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「ミルク、ミルク」
呼びに来てくれるはずの彼の声。
―――ではない。
私は、東屋から離れた建物の陰に小さく丸まっていた。
「あぁ、こんなところにいたんですね」
たれ目をさらに、穏やかにカーブさせた彼が、私を見つけた。
「ノア様が心配されますので、見つかってよかったです」
再度、逃げようとした私を素早く、抱き上げたのは、ノアの従者 グリムだった。
「にゃあぁぁぁ」と叫びながら、グリムの腕の中で暴れた。
このままでは、強制的にノアの元に連れ戻される。
キャサリンの手を取って、私を振り向きもしない、ノア。
彼はもう、私なんてどうでもいいのかもしれない。
いいや、元よりネコなんて暇つぶしの道具の一つ。
私のことを大切に思っていたわけじゃないんだ。
急に落ち込んでしまった気持ちが、しっぽに現れたようで、グリムの腕の中でシュンッと垂れた。
「ミルク、君はノア様がお好きなんですね」
グリムは私のしっぽを見つめながら、クスクスと笑った。
「ニャッ」と短く鳴いたのは、肯定か否定か、自分でもわからなかった。
「ネコの君がどこまで、わかっているのかわかりませんが。ミルクは人の言葉も、感情もまるで理解しているみたいだとノア様がよくおっしゃっています」
それは、そうだ。
もとより、私は人間―――シャーロットなのだから。
「ノア様はミルクを邪険に扱ったわけではないですよ」
「それは嘘だ」とすかさずに、「にゃあ」と鳴く。
「ノア様は6番目の王子として、この世に生まれました。ノア様は、王子として優秀な方です。他国であれば十分に王位に就くこともできるでしょう。しかし、このグランドール王国には5人の天才的な王子がすでに、いました」
私はグリムの腕の中で、彼を見上げた。
目が合うと、彼は三日月のように目を細めて笑ってくれる。
「天性の王の器を持つ、オスカー・ディオ・グランドール様。優しい笑みと、計算高い知性。国王の優しさが、甘えにしかならないことをしっかりと理解されており、飴と鞭の絶妙な扱いができる王太子。現在、国内に彼を凌ぐ王位継承者は他にいないでしょう」
私は内心、息を押し殺すように肩を落とした。
私にとって初恋の人であるオスカー・ディオ・グランドール様。
優しい笑みと声、王子様然とした外見に惹かれた私だけれども、すでに彼が優しいだけの存在ではないと分かっている。
天性の王の器と言われるのも納得がいく。
「ユーゴ・ディオ・グランドール王子は、非常に優れた頭脳の持ち主です。一言告げれば、100の未来を見通せるといわれるほどの天才です。現宰相のご息女と結婚し、オスカー様を支える側近になられることが決まっておられる方です」
グリムは私を腕に抱きながら、庭園を歩き出す。
そよ風に吹かれながら、ネコに話しているにしては真面目な様子で話している。
「イーサン・ディオ・グランドール王子。第3王子であるイーサン様は、優しい外見とは裏腹に血に飢えた獣とまで揶揄されるほどの戦闘狂―――というと、叱られそうですね。現王家の武力の象徴であり、騎士団長を務める御方ですね」
優男のような出で立ちでありながら、高い戦闘能力を持つイーサン王子は、貴族令嬢だけではなく、街の娘たちにも憧れの存在らしい。
騎士であるということも、付加価値のひとつらしく、噂ではイーサン王子をモチーフにした恋愛小説が流行っているという。
「第4王子 ガブリエル・ディオ・グランドール様。独特なセンスを持ち、奇抜な恰好で、たびたび王城を騒がす方ですが、魔法研究のスペシャリストであり、希代の天才魔法師です。ガブリエル様は他国の侵略に対し、存在だけで他国の牽制になるといわれるほどの方です」
正直、憧れる存在ではなく、一歩、引いてみていたい存在であるガブリエル王子。
優秀は折り紙つきだが、言動諸々が、貴族の常識をはるかに超えた存在だ。
とはいえ、私もほとんど、その姿を見たことがあり。
ガブリエル王子はほとんどの時間を研究所で過ごしており、稀に夜会に姿を見せても一瞬で帰ってしまう。
「リカルド・ディオ・グランドール王子。王家の王子の中では最も、破天荒な行動力にあふれた方です。5年間出奔し、ふたつ名持ちの冒険者として活躍していたため、民からの人気は最も高い方でもあります。魔物との実戦経験が多いリカルド様は、国境騎士団に所属し、国の防衛を高めていらっしゃいます」
上の4人の王子に比べて、鬼才とは異なる存在であるリカルド王子。
王家を出奔したときには多くの貴族が、彼の行動を責めたが、戻ってきたリカルド王子は貴族の常識をはるかに超えていた。
暴れた魔獣を倒し、冒険者ギルドでも有名になった彼は、王家に胸を張って帰ってきた。
破天荒と言われるほどの行動力にあふれてはいる彼は、王家を捨てたと思われていたが、リカルド王子は武者修行に言っていただけだと軽く笑った。
明るく人懐っこい存在であるリカルド王子は、あっという間に貴族たちの間でも受け入れられて、現在は国境騎士団で活躍している。
「そんな5人の王子の後に生まれたのが、ノア様です。ノア様が優秀でなかったわけではないのです。しかしながら、上の5人の王子様方が規格外に優秀過ぎたのです。本来ならば6人の腹違いの王子たちが王位を争っても不思議ではありませんが、各々が自身の力に見合った場所を求め、十分すぎるほど活躍をするなど奇跡としか言いようがありません。ノア様は兄君たちの邪魔にならないように、できれば力になりたいと思って育ちました。それが、ノア様の不名誉な噂に繋がるのです」
―――不名誉な噂?
私は揺れる腕の中で、ソッとグリムを見た。
グリムは真っ直ぐに前を向いたまま、少し悲しそうに顔をゆがめていた。
「ノア様はご本人のことなど二の次で、国のため、優秀な兄君のため、身を削ってでも役に立ちたいと考える方です。ご自身が役職がなく身軽なこと、外見が女性に好まれることを十分に理解されていたノア様は、貴族女性に近づき、情報を得るようになりました。それはオスカー王太子にとっても、ユーゴ次期宰相にとっても、非常に有益な情報でした。しかし、同時にノア様は女たらしな軽薄な王子であるという不名誉なレッテルを張られてしまいました」
そういうことか、とストンッと胸に落ちた。
社交界で噂の的になることが多かったノア・ディオ・グランドール。
いつも別の女性を連れて軽薄な言葉を口にするノア。
未婚の女性は不名誉な噂が立たないためにも、ノアには近づくなと親がきつく言い聞かせるほどの男だった。
しかし、私が出会ったノアは、まったく別人だった。
優しく私の背中を撫でる手。
甘い声も、言葉もすべて、軽々しい透けた優しさではなくて、心がこもっていた。
だから、女性関係に緩いノアの噂と、一致しなかったんだ。
「こんなことをミルクに言っても仕方がないのですが」
グリムは立ち止まると、私を持ち上げて、目を合わせた。
「貴方は傍にいてあげてください。あの方は、自身の体の傷にも、心の傷にも、非常に疎い方です。ノア様はこれまで自身の想いなど、どうでも良いと思ってきました。しかし、ミルク、貴方はノア様が唯一傍に置く存在です。ノア様にとって、ミルクは支えなのです」
グリムはしばらくソッと目を閉じると、ゆっくりと瞼を持ち上げていった。
「ノア様の支えに―――いつまでも、傍にいてください」
ネコに何を真剣に言っているんだ、と私は瞬間に思った。
けれども、グリムの真剣なまなざしに、私は「にゃあ」と鳴くことすらできなかった。
―――傍にいたい。
傍にいたいけれど、こんな小さな体では、ノアの心の欠片だって守ることはできない。