part.4
「あれ、クラス委員長よね」
「ああ、石田だな」
カツアゲだろうか? リーダーらしきがたいのいいやつが、何かを喋っているみたいだった。人目を引くからな、石田は。ちょっとしたことで絡まれたんだろう。石田はといえば、普段の覇気はどこへやら、後ろ姿から見てもすっかり情けない様子だった。
「先生呼んできたほうがいいかな……って、ちょっと」
慌てて小宮が言うのも無視して、僕は空き地に入っていく。
不安と恐怖心がおなかの下の方から湧き上がってくる。でも、止められなかった。つい、足を踏み出してしまった。
不良どもが僕に気づき、一斉にこっちを見る。うわあ、やる気満々かよ……。ここ最近で最高に嫌な感じを味わいながら、僕は後ろから石田に近づいていって、手をつかんだ。
「おい、石田。帰るぞ」
「ひっ、ごめんなさい……って、え? なんだ?」
端正な顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。よほど怖かったらしい。どれだけびびりなんだよ……。クラスの女子が見たらどう思うか。でも、もともと石田はこんなやつだったのだ。まだ僕の方が背が高かった、あの頃の話だ。
「おい、お前誰だよ」
周りにいた取り巻きっぽい不良がつかみかかってくる。
「うるさい。黙れ。おい石田、さっさと帰るぞ」
「この野郎!」
殴られた。石田の手を離してしまって、地面に倒れ込む。続いて何度か全身を蹴られる。息が止まる。苦しい。
リーダー格の不良が「その辺にしとけ」と一喝した。
「お前、自分の立場分かってんの?」
なんとか立ち上がって、
「ふ、ふざけるな。お前らこそ、弱いものいじめかよ、寄って、たかって」
ダメだ、うまくしゃべれない。声が震える。足も、震えそうになる。
「おい、ちび。口の利き方には気をつけろよ」
リーダー格の不良が気色ばんだ。くそ、こいつ人には止めさせるくせにすぐに逆上してやがる。
蹴られる、と思った瞬間、腹部に衝撃。避けられなかった。膝が身体に刺さり、がすっ、と鈍い音がする。予想以上にきつい、これは。
息ができない。猛烈な吐き気。苦しくて身体を折り曲げるが、胸ぐらを捕まれて、それはかなわない。そのまま連続して腹を殴られる。いや、もうどうなっているのか分からない。ただただ苦しくて、泣きそうになる。ごめんなさい、許してくださいと、叫びそうとしたが、相手はそれを許さない。
僕は苦し紛れに、胸元に伸びる手に噛みついた。
「痛! ……お前!」
急に自分の身体をつかんでいた感覚が消えて、よろめく。なんとか踏ん張って、相手を見る。不良は、急な反撃に、我を忘れて怒り狂っているようだった。カチン、と音がした。僕の目は、その一点に釘付けになる。
不良は、片手にポケットナイフを持っていた。今のはそれを開いた音だった。やつはナイフを振り上げた。
目の前が、真っ赤に染まる感覚があった。おい、嘘だろ。
殺される。
不良が、ナイフを振り下ろしてくるのが分かった。かまわず、僕は拳を強く握りしめ、不良に向かっていく。なんとしてでも一発、その顔にたたき込んでやらないと、気が済まないと思った。なぜか、そう思った。
今思えば、長年僕を悩ませた「現象」といい、今回のことといい、なにか大きな力が働いていたとしか思えなかった。もしそうだとしたら、悪い神様に違いない。僕は無神論者だけど。
顎が砕けるかと思うほど歯を食いしばり、爪が皮膚を食い破るかと思うほど拳を握りしめた。もう周りの音など何も聞こえない極限の世界で、しかしそのとき僕は、その声を聞いた。
「じゃんけん!」
一瞬のことだった。嫌な感触と、音がした。何かが、僕の左胸をたたく。と同時に、僕の右拳が、硬いものを打っていた。
急に視界が晴れたようになって、僕は目の前に泡を吹いて倒れている不良の姿を認める。信じられないことに僕はあの体格のいい不良を、一発でノックアウトしてしまったらしい。まじかよ。うまい具合に顎をかすったのか。脳震盪を起こすと聞いたことがあるけど……。相手は相当運が悪かったらしい。
僕は、左胸に手を当てる。そこにはナイフが刺さっていて血の染みが広がりつつ……ということはなかった。無傷だ。どくどくと、心臓の鼓動が伝わってきた。
不意に、先ほどの大声のことが頭に浮かんだ。じゃんけん。
僕は運良く、拳で相手を殴り倒した。ナイフで刺されてもいない。なぜか? 不良が、ナイフを取り落とした……。
不良はナイフを握りしめていた。僕も、拳を握りしめていた。まさか。
とんでもない、全く信じられない発想だが、これは、「あいこ」と考えられないだろうか? グーとグーで、あいこ、だ。あの、「じゃんけん」という大声で、「現象」が起こっていたのだとしたら?
僕がじゃんけんに負けるように、相手の手の形が変わる。グーからパーに。
こんなのは、ほとんど偶然だった。僕が不良に殴りかかったことも、こんなことを思いつくようなやつも、正気とは思えない。しかも、さっき思いついたばかりのことを、とっさに応用しやがった。お前は、恐ろしいやつだよ。
僕の「現象」にとんだ解釈を与えた人間を、僕は一人しか知らない。
「小宮!」
僕は後ろにいるはずの小宮を、振り返る。
小宮は、空き地の入り口でうずくまっていた。おなかを抱えるように……。
血の気が引いた。やばい。なんだ。なにか、大事なことを見落としている気がする。
あたりを見渡す。残りの不良は、思わぬ僕の反撃であっさりリーダーがやられたからか、目が合うと慌てて逃げ出した。しかしそんなことは眼中になかった。ナイフが、どこにもなかった。まさか。
「大丈夫か、小宮!」
僕は空き地の入り口に向かって、走り始める。
「小宮!」
たどり着くまでに、ひどく長い時間が過ぎたように思われた。
小宮は、手でおなかを覆っていた。地面に、ナイフが転がっている。やっぱり、ここまで飛んできていたのか。
「大丈夫か! 痛くないか! 救急車呼ばなきゃ……!」
「大丈夫。怪我はない」
小宮は手をどかした。
制服は、きれいなままだ。はっとしてもう一度ナイフを見る。血は付いていない。最悪の事態は避けられたようだった。
「てっきり、飛んでったナイフが小宮に刺さったのかと……」
「そんなこと、あるわけないじゃん」
小宮はそう言うが、顔が引きつっていた。よっぽど怖かったのだろう。
「良かった……」
思わずほっと息が漏れる。
「それより、大丈夫?」
小宮が心配そうな顔で尋ねる。ああ、かわいいな。ほっとして、そんなことを思ってしまう。僕は得意げな顔で答えた。
「大丈夫。小宮のおかげだよ。あの声のおかげで、やつはナイフを取り落としたんだ。グーとパーか。考えたよな。お前は天才だよ。
それにありがとう、てっきり、先に帰ったかと思った。さっきはいきなり話も聞かずに飛び出して、ごめん。ああせずにはいられなかったんだ。謝るよ。でも、めちゃくちゃ怖かった。痛かったし、泣きそうだ。小宮のおかげで助かった。ほんとごめん。ありがとう。だから……」
「それより、右手」
「へ?」
思わず喋りまくってしまった僕に少々引きながら、小宮は言った。急に右手に痛みを感じる。あれ?
見ると、僕の右手が、びっくりするくらいに腫れ上がっていた。
右の拳は骨折していた。
すぐに近くの病院に行き、ギプスで固定してもらった。二、三週間で治るということだ。まあ、治るような怪我で良かった。小宮に何かあったら、僕はずっと後悔しただろうからな。
小宮と別れたあと、石田は僕に謝った。
ていうかお前、いたのかよ。ずっと空気だった。いや、いけないな。一応病院までついてきてくれたわけだし。
石田は深く頭を下げて言った。
「ごめん、巻き込んじゃって。怪我までさせちゃって……」
「いいよ、たいしたことない」
僕はそっぽを向きながら答える。
あのとき、なにも僕が飛び出していかなくても、警察を呼ぶなりすれば良かったのだ。それに、なにやら石田には事情がありそうだった。優秀な石田のことだ、自分でなんとかできたとも思う。僕はいらぬお節介をしただけだ。
くそ、やっぱりこいつが前だと素直になれない。それなのに、石田はこんなふうに謝るのだ。
腹立ち紛れに、僕はとんでもないことを口走っていた。
「久しぶりに、晩飯食いにこいよ。母さんが喜ぶから」
「え……?」
びっくりしたように石田が言った。
「母さんたちには言わなくていいけど、僕には事情を教えろよ」
そう言って石田をにらむ。初めて目が合う。石田はうれしそうに笑っていて、
「おう」
と答えた。二人で兄弟のように地元を走り回っていたあの頃の、懐かしい返事だった。遠い昔、僕は兄貴のように慕われていたんだっけ。
月曜日の一時間目は生物の時間だった。我らがクラス担任が板書するのを眺めながら、僕はまたぼんやりしていた。怪我した右手では字は書きづらくて、ノートをとる気にもなれない。これは、早くなんとかしないとな。
なんとかしないと、といえば、今日登校してみれば、なぜか石田との仲が噂になっていた。休み時間には一部の女子から熱い視線を送られている気がしたし。おい、お前らの目は腐っているのか。
はあ、とため息をついて席を立つ。右手をかばいながら机の間を縫うようにして歩く。
「なあ、小宮」
小宮は読んでいた本から顔を上げて、こちらを見た。
「さっきの授業のノート、貸してほしいんだ。右手がこれだから、写せてなくて」
「わかった」
鈴の音のように澄んだ声でそう言うと、鞄の中からノートを出して、渡してくれた。
「あと、この前は病院まで付き合ってくれてありがとな。助かった」
「いいよ」
「ノート、明日には返す」
そう言ってくるりと回れ右、自分の席へと戻る。
いや、めちゃくちゃ緊張しました。
普段なら谷口あたりに借りるのだが、少し勇気を出して小宮さんに声をかけてしまった。その、病院のお礼もしたかったしな。
何はともあれ、小宮さんノート、ゲットだぜ! いや、借りているだけでゲットはしていないけど、なんかどきどきする。
席に座って少し緊張しながらノートを広げる。……思ったより悪筆だな。落書きもちょくちょくあるし。
いや、せっかくの好意に対して、そんなことを考えてはだめだ。そのギャップがいいじゃないか。落書きとか、かわいいじゃないか。絵、うまいし。
男の絵だった。不良っぽいキャラにカウンターパンチを決めている背の低い学生服の男の絵。右拳が顎に炸裂して火花が散っている。
じっと見ていたら、バッとノートをとられた。
小宮だった。
たたっと席まで駆けていって何かごそごそしたあと、また戻ってきた。目が泳いでいる。顔が少し赤い。
「落書きは、その、気にしないで」
それだけ言うとノートをバンと机において、驚くほどの素早さで席に戻っていった。
あっけにとられていたが、我に返ってノートを開くと、先ほどの落書きのところには付箋が貼ってあって、「見るな危険」と書かれていた。
もしかして……あの絵、僕だったのか?
小宮は、もう席で本を読んでいた。後ろ姿なので、顔はうかがえなかったが、さっきの顔が思い出されて、にやけてしまった。




