、打ちひしがれたように私は思った。
その後どうやって帰ってきたのか、ちゃんとした記憶がない。
ただ私は、先生に渡そうと思って用意した花束を持ち帰っていた。
学習机の上へ無造作に置かれたカスミソウとカーネーションの花束は、翌朝、寂しそうに首をたれ、しおれていた。
私はその後すぐ、受験勉強の為という口実で音楽教室を辞めた。
あれだけお世話になった先生に、ろくに挨拶もせずに。
私は歩きながら深いため息をついた。
半分以上忘れていた思い出だ。
正しくは、蓋をして忘れたことにした思い出だ。
今にして思えば私は先生のことを、憧れると同時に見くびっていた。
当時私は先生を、フルートが上手い素人だと思っていた気がする。
もちろん音大でフルートを専攻していた人を、本当の意味で素人だとは思っていない。
でも、フルーティストとしてプロの楽団に所属していたり、ソロでCDを出したりしている有名な演奏家ではないのだから、と軽く見ていたのは否めない。
そしてこの程度の人になら私もなれると、簡単に考えていたのも確かだ。
私はフルートが好きで、ある程度演奏出来る力がある。
後は、他人に教えられる程度の知識や技能を、大学などで学んで身に着ければいいと思っていた。
子供とはいえ、傲慢この上ない考えだったと今は思う。
先生は本物のフルーティストであり、一流の表現者だ。
ここまでの技術とパッションを持っている人であっても、『フルート教室の先生』に甘んじるしかないのがこの世界なのだ。
私が目指そうとしていた世界は、『フルート教室の先生になりたい』などという甘えた寝言を言っている半端者が、おいそれと関われるような世界ではなかった……。
ふと気付くといつの間にか、私は公園から出ていた。
立ち止まり、意味もなく空を見上げる。
教室を辞めて一年間、フルートにかけていた時間や労力を受験勉強にぶつけたお陰で、私はソコソコいい高校へ入れた。
高校生活も基本は『大学へ行く為』に使った。
それでも余る時間は、流行り物のチェックやお洒落で埋めた。
お陰で高校時代、華やかな友達が何人も出来た。
気付くと、中学時代フルートばかりにかまけていた変人少女は高校デビューを果たし、お勉強がソコソコできる上にイケている、スクールカースト上位のグループに混ざっていた。
だけどその暮らしが本当に楽しかったのかどうか、正直何とも言えない。
熱に浮かされたようなハイテンションな日々で、活気があるといえばあったけれど。
内側に途轍もない疲労しか残らない、虚しい日々だった気がしなくもない。
私はもうひとつ息を落とし、うつむいてのろのろと家路をたどった。
五月の空は哀しいくらい、どこまでも澄んで青かった。
翌日。
私はいつも通り散歩に出た。
公園に来てみると、またフルートの音が聞こえてきた。
やはりバッハの『Air』だ。
連日お疲れ様だなあ、と、だるい気分で私は思う。
発表会や演奏会が近いとか、もしかすると結婚式のお祝いに演奏するとか、そういう事情なのかなとぼんやり思った。
もちろん私には関係ない話だが。
(……あ、まただ)
舌打ちするように思う。
この奏者には、目立つとまでは言えないけど癖がある。
多分、生まれつき右手の薬指と小指が不器用なのだろう。そこの動きが遅れがちで、どうしても演奏がもたつく。
(やだなあ、私と同じじゃないの)
そもそも私が、とてもプロのフルーティストになれないと早くから見切りをつけた理由のひとつが、自分の指の不器用さだった。
どれだけ頑張ったところで私は、早く正確に指を動かせない。
これは別にフルートだけに限らなかった。指先を使う細かな作業全般、私は苦手だ。
もちろん練習すれば改善する。
だけど普通の人の二~三倍は練習しないと、なめらかな演奏は無理だった。
練習自体はさほど苦にならなかったとはいえ、そんな状態では一曲仕上げるのに時間がかかり過ぎてしまう。
この奏者もきっとそうなのだろう。
同情めいた気分が湧いた次の瞬間、私は首を振って足を速めた。
私には関係ない。
その翌日と翌々日。
雨が降ったのもあり、私は公園へ行かなかった。
そろそろ陽射しがきつく、同時に暑くもなった。
涼しいうちに散歩を済ませた方がいい。普段より一時間以上早く、私は家を出ることにした。
それなのに。
公園にはいつものようにフルートの音が響いていた。
(……え?)
この奏者は一体何時間、ここで練習をしているのだろう?
今までのことを考えると、私がこの公園を散歩している間ずっと、フルートの音は響いていた。
この公園を私の足で一周すると、だいたい一時間ちょっと。
この奏者は、私が公園へ来る前から練習していて、公園から出る時も練習を止めていない。
少なく見積もっても一時間半は、ぶっ続けで練習をしていることになる。
でも、いつもより一時間以上早く来た私よりさらに前から、この人は本気の音量で熱心に練習をしている。
優雅そうな見た目だけど、フルートは結構、体力を使う楽器だ。
いくら腹筋や肺活量が鍛えられている人でも、三時間以上も休みなしで吹き続けていたら、貧血を起こしかねない。
(……ああでも。この人もたまたま今日だけ、早めに来ている可能性もあるか)
思ったが、それでも病的なくらい必死で真剣ではないだろうか。
初めて、一体どんな人が練習をしているのだろうかと私は思った。
音をたどり、歩道を外れて公園の中心部へ向かった。
若草に覆われた人工の丘のふもとに、その人はいた。
明るい初夏の陽射しの下で、銀色に輝くフルートを一心に奏でていた。
色白の、年齢不詳な感じの綺麗な人だった。
澄んだ白の素っ気ないブラウスに、同じく白のベルボトムのパンツ。明るい茶色の髪をショートカットにしたその人は、全体に凛々しい少年のような雰囲気があった。
そろそろと近付く私に、その人……おそらくは私より年上の女性であろうその人は、唇からフルートを離し、優しく目許をゆるめた。
「お久しぶり」
予想よりも低い、よく響くいい声だった。
「もしかしたら来てくれないのかなって、思っちゃった」
そう言って軽く涙ぐむ彼女の痛々しい笑顔を見た途端、強烈な懐かしさと申し訳のなさで胸が詰まった。
彼女は、とてもよく知っていて誰よりも親しくて……だけど私から一方的に絆を断ち切った、大切な友達。
理屈を超えてそれがわかった。
彼女は低い声で話し続ける。
「私が本当に必要じゃないのなら。貴女が貴女なりに、本当に幸せだったのなら。私はあのまま朽ちていったよ。でも……とてもそうは見えなかったから」
そして彼女はもう一度、優しく目許をゆるめた。
「太陽と風に願ったの。かつてあの子が吹いていた通りに、バッハの『Air』を奏でたいって。そうすればきっと、思い出してくれるだろうから」
フルートを持ったまま、彼女はそっと近付いてきた。
「貴女にとってフルートは、呼吸と同じじゃないかと思うの」
静かにそう言うと彼女は、私の手にフルートを握らせた。
「呼吸、しようよ。……一緒に」
不意に強い風が吹き、私は思わず目を閉じた。
次に目を開けた時、彼女はいなかった。
まじまじと手の中に残されたフルートを見つめ……そっと吹き口へ唇を寄せた。
頭に、身体に、不思議な風が突然吹き抜けた。
忘れていた感覚がまざまざとよみがえる。
息を吹き込む。
最初の長い一音が、銀色の楽器を震わせる。
(……ああ、そうだった)
バッハの『Air』。通称『G線上のアリア』。
これは、教室を辞める直前に練習をしていて……もう少しで仕上がりそうだった、曲。
少しもたつく薬指や小指を意識して動かしながら、私は楽器へ息を吹き込み続けた。
私がフルートで紡ぎ出した『Air』の音たちは、のびのびと初夏の青空へ向かって羽ばたいていった。
最後の一音を吹き終わる。
その瞬間、また強く風が吹いた。
風の中から、笑みを口許に含んだような複数の明るい声が響いた。
(太陽と風の魔法はここまで)
(後は貴女次第)
(迎えに行ってあげなさいな)
(待ってるからね、あの子はずっと)
(一緒に呼吸をしようって)
ハッと我に返ると、ついさっきまで手にあった筈のフルートは消えていた。
公園を飛び出し、私は河原へ向かって走る。
教室を辞めた時。
テキストや楽譜は目をつぶって捨てることが出来たけど、フルート本体はどうしても捨てられなかった。
でも家の中に置いていると、いつかは吹きたい誘惑に負けてしまいそうだった。
悩んだ末、練習場所としてもよく使っていた河原にある、大木の根元に埋めることにした。
夏場、私はこの木の陰でよく練習した。
やぶ蚊が大喜びで寄って来るのが鬱陶しかったけれど、虫よけスプレーや電子蚊取りを使えばやり過ごせた。
でも今はやぶ蚊が出る季節でもない。
ただ真っ直ぐ河原の木の下へ向かう。
仮にやぶ蚊の餌食になる季節だったとしても、私は気にしなかっただろうが。
落ちていた石や棒なんかも使い、苦労して、かつてフルートを埋めた根元を掘り返した。
やがて、どことなく見覚えのある、ボロボロのビニールに包まれた黒っぽいものが見えてきた。
ほっとする。
あの日。
私は、長年愛用してきたフルートをきちんと磨いてケースに収め、ビニール袋でぐるぐる巻きにした。
それを持って自転車を走らせ、この木の下へ埋めた。
埋めながら、泣けて泣けて仕方がなかった。
私は確かにフルートが好きだったけれど、決して先生のようにはなれない。
私は『フルート好き』なだけであり、先生は魂の芯からフルーティストだ。
その差を埋めるのは、これから先の努力や決意で何とかなるような生易しいものではない。
理屈や言い訳を幾つ並べても無駄だと、私はあの演奏会の日に思い知った。
私はこの先も、決して真の意味でフルートを歌わせることが出来ない。
出来ないのだ、どう頑張っても。
ビニールでぐるぐる巻きにしたフルートへ土をかぶせながら、死にたくなるような悲愴をかみしめた。
土から掘り出したそれの、ボロボロのビニールをむしり取る。
思っていたよりもケースそのものは傷んでいない。
おそるおそるケースの留め金を外し、ふたを開けた。
まるで棺の中で眠る白雪姫のように、あの日納めたフルートは静かにそこにあった。
『貴女にとってフルートは、呼吸と同じじゃないかと思うの』
『呼吸、しようよ。……一緒に』
痛ましい笑顔でそう言った、彼女の声を思い出す。
「……ごめんなさい」
フルートをこの木の下へ埋めて以来、乾いていた私の瞳が涙で曇る。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
掘り出したフルートは、四年以上も土の中で放置していたにしては状態が良かった。
それでも当然、部分的に軽く錆びていたりタンポが劣化していたりくらいの不具合はある。
私は久しぶりにあの楽器店へ行き、フルートの修理を依頼した。
そしてアルテの第一巻からやり直したいと伝え、フルートのレッスンを受け直すことにした。
私はどうやら、『魂の芯からフルーティスト』ではないだろうけど『魂の芯からフルート好き』らしい。
好きなんだから、これはもうどうしようもない。
あきらめた。
呼吸をするようにこれから先も、私なりにフルートを続けようと思っている。
修理から戻ってきたフルートを手に、レッスンへ向かう。
かつて私が習っていた先生は、今はいらっしゃらないようだ。
知らない名前が講師名として記載されている。
緊張しながら、私はレッスン室の扉を開けた。
「こんにちは」
聞き覚えのある声。
レッスン室には、かつてお世話になっていたあの先生がいらっしゃった。
「ああ、名前が変わっていたから驚いたのね」
入り口で目を見張り、立ち止まってしまった私を見て、先生は可笑しそうに笑った。
彼女の左手の薬指に、プラチナの指輪が光っている。
「こ、こんにちは。これからお世話になります、どうぞよろしくお願いします」
用意していた言葉をのどから押し出し、私はぎくしゃくと頭を下げた。
先生はほほ笑み、少し瞳をゆらしてこう言った。
「こちらこそよろしく。それから……」
お帰りなさい、と。