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目が覚めたら、ネコになった公爵令嬢  作者: 魚沢凪帆
本編
9/16

部屋に戻ると、ノアが机に向かってうなだれていた。

グリムの腕に抱かれて部屋の中に入ると、ノアが弾かれたように顔を上げた。


「ミルク!」


ノアが駆け寄ってきて、グリムから私を受け取る。

いつもの真っ白い毛並みが、薄汚れて茶色くなっている。


手が汚れちゃう、と思ったけれど、ノアは少しも気にする様子はなかった。


「ごめん」と短く謝る声が聞こえてきて、ノアを見上げた。

まるで泣き出しそうな顔で、私を見下ろしているノア。


意外な表情に私は、初めてこの腕が私のものだと思えた。

私は腕の中で身じろぎをすると、身を伸ばして頬をペロッと舐めた。


「ノア、ただいま」と鳴いたつもりだけれども、「にゃぁ、にゃにゃ」としか響いていない。

ネコ語が分からないノアだったけれども、私の様子から怒っていないことは伝わったのか、嬉しそうに微笑んだ。


私は初めて、シャーロットに戻らなくちゃと真剣に思った。



***************************



そもそも、なぜネコになったのかわからないんだ。

どうやって人間に戻れるのか、わかるはずもない。


私はネコになったときのことを思い出していた。


そもそものきっかけは、オスカー・ディオ・グランドール様だ。

王太子妃になることを夢見ていた私は、オスカー様の最有力婚約者が、私ではないことを知った。


私よりも家格が低い、笑わない侯爵令嬢である、エリザベート。

彼女がオスカー様の妃に一番、近い存在だと知り、絶望した私は、森にある別荘に逃げ込んだ。


護衛をまき、一人森林浴をしていた私は、不思議な色の魚を見つけた。

ゆらゆらと空中に舞った魚は水飛沫をあげて、湖に戻っていった。


そういえば、湖の水飛沫がかかって、濡れて大変だったわ。

屋敷に戻った私は、侍女たちに囲まれて、逃げたこと、びしょ濡れで帰ったことを怒られた。

公爵令嬢有るまじき行為だと言われた。


しかし、一番傷ついたのは、侍女の一人が「これでは王太子様の横に並べませんよ」の一言だった。

侍女たちは幼いころから、私が王太子妃になることを夢見ていたことを知っていた。

だから、このセリフは嫌味でもなく、過去に何度も繰り返されてきた言葉だった。


いつもなら、このセリフで私はやる気を漲らせるのだけれども、タイミングが悪かった。

オスカー王太子は、もう私ではなく、エリザベートを王太子妃候補に選んでいたのだから。

私は侍女たちを下がらせると、ベッドの中で泣きながら眠った。


次の日、目が覚めたら、ネコだった。


振り返ると良い思い出の欠片もない記憶の数々。


この記憶の中で、何がネコになるきっかけだったのだろう。

一番、不思議なことは、森の中で見た魚。

この世のものとは思えないほど煌めく色の魚。その水飛沫を全身に浴びた。


もしかしたら、あの森の湖にネコになった秘密が隠されているのかもしれない。

むしろ、他に思い当たる節がまったく、ないのだ。


私は森に行こうと心に決めた。

そのためには、王城から抜け出さなければならない。


ノアは、昼間、私を置いて出かけるとき、窓を小さく開けて行ってくれる。

その隙間を利用して、部屋から飛び出した。


ネコの脚力で窓を伝いながら、庭園へ降り立った。

庭園の端に、抜け出せる小さな穴があることはわかっている。


私は隙間から小さな体を、押し付けるように抜け出した。


王都から一番近い森といっても、王都は広い。

にぎわった王都の中心を、小さなネコの足で必死に走った。


もうネコになって、1週間は経っている。

私はネコになったとき、ショックは受けたけれども、本気でシャーロットに戻ろうと努力はしなかった。

王太子妃になれないことが分かった時点で、すべて諦めてしまったのだ。


けれども、私はノアに出会ってしまった。

ネコとしてノアの傍にいることは、今のままでもできる。

しかしノアが本当に必要としているのは、話すことができないネコではなくて、ノアだけを見てくれる人なのではないかと思う。


―――そう信じたい。


私は休みも取らずに必死に走った。


午後の昼下がり、王城から数キロ離れた森に、やっと、たどり着いた。

湖は風がそよいで、たまに水面を揺らしているけれど、魚の姿は見えなかった。


湖の水が体にかかれば戻れるのか、魚が関係しているのか、わからない。

ひとまず、水浴びをしてみようかと、白い小さな足を湖の端に差し入れてみた。


ピチャッと音を立てたけれども、すぐに変化は見られない。

次の瞬間、水辺の滑りで、私の体はズルッと滑った。

ビシャンッと音を立てて小さな体が、湖に沈む。


―――死んじゃう。

本気で死を意識して、目を閉じた。


小さなネコの体では、水上に浮き上がることは困難だった。

暴れれば暴れるほどに、身体は沈んで行ってしまう。


だれか、だれか助けて!!

私はやっぱり、死にたくなかった。


絶望したときもあったけれども、今は、ノアに会えずに死にたくなかった。


ノア!ノア!助けて!!


心の中で必死で叫んだ。


ぶくぶくと、泡が私の体の周りで浮き上がっていった。


死を覚悟した、次の瞬間、私の体を2本の手が支えた。

湖の中から、抱きかかえてくれる。


目を開けると、目の前には天使がいた。


―――天使?


「ネコちゃん、大丈夫? ちょっと遠くから見てたら、ネコが湖に落ちたから、びっくりしたわ」


私も足を滑らせたことにも、助かったことにも驚いた。

けれども、同時に私を抱き上げた女性の顔を見て、息を飲んだ。


―――エリザベート。


王太子妃にもっとも近い存在。

一方的ではあるが、私のライバルだった女性だ。


鉄仮面と呼ばれるエリザベートは、心配したわ、と言いながら、表情はまったく変わらない。


「王太子の見え透いた求婚にうんざりして、森に来たけれども、ネコちゃんを助けられたなら、来たかいがあったかしらね」


「にゃ?」と私の疑問が口についた。


エリザベートは持っていたハンカチを広げて、私を包んでくれた。

身体を拭きながら、小さくため息をつく。


「私は結婚なんて一生する気はなかったのに、政略上、丁度良いってだけで求婚してくるなんてひどいと思うでしょう?」


私は困っているのかどうかわからないエリザベートを見上げて、目を瞬かせた。


「穏やかに生きていくことが夢で、どうしても結婚しなくてはならなくなったら、修道院に逃げ込もうと思っていたのに。さすがに王太子が相手では、振り切れないじゃない」


エリザベートは誰かに文句を言いたかったのか、ネコ相手にぶつぶつと文句を漏らしている。


「それは、今の国内情勢上、私は適当な相手なんだろうけれど、他にも王太子妃になりたい方は大勢いるのよ。リオナ・オブブラウン公爵令嬢や、シャーロット・ローズブレイド公爵令嬢様方を敵に回すなんて、本当に気鬱なことをするわよね」


―――シャーロット・ローズブレイド。

自分の名前が、エリザベートから飛び出してきたので、ビクッと身体を震わせた。


エリザベートはとっさに、「あら? 拭く力が強かった?」と優しく私を撫でた。


「いやね。私ったら、いくら王太子の求婚が嫌だからって、ネコ相手にこんなに愚痴ってしまうなんて」


すっかり乾ききった私の体は、フカフカの毛並みとは裏腹にずいぶん速乾性があったようだ。

エリザベートは私を地面に降ろすと、「でもね」と続けた。


「いい?ネコちゃん。貴方もグランドール王国の一員ならば、覚えておきなさい。この国の時期王様は、見た目はフェミニストな王子様だけど、中身は腹黒。王国のためならば、女性の幸せなんて塵すらも思っていない鬼畜よ。結婚なんてするもんじゃないわ」


私はエリザベートを見上げたまま、言葉を失っていた。

王太子妃を目指した私は、オスカー様のことを何一つ、わかっていなかった。


けれども、エリザベートは国内情勢も、オスカー様の本性もとっくのとうに、わかっているようだった。

王太子妃になることを嫌がっているエリザベートだが、逃げるという選択肢は考えていないようだった。


愚痴ばっかりだわ、と表情筋が動かない彼女だが、課せられた義務を果たすつもりはあるようだった。


―――ノブリスオブリージュ


貴族には貴族の義務がある。

なんだ、私は呑気に虚構の王太子のお嫁さんを目指していたけれども、周りは貴族としての義務を理解して、動いていたんだ。


私には、腹黒の王太子も、結婚を嫌がりながらも逃げないエリザベートも、身を削って王国につくすノアも、誰も責めることなんてできなかった。


甘かったのは自分自身だった。


「ネコちゃん、毛並みが良いから野良猫には見えないんだけれども、迷子かしら? 私と一緒に来る?」


エリザベートが手を伸ばした。


私は数歩、離れると、一気に駆け出した。

エリザベートが「ネコちゃん!?」と驚いた声を上げている。


今の私には、エリザベートの手を借りる資格などないように思えた。

必死に走って、王城に戻ろうと思った。


ネコの私は、書置きの一つもできるわけがなく、こっそりとノアの部屋を飛び出した。

きっと、ノアは私がいないことに気が付いて心配しているはずだ。


―――多分。


早く戻らなきゃと、焦って王都内を走った。

しかし、いつの間にか振り出した雨で、視界が遮られて、私は帰り道を見失った。

朝からずっと走りっぱなしで、一度は湖に落ちた体は、鉛のように重たかった。


フラフラと、雨の中を歩いていく。

「ノア」「ノア」と何度も彼の名前を呼んだ。


もちろん、「にゃぁ」としか聞こえない声は、雨音にかき消されていた。

どこをどう歩いたのかも、もうわからなかった。

真っ暗になり、雨で視界が遮られた中、王城から近いのか、遠いのか、それすらもわからなかった。

どれほど彷徨ったのかわからない。

突然、見えてきたのは、見知った屋敷だった。


慣れ親しんだ私の育ったお屋敷だ。

入り口は頑丈な門で遮られていたけれど、ネコの小さな体であれば、隙間から中に入ることができた。

屋敷に入りたかったけれど、さすがにどこの窓も開いていない。


私はふらふらと庭を歩くと、途中で力尽きて、倒れた。

ネコのまま、死んでしまうのかもしれない。


このまま、死んでしまうならば、せめてノアともう一度会いたかった。

ノアの腕の中で死んでしまいたかった。


私は願いながらも、雨に打たれながら、そっと目を閉じた。

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