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翌日、朝、目が覚めると、ノアが起きて支度をしていた。
「ミルク、行ってくる」
私にミルクを置いて出かけようとしたので、私は焦って、ノアの足に絡みついた。
小さな体では足止めはできないけれど、ノアは私の初めての行動に戸惑ったようだった。
身動き取れずに、呆然と私を見下ろしている。
「どうしたの?」
しゃがみ込んで聞かれたけれど、説明する言葉は持ち合わせていない。
置いていかれたくなくて、私は必死で「にゃぁにゃぁ」と鳴き声をあげた。
「なんだ? 急にどうした?」
ノアは戸惑いながら、私の体を持ち上げる。
私は必死でノアの手を舐めてみた。
今日はとにかく、置いていかれたくなかった。
私の想いを感じたのか、ノアはため息をつくと、「大人しくしていてね」と言った。
仕方がない、とノアが私を連れて部屋を出たので「ありがとう」と鳴いた。
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昨日の衝撃が強かったのか、私はひとりになることが怖かった。
ノアにしがみついて、ノアと一緒にいたくて、ノアと出かけることに成功した。
だけど、私はすっかり忘れていた。
ノアは、女性と遊ぶのが大好きな女ったらし王子だった。
昼間からどこに行くのかと思ったら、ノアは庭園に降りて、しばらく辺りを歩いていた。
「ノア様」
声をかけて、走り寄ってきたのは、見知らぬ女性だった。
この間まで一緒にいたビアンカではない。
また、別の女性がノアに抱きついてきた。
「キャサリン、会えて嬉しいよ」
ノアは、私を肩に乗せたまま、自身の胸の中に女性を招き入れた。
キャサリンの香水がムワッと鼻について、私は、小さなくしゃみをした。
「あら、ノア様。今日は、ネコを連れていらっしゃるのね」
キャサリンが首をかしげて、私を見上げた。
「うん、俺の可愛がっている子だよ」
「もう、ノア様ったら、色々な方にそういうことを言うんですもの」
ネコの私をダシに、言葉を遊びをしているキャサリンとノアが腹立たしく見えた。
「少し、歩こうか」
ノアはキャサリンに手を差し伸べると、二人は体を寄せ合い、歩き出した。
臭い香水に、私の鼻はひん曲がりそうだった。
二人の楽しそうな笑い声も、耳にキーンッと響いていた。
一緒に来なければよかった。
後悔が募るけれど、ノアの肩から降りたらキャサリンに負ける気がした。
必死でしがみついていたら、庭園の端にある東屋にたどり着いた。
ふたりがベンチに腰掛けたとき、「ノア様」と第三者の声がした。
私が見上げると、東屋に近づいてくるノアの従者 グリムだった。
直接、関わったことはないけれど、ノアの傍にいるとき、時折姿を見る男だ。
「少々、よろしいでしょうか?」
従者のグリムに呼ばれて、ノアは眉をひそめた。
「ごめん。行かなきゃ。すぐに戻るから待っててくれるかい?」
ノアが視線を合わせて、謝ったのは、もちろんキャサリンに対してだった。
「えぇ」とほほ笑んだキャサリンに、ノアは立ち上がった。
私はノアについていこうと、彼にしがみついていたけれども、ノアは非情だった。
肩にのった私をノアは、東屋のベンチに降ろした。
「ミルクと一緒に、良い子で待っててね」
ノアの笑みに、キャサリンはポッと頬を赤らめた。
置いてかれると、私は必死で泣き叫んだけれども、「すぐに戻るよ」とノアは手を挙げただけだった。
「本当に、綺麗な毛並みね。さすがに、王家のネコは違うわね」
ひとりになったキャサリンは、ずいぶん、軽々しい言葉を使う女性だった。
キャサリンが、私に手を伸ばした。
臭い香水を纏った手で、触れられたくなくて、私は必死で「にゃぁ」と威嚇した。
私の威嚇が伝わったキャサリンは、フンッと鼻を鳴らした。
「やだ、このネコ。躾けが足りないんじゃない? さすが、第6王子の飼い猫ね」
―――なんなの、この女。
私の心に、怒りが生まれる。
見上げた目に映るキャサリンは、醜くも綺麗に笑った。
「まぁ、仕方がないわね。飼い主があの、ノア様じゃね」
――――イラッ
「早く、オスカー様に紹介して下さらないかしら。ユーゴ様でも良いけれど、彼は宰相の娘と結婚がきまっているしね」
王太子に、第2王子の名前までも、軽々しく上げる女。
「せめて、第3王子でも、紹介してくれたら、良いんだけど。ノア様、顔は素敵だけど、彼みたいな女性関係に軽くて出世できなそうな人じゃねぇ」
フフッと忍ぶように笑った声。
腹が立って、頭の中が真っ赤に染まった。
次の瞬間、私はキャサリンの手にとびかかっていた。
「キャアッ」
東屋に叫び声が響き渡った。
声に気が付いたのか、ノアとグリムが駆け寄ってきた。
「どうした?!」
手を庇うように立つキャサリン、手を振り払われる反動で東屋の床に転がる私。
ノアがびっくりして、私たちを交互に見た。
「このネコが、急に私に噛みついたのよ!」
キャサリンが、ヒステリックな声を上げた。
噛みついたって言っても、ちょっと血が滲む程度だ。
大騒ぎするほどじゃない。
けれども、キャサリンは「何なの、このネコ!」と叫んでいる。
ノアは東屋に一歩、足を踏み入れると、”私”ではなくて、キャサリンの手を取った。
「ごめんね。俺のネコが、君の綺麗な手を傷つけてしまったのかな?」
大した傷ではないと、ノアにだってすぐにわかったと思う。
けれども、ノアは彼女の手を取ったまま、膝を折った。
「綺麗な手だ。傷つけてごめんね」
騎士のような姿で、ノアはキャサリンの手に口をつけた。
王子様然とした姿に、キャサリンも息を飲んでいる。
―――なんで? なんでなの?
ノアはキャサリンを見つめていて、私を振り返ろうともしない。
彼の目に映っているのは、間違いなく、キャサリン。
私とは別の女性だ。
―――ほら、まただ。
いつでも、彼らは、私ではなくて別の女性を選ぶんだ。
にゃぁぁぁぁ、と渾身の限りに鳴いてみたけれど、ノアは私を一切、振り返らなかった。
心臓をわしづかみにされて、握りつぶされそうなほどに、胸が苦しかった。
私は踵を返した。
東屋から飛び出したけれども、ノアが私の行動に気が付いてくれたのかわからなかった。
押しつぶされそうなほどの悲しみと不安が、追いかけてくるようで、必死で走って、東屋から逃げた。