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目が覚めた。
パチパチと瞼を何回も上げ下げしてみた。
私の視界に入ってきたのは、丁寧に編まれたラタンの壁。
バスケットの中に入った私は、目が覚めてもやっぱりネコだった。
「起きたのか、ミルク」
大きく伸びをした私を、ノアが覗き込んだ。
急に顔を近づけたノアにびっくりした私は、シャーッと毛を逆立てた。
「おい、飯食わせて、寝床を作ってやったんだから少しは可愛く鳴いてみろよ?」
「そんな媚を売るわけないでしょ」とネコ語で言い返した。
私の言葉が分からないノアは、何を思っているのか穏やかに笑っているだけだ。
「ミルク、持ってきてやるから、ちょっと待ってろよ」
ノアは私を置いて、部屋を出ていった。
背伸びをして、バスケットの中から飛び出た私は、部屋の中を見回した。
第6王子のノア。
彼の部屋は王城の一角にあった。
王子様の部屋らしく、王城の中でも日当たりのよい場所にあるようだった。
オスカー様しか目に入らなかった私だったけれど、ノア王子のことを少しは噂で聞いたことがあった。
6人の王子の内、上の5人は非常に優秀で未来の宰相やら、騎士団長やら、魔法研究者になる予定の王子たちだった。
6人も王子様がいるのに決して、跡目争いには発展せず、それぞれが各々の力を駆使して国のために活躍しようとする奇跡的なほどに優秀な王子たちだといわれていた。
その中で、第6王子のノアは異色の存在だった。
普段から何の仕事をするわけでもなく、ただ夜会を渡り歩いて、女と遊び歩いていた。
周遊で寄られた他国の姫にも手を出した時には、さすがの周囲もざわついたのを覚えている。
優秀な王子の中で、もっとも出来の悪い王子。
ノア・ディオ・グランドール。
耳に入ってくるのは、悪い噂ばかりだ。
今だって陽が高く昇っているのに、ネコ―――私の世話をイソイソとできるあたり、暇そうだ。
「おい、ボケッとしてどうした? ミルク、持ってきたぞ」
考え事をしていた私は、急に目の前に銀の皿を置かれて、飛び上がった。
「なんだ、そんなにびっくりするなよ」
私の仕草がツボにはまったのか、ノアはハハッと声を上げて笑い出した。
無邪気な笑顔は、軽々しい彼の普段の様子とはまったく違うように見えた。
「ほら、ミルク。しっかり、飲めよ」
大きな手が私の頭に触れた。
私は無遠慮な手にカプッと噛みついた。
本気で噛んだわけじゃないけれど、それなりに歯を立てたはずなのに、ノアは「こら」と優しく笑うだけだった。
「ミルクはここで良い子にしてろよ。俺はそろそろ、行かなきゃいけないからな」
ミルクを舐めていたら、ノアが腰を上げた。
それなりにめかし込んだノアは、軽薄さが透けて見えていた。
もう少し恰好も変えたら、見た目もキリッと真面目にかっこよく見えるのに。
ドアを閉める寸前に、ネコの私にウインクする姿は、様になりすぎていてため息が漏れた。
ミルクを舐め終わると、私は暇になった。
部屋で大人しくといわれたけれど、何もすることがないのは、ただ暇だ。
私はベランダに出ようと、窓を押してみた。
ネコの私の力では、窓のドアはまったくビクともしなかった。
どこか、開いているところはないか探していたら、出窓の一カ所が薄く開いていた。
前足でもう少しだけ押すと、なんとか体が通るぐらいに開いた。
外に体を押し出すと、気持ちの良い風が吹いてきた。
―――これから、どうしたらいいんだろうか。
見上げた空は真っ青に広がり、答えなんてひとつも広がっていない。
「ノア!」
不意に女性の声が響いてきた。
私がパッと足元を見下ろすと、部屋の真下には庭園が広がっていた。
どうやら昨日迷い込んだ庭園のようだ。
ノアが立っていた後ろから、どこかのご令嬢が駆け寄ってきた。
ノアが何かを言っていたけれど、さすがに彼の声までは聞こえなかった。
けれども、ノアは腕を広げるとご令嬢を腕の中に抱き込んだ。
―――さすが、軟派なノア王子。
私は眉をひそめたけれど、ネコとしてどんな表情になっているのかわからなかった。
抱き寄せられた令嬢をジッと見つめていたら、見覚えがある気がした。
どうやら、国内の伯爵令嬢のひとり、ビアンカだった。
彼女、確か、婚約者がいたはずだけれども。
ビアンカのお相手は、王家とはあまり懇意ではない侯爵家の次男だったはずだ。
そんな婚約者をもつ、ビアンカと、ノアが浮気だなんて。
バレたら、間違いなく社交界の恰好の噂話になるに違いない。
もちろん、オスカー様の妃を目指している私は、くだらないうわさ話なんて興味はないけれど。
―――オスカー様
ふと、思い出したら、重たい気持ちまで込み上げてきて、「はぁ」とネコなりにため息をついた。
ノアの姿を見ているのにも飽きて、バスケットの中で丸くなって眠った。
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「ミルク、ずっと眠っていたのか?」
面白そうに笑う声に、重たい瞼を持ち上げた。
見上げた私の瞳に映ったのは、ノアだった。
顔を上げて見回せば、部屋の中に魔法のランプが灯されていた。
もう辺りは真っ暗になっているようだった。
ノアは一体、いつまでビアンカと一緒にいたのだろうか。
ふと思ったけれど、私には関係ない話だ。
「眠ってばかりでいいのか? ネコってやつはよく、わからないな」
ノアがバスケットの中に手を伸ばして、私の体に触れた。
私の体を優しくなでるノアに反抗して、爪を立てた。
ノアは私の爪も気にすることなく、私の体を撫でまわした。
「ネコはいいな」と呟いたノアの声が、なぜか悲しそうに聞こえた。
見上げてみたけれども、影ができてノアの表情がよく見えなかった。
「にゃぁ」と小さく鳴いてみると、ノアの手が私の頭を優しくなでた。
いつの間にか、撫でる彼の手が気持ちよくて、私はまた、眠ってしまった。