悲しみ私
短編集の方にもあげていますが、こちらの方が読みやすいと思います
今考えたらあれは夢だったのではないかと不思議に思う。
俺は昨日赤くて四角い箱を渡された。どこにでも売っていそうなそんな箱。
片手には乗らないけど両手には乗るくらいの大きさだった。
ただ、昨日この箱を渡したあの人は僕に向かってこう言ったのだ。
「この箱には悲しみが詰まっているのさ。」
―――悲しみ。
俺にこれ以上の悲しみを渡して何になるのだ?
そう思って俺はかたくなにその箱を受け取ることを拒んだ。
しかし彼女の言葉には続きがあった。
「これをある少女に渡してほしい。この町のどこかに住んでいる茶色く短い髪の小柄で10歳の少女に。きっと君にはその子が分かるさ」
つまり、その人が言いたかったのは『君に配達を依頼したい』という事だった。
「ここはぜひ頼まれてくれんか? 少年、頼む。」
その人の目は大人の女性らしくキリッとしていた。そして、筋の通った鼻も印象的だった。
「まあ、そのくらいなら…」
俺の心は人一人助けることもできないような、冷たいモノではないと信じたかった。
だから、俺はその箱を受け取った。
コップにいっぱいいっぱいの水を、こぼさないよう注意にして運ぶときのように、慎重にその箱を両手で包み込んだ。
「……今考えると、何で受け取ったんだろ」
大きなため息を一つつきつつ、机に額を押し付ける。
そういえば、この赤い箱は中身が何も入っていなかった。
何とか太郎の玉手箱みたいに、開けてはいけないなど、一言も言われていなかったから、昨日本人の前で容赦なく開けたのだ。
何も入っていなかった時は悪い商売を見破ったような気になって嬉しかったのだが
彼女は真顔で当たり前の様に
「感情だから見えないに決まっているだろう?」
そう返した。
―――いやいや、感情だから箱に詰めることも渡すことも出来んでしょ!
俺はそう思ったが、何故かその意見がひどくつまらないような気がしてきて、黙ってそれを引き受けた。
※ ※ ※
「……という訳さ。」
「……どういう訳よ。」
この話をクラス1の優等生に話したら、理解してもらえませんでした…。
「何でそこで受け取っちゃうかなあ…。」
「ひ、人助けだろ? 俺ってやっぱり善人なんだよ。」
「そうじゃなくてね。君って本当に物わかり悪いんだから…」
―――君は自分一人で出来ないと思ったから私を頼っているんでしょ? 自分に出来ない事は出来る人に任せる。問題を増やさないようにしましょう。
呆れられ罵られ、挙句の果てにはお説教をされた。
その間、僕は「はい。はい。はい。」と、相づちを打つことしかできなかった。
彼女の名は立花 渡。
黒髪ロングの清楚系女子。そしてなにより、この正論を述べる姿と委員長感は流石優等生と言うほか無い。
そんな彼女に、いまいち冴えない俺が何故話しかけているかというと、自分が一人で人探しなど出来ない、出来るわけが無いと決め込んでいたからだ。
つまり俺は彼女にその少女探しを手伝ってほしいとお願いをしている。
しかし何だろう? 先程彼女を呼び止めたら立ち話もなんだからと言われ、今現在俺と彼女はみんな帰った放課後の教室で机を向い合せて話している。ただ、先生と生徒の二者面談感が否めないのだ。
何ですか、俺何かしましたか? え、知らない人からは何ももらってはいけない?
「本当にすいません…」
俺は再度机に額を押し付けた。そしてついでにこすり付けた。
「もう、しょうがないので手伝ってあげます。」
彼女はそう言いながらゆっくりと立ち上がる。肩から前に垂れた黒髪は、夕日に照らされてとても綺麗だった。
ぼおっと見とれていると、彼女は前かがみになって僕の顔を覗いてきた。
「何をしているの? 早く行こうよ」
「え? 行くってどこに」
自分の顔が赤くなるのが分かり、俺はとっさに彼女から目をそらす。
この人しっかり者のフリして、意外と天然だ!
しかし彼女は再びしっかり者の顔に戻り、僕をこれまたと叱りつけた。
「その女の子探しに決まっているじゃない。行動は早く起こさないとだめだよ。」
「ええ、今から!?」
明日は休みだから、てっきり明日探すと思っていた!
俺は目を見開いて渡さんを見つめるが、それでもお構いなしに彼女は机を所定の位置に戻し、何を思ったか黒板を綺麗に消し直し始めた。
「消し終わる前に準備しないと置いて行くからね」
俺は、笑顔でそう言う彼女を見て、完全に立場の上を取られている事を痛感した。
※ ※ ※
葉が夕日に照り返され、どこからともなくコロッケやカレーの良い匂いが鼻をくすぐる。そんな夕食の時間。
僕は彼女と二人歩きながら他愛も無い会話を交わしていた。
「渡さんって親切だよな」
「急に何よ?」
「いや、仮に俺が逆の立場だったら絶対に助けない。うん。断言できる」
「それをはっきり言える君は大したものだよ。逆に尊敬しちゃう。」
「そんな大したものでは……あるけど。」
「すいません。茶色く短い髪の小柄で10歳くらいの女の子を見かけませんでしたか?」
「をい……」
さらっと無視をされ、そんな彼女を諦めて暇を持て余した俺は箱について考える。
悲しみを与えるという事は本当に必要なことなのだろうか……と。
憶測だが、俺達が探している少女は悲しいという感情を持っていない。
でも、何らかの理由で必要になった。
あの人は何らかの理由で少女に会うことが出来ないから一旦俺に渡した?
その前に悲しみが必要な場面なんてあるのか?
俺がぐだぐだと考えていると彼女が肩をすくめて俺のもとに帰って来た。
「あの人も知らないんだって。 で、何の話だっけ?」
「…渡さんって悲しみについてどう思う?」
唐突に聞いた気まずさからくる、行き場のない罪悪感を紛らわすため、辺りを見渡しながらさりげなく彼女に尋ねる……風を装った。
「悲しみ…心が痛いよね」
彼女もいつもと変わらず明るく上がった声で答えた。さりげなく。
この人は気を使うことも出来るのか…
俺の深読みしてほしくない願望を、彼女は瞬間的に読み取ったらしい。
「そうか。俺は悲しみなんていらないと思うなあ…」
この時間は小学生の下校時間は終わっている。見かけるのは友達とかいう希少価値な存在と遊んでいる小学生だけ。
「私はその意見には反対かな。でも何でそんなこと思うの?」
信号の前に立ち止まり、彼女は俺を見上げて聞いてきた。
「何事も楽しいのが良いじゃないか」
「じゃあ君は本を読むことが楽しいのね」
何だろう、それを言われると友達がいないみたいで悲しい。
しかし彼女はそんなことお構いなしに、何なら少し楽しそうに俺をからかってきた。
「君って甘いお菓子は好きだけど苦いコーヒーは嫌いでしょ」
「おい何の話だよ…」
「あはは、図星かな?」
確かに彼女の言うとおり、俺は甘い菓子は好きだけれど、苦いコーヒーは嫌いだ。
わざわざ苦い物、辛い物を好む意味が分からない。
甘い所だけ、幸せな所だけで良いじゃないか。
そんなあまり良しとはしない考えを、俺は持ってしまった。
信号が青に変わる。前に進めと言っている。
「あの、茶色く短い髪の小柄で10歳くらいの少女を知りませんか?」
彼女に任せきりではいけないので、横断歩道を渡り俺も手当たり次第に聞いて行く。
「ううん、見たような…見ていないような…。どうだったかしら」
やっぱり情報量が少ないよなあ。 どこにでも居そうな特徴だもんな…
ってそんな失礼なこと俺が言える立場じゃないか。
「ごめんなさいね お役にたてなくて」
「いえ、有難うございました」
その後も少女の目撃情報を、一日にこんなに人と話したのは初めてだというくらい聞いて回り、少し暗くなってきた頃。もう見つからないのではないか、そう思った。
そしてまた赤信号に捕まってしまい、待っていると渡さんが突然こう聞いてきた。
「ねえ、君って何でそんなに悲しみを嫌うの?」
真っすぐな目で見つめられてドギマギするが、その感情は甘酸っぱいものでは無く、何処か苦いモノを含んでいた。
「聞いても何も楽しくないと思うぞ」
「いいの、私は聞きたいの。君の事が知りたいの。」
そして、返答に逃げた僕を、見送るように彼女は甘くは無かった。
俺の事が知りたい…か。
その時、ちょうど信号が青に変わった。当然の様に止まっていた人の流れがまた動き出す。
皆どこに向かって、どんな気持ちで歩いているのだろう。
俺は別に悲しみを嫌っているわけじゃない。ただ…ただ…。
「渡さん、この先の公園に行こう」
俺は皆を追い越し走り出した。
「えっ、ちょっと待ってよ!」
※ ※ ※
公園に着くや否や、俺達は遊具に心を振りもせず、真っ先にベンチへ向かった。
そして、彼女が赤い箱を見たがったので鞄からそれを出して渡す。
「この箱、本当に何も入ってないね」
「そうなんだよな…でもここには間違いなく悲しみが入っている」
「目に見えることが全てじゃない…と?」
上手いこと言うじゃない と意味ありげに彼女は笑った。
そんな難しいこと以前に、あの人がそう言ったのだからそうだろう。……多分。
俺は赤い箱を彼女から返してもらい、膝の上に乗せた。
「渡さん、俺の事を知りたいって言ったよな?」
「うん言ったかも。 何か恥ずかしいね」
「俺は、小さい頃に母親を亡くした。」
「……うん。」
俺の唐突な話に、彼女は自然に相づちを打った。本当にこの子は空気が読めるな。
その死は唐突だった。事故死で、居眠り運転だった。
俺はその日絵のコンクールに入賞し、その嬉しい報告をする為に母の帰りを待っていた。
―――が。その報告は永遠に出来ない事になった。
「落ち着いて聞きなさい」
そういった父の声がもう落ち着いていなかった。
今すぐ病院に行けるように準備しろと言われ、言われるがまま車に乗り込んだ事は覚えている。そのピリピリと肌に突き刺さるような今まで体験したことのない雰囲気に、何となく察しがついた。……しかしその言葉を口にすることは恐ろしくとても言える雰囲気ではなかった。子供の俺でも、いや子供だったからこそ思う事があったんだろう。
―――そしてやはりその予感は見事的中した。してしまった。
式の事はあまり良く覚えていない。受け入れられないまま、知らない人たちから慰めの言葉を沢山もらって、バタバタと父の手伝いをしていたことくらいしか覚えていない。
そのときに俺が手伝いをしないとダメなんだと、甘えることを忘れた気がする。
その日から俺の父は変わった。俺の前では平気そうな顔をしていたけど毎晩泣いていた。その嗚咽が聞こえてくるたび何でこんなに悲しい目に合わないといけないんだろうって
母が生きていれば幸せで楽しいままだったのに……って。
「あの頃は小さかったから、考えはそんな単純なことだったんだ」
「確かに単純だねえ、でもそれはいい考えだ。」
彼女はうんうんとうなずきながら何かを考えていた。俺は続ける。
で、悲しいから笑えない、飯…は無理やり食ったけどおいしくない。
学校でも暗いままだ。皆離れて行った。心配なんてしてくれなかった。
いや、していたとしても相談なんて聞いてくれなかった。
通知表には「もっと明るく外で遊びましょう」と書いてあった。
それを見た父は俺を心配した。互いに自分自身に責任を感じた。
もう飯は喉を通らなくなっていた。
「全てを狂わせるんだ。悲しみは。」
「だから嫌いなの?」
「嫌いとは違うと思っていたけど……やっぱり嫌いだった。」
俺は赤い箱の蓋を開けた。
やはりそこには何もなかったがさっきとは色が違って見えた。
「私、何だかその箱には本当に感情が入っているんじゃないかって思い始めたよ。」
「そっか。」
彼女は首をかしげた。右手を顎に当て目をつむり、足を組んで考えていた。
考える人になっていた。
「でもどうだろう? そこには悲しみよりもっと大きな感情が詰まってるんじゃないかな」
「なにを…」
馬鹿なことを。
あの人は悲しみが入っているといった。間違いなく。
じゃあ、それより大きな感情って何だ?
悲しみは、楽しさも嬉しさも幸せも笑顔も飲み込んでいくんだぞ。それより大きいモノなんてこの世に存在してるのか?
「ねえ、もう今日は帰らない? 明日休みだし続きはまた明日と言う事で。」
彼女から突然の提案。
「俺は元から明日探すつもりだったんだけど…」
「何か言った?」
「何でもねえよ、じゃあ帰るか。」
俺は箱を鞄にしまい、しっかりとジッパーを閉じて今度は俺が先に立ちあがった。
もう公園の街灯がついている…… 時間を忘れて話す事なんて何年振りだろう。
「じゃあまた」
「じゃあまた」
彼女は俺の言葉をそのままそっくり真似し、軽く笑顔を浮かべながらパタパタとかけていった。
※ ※ ※
「箱が……無い!?」
無い無い無い無い無い!
ぐっすり寝むれぬまま次の日の朝だ。 少しばかり目がはれていたように思える。
待ち合わせの時間に向けて余裕を持って準備していた矢先、入れていたはずの箱が無いことに気付いた。
公園に忘れてきたかもしれないと思ったが、箱を鞄に入れた記憶ははっきりとある。
「うそだろ…」
俺は落胆するしかなかった。
必要としている人がいるのに、それを失うなんて最悪だ。
状況も。自分も。
いったん寝るか? いったん寝よう!
……いや、ぐっすり眠れなかったのにこんな状況で眠れる訳ない!
1人でノリ突っ込み出来るくらい俺の頭はおかしくなっていたのは間違いない。
その時、一通のメールが手元に届いていた事に気が付いた。
『探していた女の子見つかりました。すぐに昨日の公園に。』
はっ……
シンプルな文面。その内容からわかるように、送り主は立花渡
しかし、俺は正直喜べる情報じゃなかった。
箱が無くなったのであれば、少女に合わせる顔が無い。
「うそだろ…」
二回目のそれは一回目の時より、重く口から出て行った。
もう行くしかないのか…
見つけてくれた渡さんの事を思うと、ここで行かないなんて選択肢は残っていない。
俺はしぶしぶと、でも素早い動きで言い訳を考えながら公園に向かった。
※ ※ ※
「君が、悲しみを必要としている子…」
「千映っていいます。」
公園につくと、立花渡がベンチに座っていた。しかしその隣に俺の座る場所は無い。
何故ならそこには少女が座っていたからだ。
その子は本当に茶色く短い髪の小柄で10歳くらいの少女だった。
どこにでも居そうと言っていたが間違いなくこの子だ。そう思う理由は分からないが、男なら大半は持っている根拠のない自身というやつなのだろうと、無理やり納得させた。
「千映ちゃん、君に渡さなければいけないのもが有るんだ。」
でもごめん、もうそれはここにはない。
……そう言いたかったのに、言葉が出なかった。胸に何かが溢れてきてその言葉はせき止められ、上手く息が出来なくなる。
「お兄さん?」
そんな俺を心配したのだろう。千映ちゃんが心配そうにこっちを見てきた。
幼い少女に必要なものを渡す事も出来ないだなんて最悪だ。無くしたなんて言えない。
長年俺に取り付いてきた感情は簡単には離れてくれなかった。
そこで俺はふと思った。箱があったとして、俺は本当に少女に悲しみを与えただろうか。そんな残酷なことが出来たのだろうか。
そう考えると俺の口が急に動き出した。というか、気が付いたらもう動いていた。
「千映ちゃんは、悲しいって事分かる?」
気が付いたときにはもう遅かった。
何言っているんだ自分。悲しいという事が分からないからこうやって会いに来てくれて悲しみを欲しがっているのだろう。
勿論少女の答えも分かっていたさ。
彼女は目を軽く伏せて
「いいえ、」
と答えた。
そうか。
「俺には分かるんだ。悲しいっていう感情を持つことはとってもつらい事なんだ。楽しいって感情を忘れるくらいに。」
千映ちゃんは黙って聞いてくれていたので、俺はベンチの前に腰をおろし、下から見上げる形で言った
「君に悲しみを伝えたいんだけど、本当に受け取るのか?」
彼女は眉をよせて不安……いや、怒っているような感情を表に出した。
悲しみを持ち合わせていないがための副作用なのだろうか、少女の感情はどこかずれているような気がする。
「欲しいです。悲しみを知りたい。」
と、言われましても。
もう僕の元には箱が無いのです。
救いの手を求めるように渡さんにちらっと目を向けるが、彼女は「良かった」とほっとした表情を浮かべていた。 これで千映ちゃんが救われる! そんなことを思っていそうな顔だ。
「早く下さい」
千映ちゃんは僕に向かって上から両手を出した。
そして、少女はその時泣きそうな顔をしたのだ。
その瞬間。見逃すはずがない。自分にずっとまとわりついていて、長年お世話になっていた感情の事を
忘れるわけが無い。 副作用じゃなかった……
俺は一つ決心をして彼女の手をそっと握った。 そして。
「今、預かった悲しみを君に与えている。」
-――嘘をついた。
このとき、渡さんがどんな表情をしていたのかを想像すると笑えてくる。
急に変わったことを言い出すんだもん、相当おかしかっただろうな…
俺は少女の手に沢山の思いを込めて。そして今までの自分に思いを伝えて。
そして今度はゆっくりと手を離した。
「はい終わり……って、千映ちゃん?」
おそるおそる千映えちゃんの顔を見た。
「千映ちゃんど、ど、どうした? はいティッシュ!」
「いや、そこはハンカチじゃないのか!?」
「そ、そうだね! はいハンカチ」
……慌てすぎだろ。
自分でもそう思ったが、仕方がないとも思う。
だって顔を上げたら泣いていたんだ。
―――すごい、すっごい、泣いてたんだ。
「箱なんて関係なかった…」
一気に緊張やら不安やらが解けたのに、安心しすぎて心が遠くに飛んで行ったみたいだ。
そんな放心状態の俺に、半泣きの渡さんが話し始めた。
「千映ちゃん、お母さんに大切に育てられていたから、悲しみを教えられなかったんだって。だからお母さんが亡くなったときも泣けなかったらしい。お母さんの死を悲しみたかったって、凄く悔やんでいたんだよ。」
「あっ、ありがとうっ、ございます私に…私にっ…!」
「もう無理すんな、おちつ……」
落ち着け。なんて、この場じゃ言える訳ないか。
俺は千映ちゃんが心の底からスッキリするまで、泣いている姿を見守った。
「ちなみに、君はどうなの?何か変わった?」
声をからして泣き叫ぶ千映ちゃんを見て思った。
「悲しみも悪くない…かも?」
「君も成長したねえ、嬉しいよ嬉しいよ」
多分、この世の中、苦い所も甘い所も必要なんだ。
バランスよく釣り合っているから幸せって心から思えるのかもしれない。
今度プリンを食べてみよう。カラメルが半分くらいを占めているのを。
どんな味がするのか、どんな気持ちになるのか
「多分甘い所が多い方がおいしいって言うんだろうな」
それもいい経験。おいしくなければ無理に食べる必要はない。
しかし、そこに初めて渡さんが空気を読まない発言をした。
「そういえば箱は?」
「……無くした。」
「はあ!?」
なんでよ、馬鹿じゃないの! と、俺は彼女に叩かれに叩かれた。
それでも箱なんて関係なかった。元からあの中には感情なんてなかったんだ。
そして千映ちゃんはもうすでに悲しみを持っていた。その存在を知らなかっただけ、その存在を認めることが出来なかっただけ、その存在を表にだす方法が分からなかっただけ。
「言われてみればそう思えてくる。そんなのが世の中多いんだろうな」
「そうかもね」
ん、言われてみれば……?
俺は勢いよく涙にぬれた千映ちゃんを見た。
彼女は、きょとんとした顔で俺を見つめた。
「あああ! 俺に悲しみを渡した人に似てる、そっくりだ!」
少女の目はあの箱を渡してきた人の様にキリッとしていて、筋の通った鼻もそっくりだ。
「そう、なんですか?」
「ああ、凄い似ている。」
「じゃあ、それはお母さんだったのかもしれませんねっ!」
涙を拭いて彼女はそう言った。
泣いた後に笑った彼女の笑みの方が、何倍も何倍も素敵だったのは言うまでもない。
悲しみは幸せを引き立てる。
悲しみは喜びを倍増させる。
一概に悪いわけではないということを俺は知った。
だから、いま悲しくても大丈夫だ。それはきっといい経験値となるだろう。
母が生きていたら命の大切さを知らなかったかもしれない。
人の悲しみが、痛みが、分からなかったかもしれない。
結局無駄なものなんてないと。あの箱を思い出しながらそう言った。
その日は、今までにないような晴れ渡った青空だった。
―完―