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結局、湖の水でびしょ濡れになった私は、散々、侍女や執事に怒られてしまった。
世界で一番、不幸なのではないか。
神様は私に冷たすぎると、眠れない夜を過ごした私は、重たい気分で朝を迎えた。
気が付けば、カーテンの隙間から洩れ入る太陽のひかり。
ゆっくりと持ち上げた瞼の隙間から、いつもと同じ天井が飛び込んでくる。
違和感があった。
いつもと同じ―――と思ったけれど、違和感があった。
なんだろうと見上げた天井が、妙に大きく感じた。
身体を起こそうとしたら、視界に入ったのは、毛むくじゃらのネコの手。
ありえない妄想が頭をよぎって、身体がカッと熱くなった。
ベッドを降りようとしたら、妙に大きな隔たりを感じる。
怖くなりながらも、シーツに捕まりながら床に降りた。
視界に入るすべてが、見知った物のはずなのに、巨大化している。
姿見の前に立った私は、思わず息を飲んだ。
「嘘」と呟いた声が「にゃ」と聞こえた。
鏡に映っていたのは、銀色に近い真っ白い毛並みの、品のよさそうなネコだった。
ありえない―――
叫んだ声はやっぱり「にゃぁぁぁ」で、間違いなく私の姿は、ネコだった。
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私こと、シャーロットは真っ白い毛並みのネコになってしまった。
屋敷を駆け回り、侍女に、執事に「にゃぁ」と鳴いてみたけれど、誰にも分ってもらえなかった。
終いには、屋敷をポイッと追い出されてしまった。
まさか、完璧公爵令嬢のシャーロット・ローズブレイドが2本の指で、ポイッと屋敷を追い出された。
「嘘でしょ!?」と叫んでも、「にゃあぁぁ」としか聞こえない。
なんで、こんなことになってしまったのかもまったくわからなかった。
もしかしたら、完璧王太子様のオスカー様なら、私のことをわかってくれたりしないかしら?
選ばれなかったというのに、私の中で望みが生まれる。
もしかしたら、これは神様がくれたチャンスなんじゃないだろうか。
どうせ、屋敷の周りをグルグルと回っていても、だれも気が付いてくれそうにない。
私はあきらめて、王城を目指した。
王都から近い場所の屋敷に滞在していたけれど、それでもネコの足では王都の中心の王城は遠かった。
たどり着いたときには、もう辺りは陽が沈みかかっていた。
王城の周りをぐるっと回ってみると、小さなネコが一匹通れる程度の抜け道を見つけた。
頭を通して、塀の向こうを覗き込んだ。
ちょうど王城の庭園に繋がっているようだ。
身体を通して、庭園を歩き始めた。
土がジットリ湿っていて歩くと、肉球に土がついた。
せっかく綺麗な真っ白い足が汚れるのが嫌で、私は急いで庭園を駆け抜けた。
運命だ!
渡り廊下を見つけた私は、ネコ語ながら叫んだ。
廊下をゆっくりと歩いていたのは、王太子と側近たちだった。
私は王太子の傍に駆け寄ると、「にゃああぁぁ」と泣き叫んだ。
王太子が眉をひそめて、私を見下ろした。
「ネコ?」
「オスカー様、下がってください。まったく、どこから迷い込んだのでしょう」
王太子の側近が、私を手で追い払った。
それでも王太子様が側近を諫めて、私を抱き上げてくれるんじゃないかと思った。
だけど、王太子様は猫である私をすぐに視線から外して、歩き出した。
「えっ!?オスカー様!?行かないで!」
叫んだ私の言葉は「にゃぁにゃぁ」としか、聞こえていない。
側近のひとりが私をつかみ上げて、「外に放り出してきましょう」と言った。
オスカー様は、私を振り返ることなく、遠く離れていってしまう。
このままでは、王城を放り出されてしまう。
オスカー様、私に気が付いてよ! どうして、どうしてなの?
私は、絶望に押しつぶされそうだった。
「ちょっと、待ってよ」
不意に聞こえた声。
「可愛いネコじゃん? 俺が貰っておくよ」
軽い口調の声は、どこかで聞いたことがあるような―――聞き覚えのあるものだった。
「ノア様?」
私をつまみあげた側近の声に、私は、恐る恐る目を開けた。
私の視界に飛び込んできたのは、ノア・ディオ・グランドール。
オスカー様の弟で、6番目の王子。
ノアはつかみ上げていた側近から、私を受け取った。
無理に移動された体はすっぽりとノアの腕の中に抱きかかえられてしまった。
私はノアの腕の中にいることが嫌で身をよじって、暴れた。
「おっ、元気いいね」
私の様子を見て、ノアはカラリと笑った。
「大丈夫、俺が何とかしとくからさ」
少し眉をひそめていたオスカー様の側近は、ノアの右手で振り払われて踵を返してしまった。
残された私とノア。
ノアは暴れる私を抱きしめて、部屋に移動した。
ノアの部屋に入り、彼が私を離した瞬間、私は慌ててノアから距離を取った。
「元気がいいな」
「あんたに触られたくないからよ!」と令嬢らしからぬ叫び声も、どうせノアにも誰にもわからない。
甘い顔立ち。
高身長で、緩やかなウェーブのかかった髪。
末の王子であるノア・ディオ・グランドールは、天性の女ったらしと評判の王子だ。
人の姿だったとき、一度も話したこともないし、近づいたこともない。
ノアが来たら、逃げるぐらいの勢いで避けていた男だ。
分別のある独身の令嬢たちはみんな、ノアを避けていた。
遊び人のノアと関わって良いことなんて何一つない。
ネコとなった今も、できればノアとは関わりたくない。
それなのに、まさかノアの部屋に招き入れられてしまった。
屈辱だにゃ、と叫びたい。
「そんなカーテンの陰でおびえてないで、こっちに来いよ」
手を差し出された。
ノアは遠くから眺めるだけの私に、ククッと喉を鳴らして笑った。
諦めたのか、しばらくしてノアは私を残して部屋から出ていった。
ホッと息を吐き出すようにため息が漏れた。
ネコでもため息をつけるのか、変な発見をしてしまった。
少し静かになったと思ったら、再び部屋にノアが戻ってきた。
「にゃぁぁぁ」と威嚇してみても、ノアは軽く笑うだけだ。
「ほら、腹が減ってるんじゃないか?」
ノアが何かをもって、近づいてきた。
「来るんじゃないわよ!」と毛を逆立ててみた。
ノアは少し手前で立ち止まると、あたしの前に銀の皿を置いた。
中にはミルクが入っていた。
よく考えると、今日は一日、何も口にしていない。
気が張っていたのか、空腹すら忘れていた。
気が付いてしまうと、一気にお腹が空いてきた。
ノアをちらりと見上げながら、皿に近づく。
ノアが皿の前にいるから、近づくことができない。
警戒している私に気が付いたのか、ノアが肩をすくめて、距離を取った。
私は安心して、ミルクを舐めた。
いつもの豪華なディナーよりも、とびきり美味しく思えた。
王城のミルクはやっぱり違うのかしら、と首を傾げた。
「おまえ、名前はあるのか?」
離れたところから、ノアが訊いた。
食事の恩を感じた私は、ちらりとノアを見て「シャーロットよ」と答えた。
もちろん、ノアには伝わらなかったが。
「名前を表すものは身に着けていなそうだしな。野良猫にしては綺麗な毛並みをしているんだけどな」
―――あら、見る目があるじゃない?
私は毛並みを褒められて、少しだけ気分を良くした。
「真っ白い猫だからな、白でいいか」
私は目を見開いた。
嘘でしょ!?なに、その気品の欠片もないネーミングセンス!
「にゃあぁぁぁ!にゃぁ、にゃぁ」と泣き叫んだら、ノアが眉をひそめた。
「なんだよ、気に入らないのか?」
「気に入るわけないでしょ!」とネコ語で叫んだ。
「それなら、真っ白。だめか? 雪―――もダメか。おまえ、意外とわがままだな」
ネーミングセンスを棚に上げて、私を責めないでほしい。
「それなら、タマ? なんだよ。おまえ、何がいいんだ? それなら、ミルクが好きそうだし、色も白いんだから、ミルクだ」
「いやよ!私はシャーロットよ!せめて、もう少し品のある名前を!!!」
叫んだ声に対して、ノアはもう返事をしてくれなかった。
ごそごそと私に背を向けて、何かを始めた。
何をしているのか気になって、距離を取りながら、ノアの手元を覗き込んだ。
―――よく見えない。
と思ったら、ノアが振り返った。
「ミルク、今日はここで寝ろよ」
差し出したのは、バスケット。
中にはタオルを引いた簡易ベッド。
ノアはバスケットを置くと、また距離を取った。
ノアをチラチラと見ながら、ゆっくりとバスケットの中に入った。
公爵家のベッドほどではなかったけれど、それなりにフカフカのベッドになっていた。
バスケットの真ん中で丸くなると、一気に眠気が込み上げてきた。
「おやすみ―――」
ノアの声にもう一度、目を開けようとしたけれど、私はあっという間に夢の世界に落ちていった。
できれば、次に目が覚めたら、元に戻っていることを願って。