10
目が覚めた。
何度も、何度も瞬きをしてみる。
視界に入ってくるのは、見慣れた天井。
「私―――」
かすれた声は、シャーロットの声だった。
不思議に思っていると、「お嬢様!」と侍女の声が響いた。
私は体を起こそうとしたが、筋肉がまるで言うことを聞かなかった。
仕方なく、首の傾きだけで声の方を見た。
「お嬢様! 本当に良かった」
幼いころから、傍にいる侍女が、私の手を取って泣き出した。
何が起こっているのか、まったくわからず、私は呆然と侍女の様子を見つめていた。
「私ったら、嫌ですわ。すぐにご当主様方を呼んできます」
侍女は一言も発しない私を置いて、部屋を飛び出していった。
私は自分の手とは思えないほどに重たい腕を持ち上げた。
視界に入ってくるのは、小さな白い毛並みのネコの手―――ではなく、シャーロットの手だった。
華奢な手は、今までもよりもずっと細く見えた。
「シャーロット!」
部屋のドアが乱暴に開いて、どたばたといくつかの足音が響いた。
中に入ってきたのは、私の家族だった。
お父様もお母様も、憔悴しきった顔で、私を見つめている。
後ろにいるお兄様も、涙をこらえているような表情だ。
「どこにいたんだ、お前は。見つかったと思ったら、庭で死にかけているし」
―――私、死にかけていたんだ。
「高熱が続いて、3日も目を覚まさないから、どれほど心配したと思っている」
―――3日!!
どうやら、ネコの体で庭に倒れてから3日間。
高熱で倒れていたところを、家族に発見されたようだった。
「ごめんなさい」
絞り出すような声で謝ると、家族はそれ以上、私を責めなかった。
「今は、身体を休めなさい」と何度も、私をいたわってくれた。
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王城にいた私には、ネコになったあと、シャーロットの失踪がどのように扱われていたのかわからなかった。
すっかり元気を取り戻した私は、兄から失踪後のことを聞いた。
森の別荘にいた私は、失踪したといっても、すぐには公にならずに済んだらしい。
父の私兵で必死に探したが、1週間経っても、姿が見つからない。
さすがに、王家に報告しないわけにもいかないと、父も兄も覚悟を決めたとき、私が戻ってきた。
ふたりは何度も、私に「どこに居たのか」と聞いた。
ネコになっていました、なんて、いくら何でも摩訶不思議な話。
本気で取り合ってくれるとは思えずに、覚えてない、の1点張りで通した。
記憶をなくしてしまったのだ、と勝手に納得してくれた家族に、私はホッと息をついた。
しばらく、家で養生していた私だけれども、心の中ではずっとノアの様子が気になっていた。
可愛がっていたミルクが急に、姿を消したのだ。
ノアがショックを受けないはずはなかった。
私は兄にお願いをして、ノアの出席する夜会を調べてもらった。
夜会に出たいと家族に言うと、家族は「まだ早い」と何度も止めた。
けれども、もうすっかり、身体の調子は戻っていた。
屋敷にいても気が滅入るだけだと、説き伏せて、ルドルフ兄様付き添いの元、夜会に出ることが許可された。
煌めく豪華なシャンデリア。
輝きは月明かりに照らされて七色に光っている。
まるで、湖の魚のうろこの輝きのようだった。
「あまり、俺から離れるなよ?」
ルドルフ兄様は少しでも、私が視界から離れると心配なのか、何度も私を振り返るようにしてみていた。
ノアを探したい私としては、少々、邪魔にも思えたけれど、ルドルフ兄様の気持ちも十分にわかっていたから何も言えなかった。
「ちょっと、待っていてくれ」
兄が婚約者の姿を見つけて、挨拶に行くと言った。
本来ならば婚約者をエスコートしなくてはいけないのに、ルドルフ兄様は私をエスコートしている。
婚約者も近親者と参加しているとはいえ、兄は挨拶し、1~2曲踊る必要があった。
私は「大丈夫。無茶はしないわ」とルドルフ兄様を安心させるように、微笑んだ。
何度も心配そうに見ていたルドルフ兄様だったけれど、婚約者の手を取ると、ダンスの輪の中に吸い込まれていった。
―――今がチャンスだ。
私はノアの姿を探した。
比較的、大きな夜会だ。
人が多くて、ノアの姿はすぐには見つからない。
不本意ながら、女性の視線を追っていけばノアにたどり着くだろうと、熱い視線の先を探した。
不本意ながら、ノアを見つけた。
ノアは、ビアンカでも、キャサリンでもない女性と談笑していた。
けれど、時折、真顔に戻ってため息をついている姿が見えた。
もしかしたら、ミルクがいなくなったことをショックに思ってくれているのかもしれない。
私の心臓が、コトリと跳ねた。
「ノア様」
私はノアの傍に歩み寄ると、突然名前で呼んだ。
紹介も受けていない未婚の貴族女性としては、礼儀知らずと取られてもおかしくない行為だ。
ノアが目を見開いて、私を見た。
「ローズブレイド公爵令嬢?」
オスカー王太子と私の話をしていたぐらいだ。
私のことは認識していたようだ。
しかしながら、これまで一言も話したことがない、私が突然名前を呼んだので、驚いていた。
「ノア様、一曲、踊ってくださいませ」
本来ならば男が誘うダンスを私が誘った。
断られるかもしれない、とドキドキして心臓が口から飛び出しそうだった。
一拍開いた間が、まるで一生の時間のように感じられた。
「いいよ。踊ろう」
ノアの中でどのような計算がなされたのかわからない。
少なくても、私のダンスの誘いは断られなかった。
ノアと一緒にダンスホールに出る。
彼のリードで身を寄せ合って、踊りだした。
近くに来ると、彼の匂いが香った。
慣れたその匂いが、私を安心させてくれる。
もう彼が撫でてくれた白いフワフワの毛並みはない。
あるのは銀色に輝くこの髪だけ。
もし、ノアが私の髪を撫でたいと言ったら、すぐに頭を差し出すけれども、私の気持ちなどノアには少しも伝わっていない。
ノアは誰にでも見せる笑みを張り付けて、私を見ている。
普通の女性ならば、キュンッと胸を高鳴らせるところだけれども、ノアの本当の顔を知っている私の心は少しも揺れなかった。
1曲で終わらそうとしたノアを、ちょっと強引に足止めして、私たちは2曲、ダンスを踊った。
疲れた、とダンスホールを抜けた。
私は「夜の風に触れたい」と男性を誘うようなセリフを口にした。
ノアは怪訝な面持ちで私を見下ろした後、「では、エスコートします」と私の手を取った。
私の思惑が分からずに困惑している様子が分かる。
何か目的があって、私が近づいてきたのではないかと勘繰っているのかもしれない。
確かに私は、思惑があって、ノアに近づいている。
ノアと二人で庭園を歩き出す。
密会するには恰好の庭は、秘密の関係の男女がたびたび、庭を楽しんでいる。
本来ならば、男性と二人きりで庭に出るなんてしてはいけない。
しかし、ノアと二人ならば話は別だ。
ノアとならば、間違いが起きても良いと心から思っている。
「シャーロット様、とお呼びしてもいいですか?」
無言で歩いていたノアが、急に私の名前を呼んだ。
いつもは、ミルクと呼んでいた声で、私の名前を呼ぶ。
「はい、ノア様」
私は夢見心地で答えた。
「急にお誘いを受けたので、びっくりしました。シャーロット様は、本当ならば、俺の兄と庭園を歩きたかったのではないですか?」
ノアが探るような視線を向けてくる。
「いいえ。間違えたわけではありません。私はノア様をお誘いしました」
私がきっぱり言うと、ノアが眉間に皺を寄せた。
「私、ノアと一緒にいたかったんです」
急な私の言葉に、ノアは怪訝な面持ちを浮かべている。
きっと、私の態度を怪しんでいることだろう。
本来ならば、もっとゆっくりと関係を築かなきゃいけないってわかっている。
けれども、ミルクを失ったノアの傍に、早く行きたかった。
私はノアに向かって、満面の笑みを浮かべた。
「本当は誰よりも、優しくて、誰よりも人を見つめて、大切にするノア様。それでいて、ご自身のことは無頓着なノア様。私、ノア様と一緒に生きたいんです」
「はっ?」
ノアの顔から表情が零れ落ちた。
あまりの衝撃に、フェミニストなノアの仮面が崩れ落ちている。
「だって、ネコにも優しくて。いつでも、可愛がってくださったし」
「はっ、それ一体、どういう―――」
「ノア様、覚悟をしてください。今は私を好きじゃなくても、必ず、私を好きにさせてみせます」
完璧な公爵令嬢 シャーロット・ローズブレイドの名に懸けて
胸を張った私に、ノアは何度も目を瞬かせた。
好きです、と続けると、ノアはただ息を飲んだだけだった。
私の思いも、疑っているのかもしれない。
突然、目の前に現れて「好きだ」と求婚する女なんて驚き以外の何物でもない。
それでも、この思いは本物だと分かってほしかった。
月明かりの下、胸を張って想いを告げた。
この想いだけは疑ってほしくなかった。
ノアはしばらく、私を見つめていると、不意に大きく深呼吸をした。
「シャーロット様、俺には何が何だかよくわからないんだけれども」
それはそうだ。
じっくりと積み上げた私の気持ちは、ミルクとノアの関係の中で築かれたものだ。
ノアとシャーロットには何の関係もないんだ。
「けれど、君の瞳に偽りがないことはわかる」
「ノア様―――」
「俺には今は返せる想いはないけれど」
ノアは髪をかきあげながら、苦笑して言った。
「シャーロット様、お手柔らかに」
ノアの言葉に、私の弾んだ心は天にも昇りそうだった。
「ご覚悟を」
覚悟を持つべきは、私かノアか。
―――目が覚めたら、ネコになっていた私。
もう一度、シャーロットに戻ったとき、最高の恋人候補を見つけた。
次に時が経ったとき、ノアのお嫁さんになれるように、私、頑張ります!