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ノアに拾われて1週間が経っていた。
今頃、公爵家では大騒ぎになっているんじゃないかと思う。
けれど、ノアの傍にいると、まったく外の噂は入ってこなかった。
一週間も彼の傍で暮らしていると、ノアに慣れてきてしまった。
最近では彼のいない昼間は、バスケット中では窮屈で、ノアのベッドで広々と眠っている。
私が外の風が好きだと気が付いたノアは、最近、ベランダに繋がる窓を少しだけ開けて行ってくれる。
隙間から吹き抜ける風が気持ちよく、私の体をなでていく。
眠りの中から浮上した私は、ふと目を開けた。
ぼんやりとした視界が、巨大化した天井―――ではない。
「戻った!」
私はバッと身を起こして、自分の体を見下ろした。
―――いや、見下ろせなかった。
持ち上げた手は、真っ白い毛並みのネコの手。
一瞬、戻ったような気がしたけれど、どうやら寝ぼけていただけみたいだ。
もう一生、このままネコとして生きていくのかもしれない。
最近ではそれも、いいかもしれないと思っていた。
オスカー様の横に立つことはできない。
私が幼いころから頑張ってきた勉強も、磨いた外見も、何の意味も成さない。
それなら、今の穏やかな毎日の幸せなんじゃないか。
私がぼんやりとネコ人生について考えていたら、ノアが部屋に入ってきた。
「こら、ミルク。また、俺のベッドで寝ていたな」
ノアが笑いながら、私に近づいてくる。
伸ばされた大きな手が、私の頭をなでてくれると、幸せを感じてしまう。
ノアの飼い猫で居ることが、心地よくなっていた。
喉を鳴らしてノアの手にすり寄る私の心は、完全にネコ寄りになっていた。
「そうだ。明日、俺と一緒に出掛けようか」
「えっ?」と驚いて、顔を上げた。
ノアが私を持ち上げて、目線を合わせてきた。
「俺の一番上の兄さんが、ミルクに会いたいんだって」
―――えっ? 一番上の兄さんって。
それって間違いなく、オスカー様だよね!?
もともとは、オスカー様に会うために王城に来た私だけど、もう今更、オスカー様に会いたいわけがない。
焦った私は、嫌だとばかりに身をよじったけれど、ノアにはじゃれているだけにしか見えなかったようだ。
「初めてのお出かけだな」
ノアが笑うから、つい、それは「嬉しいかも」と鳴き声を上げてしまった。
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翌日、ノアに抱きかかえられてオスカー王太子の元に向かった。
廊下で何度かご令嬢とすれ違い、その度に「可愛い」と身を撫でられそうになった。
下位のご令嬢たちに撫でられるなんて、プライドが許さなかった私は、その度に毛を逆立てて文句を言った。
驚いたご令嬢たちが、私を触ることはなかった。
ノアは「ダメだよ」と私を戒めながらも、怒ることはなかった。
「ノア様の愛ネコなんですのね」とご令嬢が口々にいうので、私はなぜだか誇らしげな気持ちなっていた。
廊下をずっと歩いていると、警備の数が増えてきた。
近衛兵が囲んだ先に、王太子の執務室はあった。
ノックをして中に入ると、シンプルな作りの部屋だった。
もっと華美な部屋を想像していた私は、びっくりして周りを見回した。
「ノア、よく来たな」
オスカーは満面の笑みを浮かべて、ノアを招き入れた。
「オスカー兄さん、忙しいんじゃなかったのか?」
ノアは苦笑して、オスカーの勧めるソファに腰掛けた。
「まぁ、忙しいのは仕方がない。どうせ、暇なときなんてないんだから、いつ、弟と会ったって仕事には何の影響もないさ」
オスカーは肩をすくめて見せた。
いつもは丁寧な口調のオスカー様が、ずいぶんと砕けた言葉で話していて新鮮だった。
「大変だな」
ノアがねぎらうように言うと、オスカーは顔をしかめた。
「大変なのは、おまえもだろ。ノア、今はビアンカ伯爵令嬢と付き合っているみたいじゃないか」
「まぁね。でも、そろそろ、終わりにするよ。彼女、本当に何も知らなそうだ」
「ノア、そのうち、女に刺されるぞ」
「心配してくれなくても、いいって。俺は、6番目なんだから。ちょっと危なくたって大したことないさ」
オスカーが息を飲んだのが伝わってきた。
「ノア、怒るぞ」
「オスカー兄さん、そういうことを言う時って、もうすでに怒っているんだよ」
「茶化すな」
オスカーは眉間のしわを深くして、ノアを見ていた。
私は黙って、ふたりの間を視線を彷徨わせていた。
私は、ここにいてはいけないんじゃないかしら?
どうやら、ノアには目的があって女性と付き合っているようだ。
それは、王子たちの間では周知の事実のようだが、私が知ってよいことには思えなかった。
「それで、そのネコが拾ったネコか」
オスカーは話を変えようと、私に視線を向けてきた。
ノアの腕の中で小さくなっていた私は、オスカーの視線にさらに身を小さくした。
「あんまり、厳しい目で見ないでくれよ。ミルクが、怯えている」
「私は、優しくて理想の王子様だってご令嬢が目をハートマークにするんだけれど?」
「それはご令嬢向けの兄さんだろ?」
オスカー様は答えずに、肩をすくめて見せた。
私は息を飲んで、言葉を失っていた。
私が思っていたキラキラオーラを纏う、王太子のイメージと、目の前のオスカー様はずいぶんと印象が違った。
「ノアも、変わっているな。そんな野良猫じゃなくて、おまえがネコを飼いたいなら、血統書つきのネコを用意させるのに」
野良猫!?
オスカー様に、野良猫呼ばわりされたのが、胸に突き刺さった。
ズーンッと落ち込んでいたら、私の体をノアが撫でた。
「俺は別にネコが飼いたいわけじゃない。ミルクは拾ったから一緒にいるんだよ。こいつ、可愛いんだよ」
「そんなもんか」
オスカーはフンッと鼻を鳴らした。
「それに、ミルクは人の言葉が分かるみたいなんだ。だから、あんまりこいつを虐めないでくれよ」
「人の言葉が?」
オスカーは怪訝な面持ちで、私を見た。
「それより、この前言っていた、エリザベート伯爵令嬢のことはどうなったんだよ?」
ノアが不意に「エリザベート」の名前を口にした。
私はノアの腕の中でビクッと身体を震わせてしまった。
「彼女とは順調だよ。今のこの情勢からして、彼女はピッタリな王太子妃だ」
「ローズブレイド公爵家からも、打診が来ていたんだろ?」
ローズブレイド公爵家って私の家だ。
まさにこの話は私が聞いてはいけない話だと思った。
けれど、ノアの腕の中で丸くなっている今。
身動き一つできなかった。
「ローズブレイド公爵家はダメだ。あの家にこれ以上の権力を渡したら、国内が揺れる。王家の力を削ぐような家の娘とは、結婚できないよ」
「まぁ、そうだよな」
オスカーの言葉にも傷ついたが、さらりと肯定したノアの言葉にはもっと傷ついた。
「だが、ローズブレイド公爵家の娘は、私に気があるようだからな。彼女の気を悪くしないように関わらなくてはいけないから、面倒だがな」
オスカーがため息交じりに言った。
私は目の前がクラクラと揺れていた。
完璧な令嬢を目指してきた私は、王太子にとって対象外で、面倒な存在だったんだ。
これまでの努力のすべてを否定されたようで、私は吐きそうなほどに気分が悪かった。
「エリザベートは私の愛情に希望もなくて、政略結婚であることを十分に理解している。あれは丁度よい」
オスカーは女性を軽視するような言葉をさらりと口にする。
私が憧れてきたのは、こんな男だったのかと。
自分の見る目のなさに、吐き気がする。
「ミルク? なんかグッタリしてるの? 兄さん、ミルクが疲れてるみたいだから、そろそろ帰るよ」
「おまえ、私との話よりネコが大切なのか」
オスカーが呆れたように弟を見た。
「別に男女の会話じゃないんだ。変な言い方しないでくれよ。俺は可愛い女の子しか、タイプじゃないよ」
ノアは軽く手を挙げると、立ち上がった。
「オスカー兄さん、心配しなくても俺は大丈夫だ。別に、命を捨てる気もないし、十分に気を付けてる」
「おまえの言葉はいつだって、信用できない」
ノアは苦笑すると、「ごめん」と一言謝ると、部屋を出た。
廊下を歩きながらノアは何度も、私を撫でた。
気持ちの悪さを吸い取ってくれるようで、私は現状から逃げるためにきつく目をつぶって、ノアのぬくもりを堪能した。