八章・2
まず、わたしの目に飛び込んできたのは、赤色です。深い、深い、赤色です。
部屋中に飛び散った赤色の液体の中に、二人の姿がありました。
一人はわたしの母親です。服のお腹のあたりを真っ赤に染め、光の失せた目で天井を見ていました。
もう一人は、男の人です。一度だけ見たことがあります。彼は、母親の恋人です。彼は肩で息を切らしながら、リビングに突然入ってきたわたしのことを、目を丸くして見ています。右手には、真っ赤に濡れた包丁を持っています。
この状況を受け入れるのに、わたしの頭と心はたいそう時間を要しました。
そうして、わたしが叫び声を上げるのと、その男が声を上げるのは同時でした。
わたしは振り返って、急いでリビングを出ました。足が震えて、走るどころか、上手く歩くこともできません。
玄関まで逃げようとしましたが、すぐ後ろまで男が迫ってきているのがわかりました。このままでは追いつかれてしまう。そう思ったわたしは、玄関ではなく自分の部屋に入って急いで鍵をかけました。
するとすぐに、ドンドンドンとドアを叩かれました。
「おい! 開けろ! 話を聞けよ!」
そしてドアの外から大声で男が、切羽詰まった様子でそう言いました。わたしは耳を貸しませんでした。
「違うんだよ! あいつが、あいつが先に俺を殺そうとしてきたんだよ! 包丁で!」
わたしは無我夢中でドアの前に、バリケードになりそうなものを急いで置きました。しかしわたしは非力ですから、ろくなものは置けませんでした。椅子とか、布団とか、本とか。そんな、果たしてバリケードになるのか怪しいものばかりでした。
「だから、俺は! 正当防衛なんだって! なあ! だから話聞けって! ……聞いてんのかよおおらあああ!!」
男はそう喚き散らしながら、執拗にドアを叩き続けました。
わたしは警察に連絡することを、遅まきながら思いつきました。
しかし、携帯電話が見当たりません。ポケットの中にも、リュックの中にもありません。もしや、吉野くんの家に忘れてきた? それかどこかで落としてきたか?
とにかく、わたしは外部との連絡手段を失いました。
もう、八方ふさがりです。どうしようもありません。
気がつけば、ドアを叩く音が止んでいました。諦めてどこかに行ったんでしょうか?
それだったら、どれほどよかったのでしょう。
次に聞こえたのは、ドゴンッ! という、とても手で叩いたとは思えない音でした。
体当たりしているのか、それとも何か、重たいものでも持って来て、ドアを強引に破ろうとしているのでしょうか。
どちらにせよ、こんな薄いドア、そう長くは持ちません。男がドアを破って侵入して来れば、わたしはなすすべもなく殺されてしまうことでしょう。
……怖い、怖い、怖いです。
わたしはドアからなるべく離れて、耳をふさぐように頭を抱え込んで、うずくまりました。しかし片耳しかふさげないので、音はひどくよく聞こえます。
口が震えて上下の歯が当たりガチガチと音を立てています。目からはとめどなく涙があふれてきます。
嫌だ。死にたくない。殺されたくない。
せっかく、大好きになれる人に会えたのに。
せっかく、人として変われたのに。
せっかく、大好きな人と恋人になれたのに。
わたしの頭の中に、吉野くんの顔や声や匂いなんかが、まるで走馬燈のように浮かんできます。
もう会えないなんて嫌だ。嫌だ。嫌だ。
…………吉野くん。
吉野くん。
「………………………………………………………………助けて」
真っ暗な部屋の中、わたしはただ一言、そうつぶやきました。




