12
一方、A子は。
ぬかるむ土に刻まれた足跡に時折視線を向けながら、木々の中を縫って走る。
「乾いてきてるけど、見えるわけ」
土壌の問題か、日当たりの問題か。足を進めるにつれて地を踏む感触は固くなっていき、残された痕跡は徐々に薄れていく。A子の呟いた声は周囲の木々へ吸い込まれて、それに返事をする声は聞こえない。
「ふーん。……ん、」
不意に視界が開けて、小さな小屋が現れた。奥には流れる川の奏でる水音が、穏やかさすら感じさせる。
古びた斧や鍬が立てかけられたそれが、ジョフの話していた山小屋とやらだろう、と迷いなくその扉に手を伸ばした。
「……」
開かない。
突っかかった感触はいくらがちゃがちゃと手を掛け直しても消えず、侵入を拒んでいる。
苛立ちを露わにがんがんと扉を叩けば、中で何かがぶつかる音や倒れる音、ついで騒がしい足音が聞こえるも、
「遅い」
気に留めることもなく、扉を蹴り開けた。蝶番の逝かれた扉がギイギイと泣くのも無視して中に乗り込んでいく。
椅子や木材が散乱する中、ジョフが床に座り込んで、風通しの良くなった入り口を呆然と見上げていた。
「お、まえ!! ぶっ壊れてるじゃねえか!」
「開けるの遅いのが悪い」
「隠れてたんだよ!」
「そう。早く立ってくれる」
「は? なん——」
A子の視線を追って、ジョフも窓へ目を向ける。
先ほどまで対峙していたものより、遥かに大型のコボルトが、窓の外から小屋の中を覗き込んでいた。
「ひっ——」
「……」
巨大な腕が、小屋の中の二人を襲うように大きく動く。窓を突き破る直前に、完全に腰の抜けたジョフの襟首を掴んだA子は開けっ放しになった扉から外に飛び出した。
直後、ガラスの割れる派手な音。窓は枠ごと壊れて壁に大きな穴が開き、明朝を待たずに小屋が崩れるだろうことを予感させた。
「立って」
ぱ、と手を離すと、大木を頼りにジョフが自力で立ち上がる。A子の視線は真っ直ぐに巨大なコボルトに向けられていた。
「……ど、どうするんだ、アレ」
「倒す」
「はあ!?」
「あいつがボスみたいだし。街に来てた6匹ではないけど。倒さなくて良いの」
「良くねえけど、無理だろう」
「は?」
小屋をよじ登った巨大なコボルトが影を落とす。木材の軋む嫌な音と、既に屋根が崩れ始めて細かな破片の落ちる音が風に混じる。
明朝と言わず、もう間も無く朽ち果ててしまいそうであった。
「……小屋、もう壊れてるし良いよね」
「は、小屋? ぅわ、」
今にも飛びかからんとするコボルトに向かって走り出し、
「はあっ!!」
細い脚が、無傷であった玄関側の壁を蹴りつける。凄まじい音を立てて内側に折れていく小屋の上で、バランスを崩したコボルトがそれでもA子の上に飛び降りようとして、
「ふっ!」
すかさず突き上げられた拳が、その顔面を捉えた。勢いのまま、崩れ始めた小屋に向かって巨大な体躯が叩きつけられる。
倒れ伏すその身体につかつかと歩み寄って、
「……」
太い首に鋭く踵が落とされた。
「…………は?」
「無理じゃない」
「いや、え? なんだ」
「だから、無理じゃなかったでしょ」
「…………あ、ああ」
「何かないの」
「た、助かった?」
「違う」
「……ありがとう」
「ありがとうございますA子様、この御恩は一生忘れません、くらいないわけ。……まあ良いや」
ジョフの視線に滲む畏怖の念をスルーして、A子は再び森の奥へと足を向ける。再び腰を抜かしかけていたジョフが、慌ててその背中を追う。
「おい、置いていくな」
「戦えるの」
「無理だ、が!」
肩を突き飛ばされたジョフが鼻から地面に伏せる。文句を言うべくあげた顔の先に、獣の頭が同じく平伏すのを見て言葉を飲みこんだ。
「……まだいるのか」
「知らない。こいつは……あ、当たり」
「最後に山奥まで入った時には、こんなんじゃなかったぞ」
「じゃあ増えたんじゃない」
興味なさげに言うと、適当な長さの枝を持ってまた足を進めていく。
「どこ向かってんだ」
「二人のところ以外ある?」
「あいつら、大丈夫なのか? まあアンタがそれだけ強いなら、」
「さあ。たくさんいたし、」
死んでるかも、とぼやいたA子の声は、大木が倒れる音にかき消された。




