八章・4
わたしはお風呂をお借りしました。入浴中は、お風呂のすぐ外に吉野くんがいてくれました。わたしがお風呂に入っている間、話し相手になってくれたのです。
ちょっとの間も一人になりたくなかったわたしは、吉野くんの心づかいにとても救われました。
お風呂を上がって、借りたパジャマを着て、わたしは吉野くんの部屋に行きました。
吉野くんは部屋で本を読んでいました。
部屋にはベッドの横に布団が敷いてありました。
「幡宮さんはベッドで寝て。僕は下で寝るから」
吉野くんは本を机の上に置くと「これ飲む?」と言ってわたしにコップに入った飲み物をくれました。
「ありがとう」
それはミルクココアでした。わたしはそれを一口飲みました。……とても温かいです。
わたしたちはゆっくりとそれを飲みながら、なんてことのないお話をしました。普段通りのお話です。明日は学校を休むので、時間を気にする必要はありません。休まざるを得ないでしょう。吉野くんも一緒に休んでくれます。
これからどうなるのかとか、漠然とした不安も、吉野くんとお話しているときだけは忘れられました。
「もう、こんな時間だね」
吉野くんが時計を見て言いました。深夜も深夜です。あと五時間程度で学校の始業時間です。関係はないのですが。
「そろそろ寝ようか」
「うん」
わたしは吉野くんのベッドの上に乗りました。今日のお昼ぶりなのですが、ここでお昼寝をしていたあの時が、ずいぶんと前のことのように感じてしまいます。
「電気消すね」
そう言って吉野くんは電気を消しました。部屋が暗くなりました。吉野くんの姿が、少し見えにくくなりました。
「それじゃあ、おやすみ」
そう言って横になろうとした吉野くんの手を、わたしは掴みました。
「え、な、何?」
「……隣で、寝てくれない?」
「え、えっ!」
「お願い……」
暗い中、一人になるのは、嫌です。
「……わ、わかったよ」
「ありがとう」
わたしは仰向けで横になって、ベッドの端に寄りました。その空いたスペースに吉野くんが来て横になりました。そして同じ掛布団の中に体を入れました。シングルベッドに二人というのは、なかなかに狭くて、体のところどころが触れ合ってしまいます。枕は大きめだったので、一緒に使っても大丈夫でした。
わたしは仰向けだったのを、吉野くんの方に体を向けました。
「な、なんでこっち向くんだよ! …………あ、幡宮さん」
「……ご、ごめんね」
「ううん、いいよ。気にせずに、泣いていいよ」
「……お母さんっ……死んじゃった……」
「うん」
「そりゃあ、わたしはお母さんに、ネグレクトを受けていたよ」
わたしはこのことを、吉野くんと初めてあった時、あの喫茶店で言いました。
「でも、それでも、やっぱりわたしのお母さんなんだ」
「うん」
「もしかしたら、わたしが変えてあげられるとも思った。わたしのお母さんは、少し心が弱いところがあったから、わたしが助けになってあげられるとも思った。でも、もう、できない……」
お母さんのことを、嫌いになれればよかったのかもしれません。でも、本心では嫌いになれませんでした。家族がみんな一緒だったときは、たしかに優しかったから。それにやっぱり、たった一人のお母さんだから。
二人で暮らすようになってから、愛情も手料理も、何もくれませんでした。くれたのは、必要最低限のお金だけ。
それでも、嫌いになることは、あまりに難しかったです。
ネグレクトを受けているのに、嫌いになれないなんて、まるで家族という呪いにかかっているみたいです。
「君は、優しいから、誰かを嫌いになることができなかったんだね。それが家族だったから、余計に」
吉野くんはそう言ってくれます。だけど、果たしてそれは、わたしが優しいからなのでしょうか。
優しさって、なんなのでしょうか?
そんなことを考えていると、わたしの体を、ぎゅうっと吉野くんが抱き締めてくれました。
これはたぶん、優しさです。
「ありがとう……」
わたしは吉野くんの胸に顔を埋めました。
「もう、寝よう。夜に暗いことを考えるのは、よくないよ」
「……そうだね。おやすみ」
「うん、おやすみ」
わたしは吉野くんに抱かれたまま、目を閉じました。
わたしはこの夜、吉野くんと初めて会った日の夢を見ました。




