八章・1
吉野くんと別れたあとのわたしは帰り道を、とても満ち足りた気持ちで歩いていました。
この感情は、いったい日本語で何と表現されるのでしょうか。たくさん本を読んできたつもりのわたしでも、いい言葉が思いつきません。
わたしは本当に、吉野くんに会えて良かったと思います。吉野くんに会えたことは、わたしにとって一番の幸せです。
吉野くんはわたしに会ってだいぶ変わりましたが、わたしだって吉野くんに会ってかなり変わったと思います。
まず大きいものでは、他人の優しさを受け入れることができるようになりました。昔は優しさには何か裏があると思い込んで拒絶していましたが、今では違います。普段の生活の中での、わたしの腕に対する周囲からの思いやりを、素直に受け取ることができます。他人の無償の優しさに、お礼を言えるようにまでなりました。
それに、他人とのかかわりが楽しいことであることも知りました。他人との会話が楽しいことを知りました。以前は周囲の人をすべて敵だと思っていました。誰も彼もがわたしをいじめてくる敵で、誰もわたしを理解してくれないと思っていました。それでわたしは周囲に分厚い壁を作っていました。だけれどそれはわたしの思い違いで、わたしの味方も理解者も、壁の向こうにはちゃんといました。わたしが会いに行かなかっただけです。会おうとしなかっただけです。
他にもいろいろ、わたしには変化がありますが、それはどれもこれも、きっと、吉野くんのおかげなのです。吉野くんに会わなければ、わたしはきっと幸せを感じないまま死んでいったことでしょう。大げさ? そんなことはありません。
あんな人は、きっと、他に一人としていません。
わたしにとって、いなくてはならない存在。一番頼りになる存在。
ならばわたしにとって、吉野くん、あなたはわたしの右腕?
いいえ、違います。右腕では、部下みたいになってしまいます。
あなたは、わたしの左腕。
わたしに足りなかったものを補ってくれる存在。
もしかしたら、わたしが生まれた時に左腕が無かったのは、もうすでに吉野くんという存在がこの世にいたからかもしれませんね。
これでもしわたしに左腕まであってしまったら、きっと、他人よりも幸せすぎることになってしまったから、神様は調整をしたのでしょう。
「はあ、好きだなあ」
わたしは一人、雪の道の真ん中でそっとつぶやきました。
わたしはずっと吉野くんと一緒にいたいです。
ずっとずっと、傍にいたい。傍にいてほしい。
大好きだから。
たとえ進路が違って、通う大学が違っても、心は一緒にいられるはずです。
そして、いつかは……ね。
妄想が膨らみますね。わたしと吉野くんとの将来の妄想が膨らみまくります。
そんな、とても人には言えない妄想をしながら歩いていて、やがてわたしは自分の家に着きました。
珍しく、電気が点いています。まだ、母親が起きているのでしょう。
「……ただいま」
わたしはいつものように、玄関に向けてあいさつしました。
しかしこの時のわたしは、さっきのことで気分がよくなっていて、普段は絶対しないことをしました。
浮かれて、いたんでしょうね。
わたしは電気のついているリビングのドアを開けました。
そこにいるであろう母親に「ただいま」を言うために。
まだ、もしかしたら、わたしたちはやり直せるのではないかと思ったのです。
人との交流の仕方を知ったわたしなら、母親との関係をやり直せるのではないのかと、思ったのです。
もう一度、小さい頃みたいに、彼女のことを「お母さん」って呼べるようになるんじゃないかと、思ったんです。
だけれど、それはもう二度とかなわないということを、リビングに広がった光景を見て、わたしは知りました。思い知りました。




